啓示

Jack Torrance

啓示

「いやー、お前んちのかみさんは美人でスタイルも良くて羨ましいよ。それに比べて、うちのかみさんときたらよ」


アルヴィンがリヴィングで泥酔しながら友人のデイルに管を巻いている。


「そんな事ないさ。お前のかみさんはその分、気立ても良くて献身的じゃないかよ。それに比べて、うちのかみさんなんて顔は良いかも知んないけど、そりゃ気の強い女だぜ」


ヘレンはキッチンでアルヴィン達の酒の肴を拵えながら沸々と沸き起こってくる怒りを堪えながら心の中で泣いていた。


何故、私がいつも献身的に尽くしている夫から人前で謂れのない非難を受けて辱められなければならないのだろう。


私が夫に一体、何を仕出かしたと言うのか。


それに夫の友人も私をフォローしているようで全然フォローになっていない。


自分の奥さんの方が結局は美人だとひけらかしているようなものではないか。


ヘレンはバッファローウィングとマカロニチーズ、それとフライドポテトを手際よく拵えてからリヴィングに運んだ。


デイルは悪ぶれる事無く言った。


「ありがとう、ヘレン。いつも済まないね」


作り笑い浮かべているデイルに人間不信すら覚えるヘレン。


ヘレンはその様を偽善と捉えた。


さっきまで威勢よく妻の陰口を叩いてけなしていたアルヴィンも体裁が悪い様でだんまりを決め込んでいる。


ありがとうすら言わない。


ヘレンも苛立たしい内心を暴露せずに良妻賢母ぶりを発揮した。


「ゆっくりしていってくださいね」


デイルに笑みを返す。


ヘレンがキッチンに戻りコーヒーを淹れて椅子に掛けて一息入れる。


「うちのかみさんはちゃんとやってるようで抜けてるところが多いんだよ」


また夫が小康状態から勢力を強めたハリケーンのように威勢を盛り返し妻の不平不満をのべつ幕無しに捲し立てている。


ヘレンは身動ぎもせずに一言一句聞き逃さずにその誹謗を胸に刻む。


胸が痛み心が張り裂けそうだ。


ヘレンはハイスクール時代を回顧する。


不美人だとは自覚していたものの周囲の目は嘲笑に満ちていた。


「見て、あれ、寸胴で括れなんてあったもんじゃないわね。それに、あの豚鼻に厚ぼったい唇。きっと、将来は整形するでしょうね」


容姿を陰で罵られ誹謗の的となっていたハイスクール時代。


ハイスクール卒業後は地元スーパーの商品補充係として5年務めたが、その容姿からも職場では孤立し女子社員に有る事無い事陰口を叩かれ馴染めずに離職した。


その後、清掃会社に再就職しビルや病院の清掃をした。


人が嫌がるトイレの掃除もした。


私は、このまま生涯独身で寂しい人生を送るのかと自暴自棄にも陥った。


頼れる親友などいなかった。


母の勧めで結婚相談所に登録した。


そこで出会ったのがアルヴィンだった。


人間、誰しもが初対面には猫を被っているものである。


アルヴィンも例外ではなかった。


アルヴィンもヘレンに引けを取らず決して面構えの良い男ではなかった。


そんな事はヘレンは気にしていなかった。


私の内面を見てくれる人。


容姿ではなく私自身を愛してくれる人。


アルヴィンは良い人物を当初から演じ過ぎていた。


この人は私の容姿ではなく私を愛してくれてるんだわ。


ヘレンは錯覚した。


そして、結婚した。


3ヶ月、半年、1年と経過するに連れアルヴィンは本性を徐々に曝け出していった。


人間とは襤褸(ぼろ)が出る生き物である。


馴れが人間を駄目にしていく。


最初はちょっとした揶揄だった。


しかし、月日を重ねるに連れその揶揄は毒気を帯び誹謗へと変わっていった。


そんな時に息子を授かった。


