失踪記
祐喜代(スケキヨ)
第1話 1日目
これは僕の生き辛さが限界に達してダメダメだった時の話。
仙台に住んでいた20代の半ばくらいに、僕は失踪した。
きっかけはゴールデンウィークの最終日。
バイト先の友達が急に彼女連れで僕の家に遊びに来た。
二人で旅行に行って来たらしく、楽しそうな土産話をいっぱい聞かされた。
僕のゴールデンウイークは飛び休で、特に何の予定もなかった。
遊ぶ金もあまりなかったから、家でムンクの作風を真似た河童の油絵をひたすら描いていた。
僕は人といる時はだいたい陽気だけど、まだ乾いていないその河童の絵は陰気だから裏返しにして部屋の隅に置いておいた。
彼女と充実した連休を過ごした友達と、家で一人陰気臭い絵を描いていた僕。
その明暗になんかムシャクシャして僕も急にどこかへ行きたくなった。
友達と彼女が「この後二人でご飯食べに行く」と言って、楽しそうに帰っていった。
明日バイトに行く気が全然なくなり、思い切って休もうかどうか悩みながらその日は寝た。
翌朝、いつもの時間に目覚ましが鳴っても、僕はそのまま布団の中に入っていた。
仮病を使って休もうかと思ったけど、嘘がつけないので会社に電話するのが億劫だった。
それまで僕はずっと無遅刻、無欠勤だった。
たとえ本当に体調が悪くても、バイトを休む事にはものすごい罪悪感があった。
いっその事失踪しようかな……。
どうするか迷っていたら大胆な発想が浮かんで来た。
小心者だから普段はあり得ないけど、とりあえず近くのATMで10万円をおろしてみた。
出勤時間が近づいて来た。
会社に行くか? 失踪するか?
会社にはどうしても行きたくなかった。
とりあえず黒いシャツと黒いキャスケットと黒いジーンズに着替えた。
ホントに失踪する?
まだ迷っていた。
油絵に使うテレピン油の臭いが充満している狭い部屋とつまらないバイトの日常。
来る日も来る日もずっとそんな毎日だ。
そう思ったら財布だけ持って部屋を出ていた。
当時住んでいたアパートはバイト先の近くだったので、職場の誰かに見つかったらマズイと思い、とりあえず最寄りのバス停へ急いだ。
そして来たバスに乗り、仙台駅へ向かった。
バスは出勤や通学する人たちで満員になっていた。
バスのつり革に摑まったら、少し解放感があった。
あてもなく目的もないまま仙台駅へ着いた。
高速バス乗り場の待合所が目に入ったので、とりあえずそこで東京行きのバスチケットを買ってみた。
中学の修学旅行以来、僕は東京へ行った事がなかった。
東京に憧れはなかったけど、一度は一人で大都会を観光してみるのも悪くないと思った。
東京行きのバスが出発するのは午後からだった。
今頃バイト先から僕の携帯電話にバンバン電話がかかって来ているだろうと思った。
不審に思った会社の人が僕のアパートまで様子を見に来てるかもしれない。
そんな事を考えながら平日の街をぶらぶらした。
もう日常には戻らないし、戻れないだろうと思った。
財布の中の10万円を使い切ったら、そのまま野垂れ死にしようと思った。
アーケードの商店街をぶらつき、国分町の繁華街の方へ足を向けた。
午前中から営業している安い風俗を見つけたので時間潰しに入った。
野垂れ死にする前にエロい事をしておかないと後悔しそうな気がした。
客は僕一人だったので、すぐに案内された。
お店の女の子にHなサービスを受けてから、まだ時間があったのでいろいろ話した。
お店の女の子に「バイト辞めて東京へ行く」と言ったら、「お土産買って来て」と言われた。
帰ってくるつもりはなかったけど、なぜか「うん」と答えて店を出た。
それから仙台駅に戻り、東京行きの高速バスが来るまで待合所で時間を潰した。
会社を黙ってやめた罪悪感はもうだいぶ薄れていた。
その代わりに実家の家族へ向けた罪悪感が徐々に湧き始めていた。
何日も連絡が取れない状態が続けば、当然会社から実家の方へ連絡が行く。
ひょっとしたらもう行っているかもしれないと思った。
バスを待っている間、実家の家族が慌てふためく様子をずっと想像していた。
長い事待って出発時間になり、東京行きの高速バスが来た。
まだ後戻り出来るけど、バスに乗った。
指定された席につくと、社会からドロップアウトする恐怖と解放感が綯い交ぜになって複雑な気分だった。
とにかく窓を開けて、景色がだんだん仙台から離れていく様子をずっと眺めていた。
仙台で出会った友達や知り合いたちの事を思い出して、またいろいろ悩んだ。
いざドロップアウトしてみると、これまで人と築いて来た良い関係も悪い関係も全て足枷になるような気がした。
家族さえもそうだと思った。
そして天涯孤独の身だったら、もっと楽に生きられたかもしれない、と思った。
何度かウトウトしながらずっと窓の景色を眺め、夕方くらいにバスが首都高速に入った。
迷路みたいな首都高速とその先にある高層ビル群を見て、大都会へ来た実感が湧いた。
当てナシ、伝手ナシ。
今晩はどうなるんだろう?