名をミカエルと名付けた。


旧約聖書に現れる大天使聖ミカエルに準らえての事だった。


きっと、この子が私の天使になってくれるとの願いを込めて…


ミカエルはすくすくと成長していき今では8歳になっていた。


アルヴィンとデイルが酒盛りをした日から2ヶ月後の事だった。


アルヴィンを仕事に送り出しミカエルを学校に送り出してから朝の慌ただしさから解放されてブランチを摂っていた時だった。


郵便配達人の気配を感じた。


食べかけのハムエッグトーストを胃袋に押し込みマグのコーヒーを飲み干した。


丁度、見ていた再放送のテレビドラマが終わった。


リモコンでテレビのチャンネルを切り替えるが別に見たい番組も無くそそくさとポストに郵便物を取りに行った。


封筒が一通入っていた。


裏面の送り主に目をやった。


〈アシュトン カーニー×カイリー ベラミド〉


男女の連盟で書かれていた。


ヘレンはきっと結婚式の招待状だと思った。


以前にアシュトンが彼女を連れて家に遊びに来た事があったからだ。


アシュトンはアルヴィンの幼馴染だ。


アルヴィン宛の封書なので勝手に開封するのは気が咎めたのでリヴィングのテーヴルの上に置いておいた。


夕刻、アルヴィンが帰宅するなりヘレンは言った。


「お帰りなさい、あなた。あなたの幼馴染のアシュトンから手紙が届いてたわよ。リヴィングのテーブルの上に置いてるわ」


それを聞くなり「ああ、そうか」とだけ言い洗面台で手洗いと嗽を済ませるとリヴィングに行き封書を開封してさっと目を通し風呂場に行った。


ヘレンはキッチンからアルヴィンが出て行くのを見届けるとリヴィングに入った。


開封された封書がそのままテーブルに置かれていた。


ヘレンは、それを手に取って目を通した。


やはり結婚式の案内状だった。


そこには、ヘレンにも同伴で来て欲しいとの文言も見て取れた。


ヘレンは少し胸が踊った。


祝福の席に招かれるなんて光栄な事だわ。


何を着て行こうかしら。


その時だった。


アルヴィンが腰にバスタオルを巻いてリヴィングに入って来た。


「お前、何を見ているんだ」


アルヴィンが不機嫌そうに言った。


「ごめんなさい、あなた。つい目に入ったもので。私ったら。それにしても御目出度いわよね。アシュトンが結婚なんて。私、何を着て行こうかしら」


アルヴィンは、そんなヘレンを冷たくあしらった。


「いや、お前は来なくていい。俺一人で行く」


ヘレンはすぐさま察知した。


この人は私と一緒にいるところを人目に曝したくないんだわ。

結婚式には同じ幼馴染のデイルも来る。


美人な妻を伴って。


それに、花嫁のカイリーも家に遊びに来た時に一度面識があるだけだが、とても可愛らしい彼女だった。


その披露宴に夫は不美人な私を伴って出席したくないんだわ。


自分の妻が他所の綺麗な奥さんと比較されるのが我慢ならないんだわ。


ヘレンは、その冷遇を咎める訳でもなく大人しく身を弁えた。


「解りました。アシュトンとカイリーにお幸せにとだけお伝えください」


ヘレンにとって、それは屈辱だった。


ヘレンは自問自答の日々を悶々と送っていた。


出会った当初の優しい夫は身を潜め今ではぶっきらぼうで強硬的な態度で私に接している。


離婚するべきだろうか。


でも、ミカエルがいる。


あの子にとって夫は父親である。


息子から父親を奪ってもよいものであろうか?


離婚すれば経済的にも困窮するのは一目瞭然である。


その論理的観点から養育権は夫に渡るかも知れない。


そうなれば、息子から父親を奪うのではなく、私から息子が奪われるのである。


夫が息子の養育権を手放すであろうか?


ヘレンは精神的に困憊していき些細な粗相も多くなっていった。


その度にヘレンを叱責するアルヴィン。


ヘレンの気持ちはその度に蟻地獄のように負のスパイラルに呑み込まれていった。


その日もヘレンは失態を犯してしまった。


アルヴィンがソファーに置いていた眼鏡を知らずに尻で踏み付けてレンズが割れたのである。


アルヴィンは道路工事の作業員で埃っぽい中での作業を毎日強いられている。


目は幼少の頃から強度近視で眼鏡がなければ1フィート先の物もぼやけて見える程の近眼だ。


現場作業ではコンタクトを入れてる状態で埃が眼に入ると違和感が激しいので常に眼鏡を掛けている。


ヘレンは健気にも自分の方から頭を下げた。


「あなた、ごめんなさい。ソファーにあなたの眼鏡が置いているのを知らなくて壊してしまったの。本当にごめんなさい」


そもそも、アルヴィンがケースにも入れずに放置している事にも非があったにも関わらず。


ヘレンが心の底から詫びているにも関わらずアルヴィンの怒号が飛んだ。


「俺が眼鏡無しで生活出来ないってのをお前も知っているんだろうがよ。この忙しい時にまた余計な仕事を増やしやがって」


ヘレンは黙って聞いていた。


物凄い剣幕でがなり立てる夫。


その時だった。


ヘレンは脳の奥深くでやさしく諭すような啓示が聞こえて来た。


「この男は眼(まなこ)は備えているもののその機能は果たしていない。盲人同然。眼で見た物を容姿や外見、好みで分別しその人間の内面、その心の中に宿る友愛な精神を見て取ろうとしない。心眼を開かせてやる時が来ている。それを実行するか否かはあなたの気持ち次第」


その声、もしかすると啓示と言っていいのかも知れない。


この声は何なのかしら?


神?


守護神?


天使?


はたまた、堕天使?


その声が、ふとした瞬間に脳内でやさしい声音で語り掛けてくるのである。


しかし、日々続く夫の叱責。


友人を酒宴に招いた際に自分の容姿や失態を愚弄する言動をキッチンから聞き耳を立て聞いていた。


人間性や容姿、些細なミスを上げ足を取るように誹謗される日々が重なるにつれ、その啓示は老婆の嗄れた脅迫めいたものへと変わっていった。


毎日、その老婆の嗄れた幻聴を聞きヘレンは精神科を受診するようになった。


医師には夫との日常生活でストレスを感じ幻聴が聞こえるとだけ言った。


詳細な内容までは口外したくなかったのでその事だけを伝えた。


「スタインさん、ご主人が仰られる事を深刻に捉えずに受け流すくらいのゆとりを持たれた方が宜しいかと思われます。何か趣味を持たれるとか気晴らしにお出かけになられるのも良いかと思います。後は紅茶を飲んだり半身浴をしたりリラクゼーション効果のあるものを取り入れられて日常に彩りを添えられるのも宜しいかと思います。何事も深刻にお受け止めになされずに楽しい事だけを考えられてゆったりとした気分で過ごされるのです。人間とは本質や気性を変えるのは難しい生き物ですがマインドコントロールで多少は上方修正出来ます。また、何かありましたらご来院ください。今日は薬を2種類出しますのでご帰宅後に服用されてください」