まったく想像が出来なかったけど、とにかく来た以上は楽しもうと思った。
池袋と八重洲の停留所を経由して、新宿南口のバスターミナルでバスを降りた。
目的がないので、とりあえず目についた気になる建物とか景色に向かって歩いてみた。
腹が減っていたので、途中で見つけた立ち食いそば屋に入って天ぷらうどんを食べた。
住所不定無職だから免許証はもういらないと思い、小さく折り曲げてゴミ箱に捨てた。
その後、お台場のフジテレビが見たいと思ったので、タクシーを捕まえた。
人の良さそうなタクシー運転手に「お台場まで」と伝えたら、「観光ですか?」と気さくな感じで話しかけてきた。
「そうです」と答えたら、「お台場に行くまでの間、東京をいろいろ観光案内してあげるよ」と言ってくれた。
土地勘がないので新宿からお台場までどういうルートを辿ったか覚えてないけど、人でごった返す渋谷のスクランブル交差点を通った。
明治神宮と神宮球場も通り、青山あたりで「あれ、美空ひばりが建てた豪邸だよ」と、それっぽい屋敷の前を通った。
景色が徐々に東京湾の方へ向かって行くのは分かった。
「あれがレインボーブリッジだよ、キレイでしょ?」
確かにキレイだった。
レインボーブリッジを渡る時、フジテレビ社屋の球体が見えた。
夜なので中に入れるかどうか分からないけど、フジテレビの前で降ろしてもらった。
フジテレビの中に入ろうとした時、入口の警備員を見て急に怖気づいた。
失踪したという負い目が観光気分を阻害したのだろう。
なるべく怪しまれるような場所は避けて、とりあえず近くの浜辺に行ってみた。
ベンチを見つけたのでそこに座ると、疲れたのか眠気が襲って来た。
今日はここで野宿しよう、そう思って横になってみた。
でも海の夜風が寒くて眠れず、おまけに体が湿ってベタベタして来た。
仕方がないので寝る場所を変えようと、またあてもなく歩いた。
とりあえずお台場エリアから出ようと思った。
現在地が分からないのでとにかく道路標識を見ながら、知っている地名の方へ向かった。
道路標識に「晴海ふ頭 銀座」の文字を見つけた。
歩道を歩いていたのに、いつしか車道に入っていた。
だんだんトラックの通行が多くなり、物流倉庫が多いエリアに来ていた。
とりあえずお台場エリアからは出れたようだった。
かなり歩いて疲れていたけど、寝れそうな場所がないので歩き続けた。
人目につかない公園があればそこで寝るつもりだった。
道がふいに途切れて市場みたいなところに迷い込んだりもした。
タワーマンションが見えたのでそっちに向かって歩いた。
電柱の住所を確認したら「月島」になっていた。
住宅街に入り、近くの川沿いを歩いた。
歩き疲れたので、タワーマンションに隣接している小さい公園のベンチで休んだ。
でもやっぱり夜風が寒くてウトウトする程度の仮眠しか取れなかった。
時間はわからないけど、住宅街はもう寝静まっていた。
社会からドロップアウトして暮らしを捨てた事への後悔の念が襲って来た。
気分転換にまた川沿いを歩く事にした。
鉄橋のアーチが見えて、大通りに出た。
道路標識に「銀座」の文字があった。
疲れたので近くの公園のベンチでまた仮眠した。
寒さとベンチの寝心地が悪くて熟睡は出来なかった。
渋谷あたりに行けば、まだ人もいっぱいいるんじゃないかと思い、渋谷へ行こうと思った。
渋谷の方角が全然分からなかったけど、とりあえず銀座へ向かって歩いた。
何度か辿り着いた地下鉄の駅はもうシャッターが下りていた。
周囲の景色がテレビで見た事がある銀座っぽくなって来た。
車の通りも人の通りもあまりないので、銀座界隈はもう眠っているみたいだった。
体力が限界だったのでパルテノン神殿みたいな建物の横に座り込んで休憩した。
銀座から渋谷までいくらかかるかわからないけど、歩いてもたどり着けない気がしたからタクシーを捕まえた。
銀座から渋谷までは思ったより距離があるようだった。
10万円を使い切ったら野垂れ死にだ。
タクシーメーターを気にしつつ、窓の外の景色を眺めていた。
渋谷の方に近づくにつれて、車も人も多くなって来た。
「渋谷のどのへんまでですか?」と聞かれたので、「適当でいいです」と答えた。
運転手に困った顔されたけど、渋谷の地名以外出て来なかったから、とにかく渋谷駅周辺で降ろしてもらった。
人がウジャウジャいた。
深夜なのに祭りのような賑わいを見せる渋谷に圧倒された。
駅周辺を一周してモヤイ像とハチ公像を見た。
そしてセンター街をうろついた。
ゴミだらけの汚い街だと思った。
ジャンクフードの臭いしかしない街だと思った。
イメージどおり、渋谷にはヤンキーとかギャルとか、不良っぽい人種しかいなくてホッとした。
浮かれたヤツ、悪いヤツ、ダメなヤツ、寂しいヤツらの吹き溜まりが渋谷だと思った。
高架下で眠るホームレスを見てさらにホッとした。
自分と同じ年くらいの若いホームレスの姿も見かけたので、声をかけて一緒に酒が飲みたくなった。
でも声をかける勇気がなかったから、コンビニでチューハイを買って一人で飲む事にした。
そしてハチ公像にもたれかかり、酒を飲みながら周りの人たちをただ観察した。
ナンパする人、ナンパ待ちする人、ただ暇そうな人、終電を逃して帰れなくなった人……。
僕と同じ失踪中の人はいないかな?
これだけ人がいれば何人かはいるだろうけど、見分けるのは困難だった。
次第に疲れと酔いで体がぐったりとして来た。
近くに横になれるベンチはなかったけど、なるべく服が汚れない地べたに座り込んでそのまま寝た。
それが失踪1日目。
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