ヘレンは薄紫色の睡眠薬と薄いピンク色の精神安定剤を処方してもらい帰宅した。


しかし、薬を服用してもあの老婆の声は聞こえその口調も悪口雑言となっていった。


通院を開始してから1ヶ月が経過しようとしていた。


ヘレンの精神的不調と幻聴は改善するどころか日増しに悪くなっていた。


そんな、ある日ミカエルが学校から連絡ノートを持ち帰りキッチンのテーブルの上に置いていた。


ヘレンは目を通した。


2週間後の月曜に授業参観があると書いてあった。


ヘレンはミカエルを呼んだ。


「ミカエル、ちょっとキッチンに来てちょうだい。お母さん、聞きたい事があるから」


キッチンにグローブとボールを手にしたミカエルが入って来た。


「ミカエル、今度、授業参観があるわね。ちゃんと、お母さんに言わなきゃ駄目じゃないの。何の授業があるの?お母さん、お粧しして行かなくっちゃね」


ミカエルはヘレンと目を合わさないように下向き加減で言った。


「お父さんに来てもらうからいいよ。お母さんは来なくていいよ」


ヘレンは息子に問い質した。


「何でお母さんじゃ駄目なの?去年もお母さんが行ったでしょ」


ミカエルが不服そうに言った。


「だって、ジャドやコーヴィーがお前んちのかあちゃん豚鼻でデカ尻でまんま豚みてえだな。いつ出荷されるんだよって言ってくるんだよ。だから、お母さんは来なくていいよ。僕、恥ずかしいんだよ、お母さんを人に見られるの。僕、野球の約束してるんだ。もう行っていい?」


ヘレンは絶句した。


放心状態で言葉も出なかった。


「もう僕行くよ」


ミカエルが駆けてキッチンを出て行った。


私の唯一の心の救い。


拠り所と言っても過言ではない。


この子がいるから私はどんな辛い事にも耐え忍んでやって来れた。


それが、あのミカエルまでもが…


夫のように私を蔑み私の存在を遠ざけるなんて。


夕刻


アルヴィンが帰宅して風呂から上がりリヴィングでビールを飲んでいるとミカエルが入って来て言った。


「お父さん、今度の授業参観に僕、お父さんに来て欲しいんだ。来てくれるよね、お父さん?」


アルヴィンが小首を傾げながらミカエルに問い質した。


「何でお母さんじゃ駄目なのか?」


「お母さんが来たら僕クラスのみんなにからかわれるんだ」


アルヴィンがビールを飲みげっぷを漏らして言った。


「ふーん、そうなのか。解った、ミカエル。お父さんは、その日に休みを取って行くようにしよう。お父さんにいいとこ見せてくれよ」


「うん、ありがとう、お父さん」


キッチンでその会話を聞いていたヘレン。


あの老婆の幻聴が鼓膜を介さず脳内でリフレインしている。


「人を外見で判断し決してその中身にまで目を向けようとしない者。奴らは、もはや盲(めくら)じゃ。開眼させる時は今じゃぞ」


嗄れた声でヘレンの脳内に語り掛けて来る。


その声が反響し鳴り止まない。


夕食を終え皆が寝支度を整え就寝に入った。


眠れないヘレン。


夫の罵声や怒号。


過去の己を誹謗中傷してきた人々の人を蔑んだ冷笑。


愛している息子からの心臓を抉る一言。


一齣一齣がフラッシュバックし抑制出来ぬ憤怒の想い。


ヘレンは深夜3時にベッドから出てミカエルの部屋に向かった。


アルヴィンとは随分前から寝室を共にしていない。


忍び足で二階まで階段を昇って行く。


惨劇のプロローグが密やかに幕開けするかのようにゆっくりとゆっくりと。


ミカエルを起こさぬように部屋の扉をそっと開けた。


そろりそろりとベッドに歩み寄る。


ベッドのミカエルの横に腰掛け寝顔を覗き見るヘレン。


ミカエルの髪の毛を撫でてやりながら愛おしそうに覗き込んでいた。


むにゃむにゃと寝言を言うミカエル。


ヘレンは自室から持参して来た延長コードをミカエルの首に起こさない様にゆっくりと這わせた。


その瞬間ミカエルがパッと目を覚ました。


「お、お母さん、何してるの?」


ヘレンの表情は目を見開き眉尻は吊り上がり夜叉の形相に変貌していた。


「お前にもあのクソ野郎の血が半分入ってんだよ。私が可愛がって育ててやったのに今日のお前のあの態度は何だい。この恩知らずが。お前なんか死んじまえばいい。この世からいなくなればいいんだよ」


嗄れた声で言い放ち渾身の力をこめてコードを引っ張りミカエルの首を絞めた。


「や、止めて、お母さん」


掠れた声で哀願するミカエル。


腕(かいな)の力を緩める事無くコードを引っ張るヘレン。


ミカエルの顔面は瞬く間に青紫に鬱血していき絶命した。


先程までの夜叉の表情から一変し、いつものやさしい表情に戻ったヘレン。


ミカエルの頬に手のひらを添えてやさしく撫でてやるヘレン。


ヘレンの目から一滴の雫がミカエルの頬を伝った。


首にコードを巻き付けたままヘレンは部屋を後にした。


小走りで階段を駆け降りキッチンに向かった。


その表情はまた夜叉の形相に変貌していた。


シンクの下の包丁差しから包丁を抜き取り洗面台に向かった。


家内で鏡があるのは此処だけだった。


ヘレンは包丁の柄で鏡を叩き割った。


亀裂が入る鏡。


そして、ヘレンは包丁で人差し指を斬りつけた。


骨まで見えるほどの切り傷だった。


そして、蜘蛛の巣のように亀裂が入った鏡に血文字でこう書いた。


〈人生とは盲目なり 生きながらにしてその地獄を味わうがいい〉


洗面台の鏡が割れた音を聞きつけアルヴィンが野球のバットを手にして寝室から出て来た。


ヘレンもアルヴィンの寝室に向かおうとしていた。


そして、二人はリヴィングで鉢合わせた。


アルヴィンが髪を振り乱し眉間に皺を寄せ殺気立った鬼畜の形相のヘレンを拝んで縮み上がった。


しかも、手には包丁を握り指先からは鮮血が滴っている。


アルヴィンは眼鏡を掛けたその眼でヘレンに畏怖の念を抱いて凝視しながら震える声音で言った。


「い、一体、お、お前、ど、どうしちまったんだ。そ、そ、その手に握ってるもんでどうしようっていううんだ」


ヘレンは一歩アルヴィンに躙り寄った。


後退するアルヴィン。


尚も無言で躙り寄るヘレン。


アルヴィンは後退し続け壁にまで追い込まれた。


「く、来るな。それ以上近寄るとこのバットでお前の頭をかち割るぞ」


バットを構える手が小刻みに震えている。


アルヴィンの背中に吹き出す脂汗。


冷酷で邪気に満ちた視線で黙ってアルヴィンを睨めつけるヘレン。


その視線は人を蔑んだ冷ややかなものであった。


それは、己が今まで他人から被った人を蔑み悪意に満ちたあの視線と同一のものであった。


ヘレンがアルヴィンを嘲笑するように言い放った。


「おい、クソ野郎、お前なんか殺す値打ちも無い社会の底辺に巣食っているクズだ。生きて地獄を味わえ。私の呪縛から一生逃れられないようにしてやる。その腐った眼を見開いてよく見てろ」


ヘレンは、そう言い放ち刃先を己の喉元に押し当てるとにたりと笑って渾身の力を込めて横にスライドさせた。


ヘレンの喉元が蝦蟇口のようにパックリと開き真っ赤な血飛沫がアルヴィンの顔や壁一面を真紅に染めていく。


ヘレンは後ろ髪を引かれるようにバタンと仰向けに倒れた。


首から流れ出る血がピンクと白の市松模様のリノリウムの床に血の轍を作っていく。


ひくひくと痙攣をおこし死に絶えていくヘレンを横目にわなわなと震えながらアルヴィンはその轍を踏まない様にリヴィングを出てミカエルの部屋に向かった。


開け放たれているミカエルの部屋を恐る恐る覗いて見ると、そこには延長コードを首に巻かれたまま目を見開いているミカエルの骸。


口を手で押さえ呻き声とも唸り声ともつかないような低い嗚咽交じりの音声を漏らすアルヴィン。


すぐさま一階に降りて911に通報した。


「もしもし、どうなされましたか?」


オペレーターの男性が相手を動揺させないように落ち着いた毅然たる態度で問い掛けてきた。


「すすぐに警察を寄越してくれ。か、かみさんが狂っちまって息子を絞め殺して自分も俺の目の前で首を掻っ捌いて自殺しちまった。は、早く警察を寄越してくれ」


7分後


巡回していたパトロールカーがアルヴィン宅の前で停まり運転席と助手席から巡査が走って玄関に駆け寄った。


玄関の扉は開け放たれていて上がり框の所でパジャマ姿で血塗れになってがくがくと震えながら体を丸め足を抱え込むようにして座り両の腕はがっちりと脛の前で組んでいるアルヴィンの姿がそこにあった。


その異様な光景に駆けつけた巡査は一瞬たじろいだ。


巡査はアルヴィンの方を凝視しながら言った。


「げ、現場は?」


アルヴィンはがくがく震えながら首を家の奥の方へ回し顎でしゃくって無言で示した。


巡査達が先ずリヴィングのヘレンの遺体を拝む。


首はパックリと開き何かに取り憑かれたかのような鬼畜の形相で目を見開き仰向けに横たわっているヘレンの骸。


壁に飛び散った鮮血の飛沫と血の轍もその後流れ出た血液で血溜まりとなっていた。


目を背けたくなるような惨劇の光景が巡査達の頭を過り陰鬱な気分にさせる。


一人の巡査が二階に向かい首に延長コードが巻き付いたまま見開いた目で天井見つめ放埒しているミカエルの骸を目にし巡査は更に気が滅入った。


巡査はすぐに殺人課と鑑識を手配し現場の保全に務めた。


ヘレンの精神科の受診歴や服用している薬。


アルヴィンの証言や洗面台の割られた鏡に書き殴られた血文字などからヘレンが気を違(たが)えて無理心中に及んだと断定された。


このような凄惨な事件だったのでヘレンとミカエルは内輪のみで密葬に伏せられた。


アルヴィンはこの事件がトラウマとなりPTSD(心的外傷後ストレス障害)と診断され仕事を休職していた。


病院を受診し酒に溺れる日が続いた。


ヘレンがあの惨劇を起こす前から友人達を家に招き酒宴を開く事が多かったアルヴィンは家にかなりの量のウイスキーやジン、それにラムなどをストックしていた。


そのボトルを空にする日々。


アルヴィンは素面の時はほぼ皆無に等しくヘレンが買って来ていたボトルを次から次に空にしていった。


しかし、そのボトルは未開封の筈なのに何故か封が切られていた。


常に酔い潰れていたアルヴィンはそんな事にも頓着せずにただ目の前の酒を欲していた。


酒の味が変わっているのみも気付かずに…


その内、PTSDの症状が悪化しているにも関わらず病院も受診しなくなっていった。


家に引き籠り一歩も外に出なくなった。


食料品などはアルヴィンの身を心配した友人達が差し入れしてやっていた。


アルコール依存症になり酒を控えるように窘められるが聞く耳を持たずに浴びる様に酒を飲んでいた。


そんな風な生活を送り自然と目がかすんでいくアルヴィン。


眼鏡を掛けていても以前より視力がどんどん落ちていく。


アルヴィンは不安に駆られ出した。


何が原因なのか?


以前はアルヴィンは道路工事に従事していたので仕事をしていた時は眼を洗眼液で頻回に洗眼していた。


最近は専ら家で酒を浴びるように飲む日々。


道路工事に従事していた時のような埃で目に違和感を感じるような事もなかった。


視力が低下し眼の異常を感じていたアルヴィンは、あの惨劇以来、久方振りに洗眼液で眼を洗った。


それも酩酊した状態で。


何か前とは違うなという感覚だった。


眼がひりひりした。


しかし、酩酊状態で正常な感覚を失い全ての感覚が麻痺していたアルヴィンは両眼の眼を洗眼し、また酒を呷って寝た。


4時間後


まだ酒が全然抜けてないアルヴィンは意識を朦朧とさせながら目を覚ました。


部屋はすっかり暗くなっている。


俺は、どれくらい寝たんだ?


眼鏡を掛けて時計を見る。


何も見えない。


アルヴィンは時計に付いているバックライトのボタンを押した。


それでも見えない。


少しずつ意識は明瞭になってくるのだが、幾ら目を凝らしても何も見えない。


見えない。


見えない。


見えない。


目をしっかり開いているのに何も見えない。


目がまだ少しひりひりする。


その時、アルヴィンには聞こえた。


笑い声が。


「フフフフフ、フフフフフ」


人を嘲り侮蔑を込めたような笑い声。


そして、何も見えないアルヴィンの目の前に青白い光がぽわんと浮かんで見えた。


鬼火だった。


その青白い光はふっと消えたかと思うと首が蝦蟇口のようにパックリ開いたヘレンがしたり顔で現れた。


部屋の中の物は一切見えないのにヘレンの人を食ったような嘲笑した表情の顔だけが見えるのである。


アルヴィンは、これは幻覚か現実かどちらともつかないような表情でそのヘレンの生霊をじっと見ていた。


ヘレンの生霊が一頻りけたたましく笑った後に嗄れた声音でアルヴィンに語り掛けた。


「お前は何処まで行ってもどうしようもない馬鹿で間抜けなクズ野郎だねえ。ボトルの封が切られているのを不思議に思わないのかねえ。私がボトルの中身を3分の1捨ててメチルを全部のボトルに入れておいたんだよ。味も分からない馬鹿なんだね、お前は。私が毎日拵えてやった料理にも美味いの一言も言わずに感謝の気持ちの一つも示さなかったクズ野郎が。それに、お前、目を洗眼した時も何も違和感が無かった訳じゃないんだろう。あの洗眼液の容器の中身も全部捨てて食器洗浄機用のアルカリ洗剤を入れておいたんだよ。お前は視力は弱かったかも知れないが眼鏡を掛ければ普通の生活が営めた。お前は私の容姿を侮辱し目に見える感謝すべき事でさえ注意を払わずに黙殺しのんべんぐらりと過ごしてきた。私が血文字で書いた文言を覚えているか。〈人生とは盲目なり 生きながらにしてその地獄を味わうがいい〉人は初めてその視力を失った時に心で物事を見るんだよ。心眼って言う奴さ。そして、人は何かを失った時に初めて目に見えぬ苦しみを実感していく愚かな生き物なんだよ。分かったかい。生きながらにして地獄を味わうがいいって意味がよ」


アルヴィンはヘレンの生霊をもう見えていない眼でしかと見た。


背中に伝う脂汗。


部屋はそれほど寒くないのに背筋に寒気が走る。


見えない目。


アルヴィンはヘレンの生霊が言っていた言葉が耳にこびり付いて離れない。


「生きながらにして地獄を味わうがいい」


何度もその言葉が狂ったオウムのようにリピートしている。


アルヴィンは壁伝いに手探りでクローゼットに隠してあるリボルバーを取りに行った。


アルヴィンはヘレンの起こしたあの忌まわしい惨劇以降、もしもの時の為にリボルバーを家に置くようになっていた。


それは、もしもの時に自分が死にたくなったらという用心からであった。


掛けてある服や仕舞ってある様々な物を掻き分けてリボルバーを手にした。


クローゼットから手探りで出てリボルバーの撃鉄を起こした。


銃弾は死にたくなった時に躊躇なく引き金を引けるようにいつも詰めてある。


蟀谷に銃口を当てて躊躇する事無くトリガーを引いた。


カチッ


弾は発射されなかった。


まだ酔いが残っているが意識は明瞭だ。


俺は死のうとしているんだ。


弾詰まりか。


アルヴィンは震える手でまた撃鉄を起こし銃口を蟀谷に充て引き金を引いた。


カチッ


虚しい金属音のみが室内に響く。


すると、ヘレンの生霊がまたアルヴィンの前に現れた。


 「フフフフフ、本当にお前は馬鹿な男だねえ。生きて地獄を味わうがいいって、さっきから言ってるだろう。私がお前を楽に死なせる訳がないだろう。お前の生き地獄が私の唯一の楽しみなんだからねえ。ロープで首を吊ろうとしても、そのロープは切れて未遂に終わるよ。ビルから飛び降りても奇跡的にお前は助かり障害が増えるだけだよ。車に飛び込もうが列車に飛び込もうが同じ事。分ったかい。フフフフフ、フフフフフ…」


ヘレンの笑い声がアルヴィンの脳内で静かに木霊していた…

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