第23話   スーツ

 ☆

「社長になるなら、スーツは奮発した方がいいよ」


「でも、勿体ない」


「大地君が会社の顔になるんだよ?」


「会社の顔か・・・・・・」


「私が考えていた物より、いい物を買った方がいいような気がする」



 わたしはスーツ専門店に行こうとした大地君を宥め、百貨店に行くように勧めた。



「洗濯は、家でできなくなると思うけど、それくらいの社員を抱えるんだから」


「花菜ちゃんに洗濯してもらえるの、すごく嬉しかったんだけど」


「取り敢えず、見てみようよ」



 車は百貨店の駐車場に入っていった。



「大地君は、外回りはしないでしょ?」


「出かける時は、車に乗せられて出かける」


「それなら、前みたいに汗ぐっしょりにならないよね?」


「そうだな。なんか体力が落ちそう」



 わたしは微笑んだ。



「わたしは、毎日、汗ぐっしょりよ。いつも走り回っているよ」



 大地君はわたしがプレゼントしたシャツに一張羅のスラックスを着ている。

 わたしは紺のワンピースに白いカーディガンを羽織っている。



「花菜ちゃんが見られなくて、花菜ちゃん欠乏症になってるよ。せめて弁当を一緒に食べない?」


「まだ結婚したこと話していないのに、そんなことをしたら、大地君の取り巻きに、簀巻きにされて、東京湾に沈められそうよ」


「物騒だ」


「大地君、自分が思っているより女子に人気があるのよ。社長代理になってから、余計に大地君を見る目が変わっているよ」


「早く、指輪を買わないと。ああ、スーツより指輪を見に行きたい」


「今日はスーツにしようよ。社長秘書の真下さんも、きっと困っているわ」


「うーん」



 大地君は不満げだ。


 紳士服売り場に行って、スーツを見て回る。軽く10万を超える品に、大地君の顔が引き攣っている。



「大地君のお兄さんも、高級そうなスーツを着ていたよね?」


「兄ちゃんにスーツの相場を聞いてみる」



 大地君はラインでお兄さんに連絡した。



「兄ちゃん、兄ちゃんが着ているスーツはどこで買っているんだ?いくらするんだ?」


『オーダーメイドだ。気の小さなおまえには買えないだろうな。軽く20万は超える』


「兄ちゃん、どんな金持ちなんだ?」


『僕は弁護士だからな。服装でも負けるわけはいかないんだ。勝負服だからな』


「勝負服?」


『見た目から負けていたら、勝負の行方を左右する』


「兄ちゃん、俺、社長代理になったんだけど、いくらくらいのスーツを着たらいいかな?3着1万円のスーツで、もう少しいい物を着てくださいって言われたんだけど」



 電話口で笑い声が聞こえる。



『今からうちに来い、連れて行ってやる』


「わかった」



 電話が切れて、青ざめた大地君がわたしを見た。



「今から来いって」


「お土産買って行こう」


「うん」



 スーツ売り場から地下に降りて、フルーツの盛り合わせを買うと、駐車場に戻った。



「なんだか緊張するわ」


「兄ちゃんの奥さん、優しいよ」


「良かったわ」


「お金払ってもらってゴメン、後で払うから」


「気にしないで、わたしもお世話になっているから」



 車は一般道を通って、本当にそれほど離れていない場所で車は駐まった。空いた駐車場に車を止める。

 郊外の一戸建てで、表札に若瀬と書かれていた。



「大地君も、こういう一戸建てを建てたいのね?」


「小次郎爺ちゃんが建てていいって言ってくれた場所は電車の音がうるさいから、防音も振動も来ない家にするつもりだ」



 インターフォンを鳴らす前に、扉が開いた。



「いらっしゃい」


「お邪魔します」



 わたしは大地君に果物の詰め合わせを渡した。



「兄ちゃん。これ花菜ちゃんから」


「花菜さん、ありがとう。中にどうぞ」



 家の中に招かれて、リビングに入ると、奥さんが頭を下げた。


「家内の美保だ」


「花菜と申します。よろしくお願いします」



 小さな子供が二人、美保さんの足元にくっついている。



「可愛い、お子さんですね」


「勇気と真穂と言います。4歳と2歳です。今ちょっと喧嘩しちゃってパパに叱られたところで」



 奥さんは微笑んだ。

 よく見ると、二人とも顔が涙で濡れている。



「果物もらったから」


 奥さんは、「ありがとうございます」と頭を下げた。



「ちょっと出てくるわ。お昼頃には戻ると思う」


「行ってらっしゃい」



 お兄さんは我が子に近づくと、「喧嘩はするなよ」と二人を抱きしめた。



「はい、パパ」


「パパ、ごめんなさい」


「すぐに戻ってくるから、待っていなさい」


「いてらっしゃい」


「行ってらっしゃい」



 二人は小さな手を振った。



「兄ちゃんの子、いつの間にかでっかくなってた」


「子供は、日々、成長するんだ」



 お兄さんは大地君の頭をぐしゃぐしゃと撫でる。



「で、いつの間に社長代理になったんだ?」


「昔の釣りの賭けで勝っただろう?花菜ちゃんと入籍したって話したら、すぐに社長代理にされて、社長が海外旅行に行っちゃったんだよ。仕事を押しつけて」



 お兄さんは笑っている。



「社長秘書に身だしなみを注意されて、スーツを買いに出かけていた所だったんだ」


「祝いに1着買ってやるから、あと2着は自分で買え」


「兄ちゃん、いいの?」


「出世祝いと入籍祝いだ」



 大地君の助手席にお兄さんが乗って、わたしは後部座席に乗った。


 お兄さんが道案内している。


 個人でお店を構える店に案内された。



「ここは紹介者以外は受け付けない老舗の洋服屋だ」


「高そうだけど」


「高級品だ。さっきも話したけど、勝負服だ」


「おう」


「社長になるなら、しっかり社員を守れる社長になれ」


「わかった」



 駐車場に車を止めて、お店の中に入る。



「若瀬さん、こんにちは」


「今日は、弟のスーツをお願いしたいと思いまして」


「若瀬さんの弟さんですか?」


「はい、よろしくお願いします」



 大地君は礼儀正しくお辞儀をした。



「社長になるらしい。それらしく見える物を3着お願いしたい」


「お若いのに、社長さんですか?」


「こいつは昔から棚ぼた坊主で生きてきたんだ。社長に気に入られて、今、社長代理をしている」



 棚ぼた坊主・・・・・・。


 確かにすごい人脈を持っている。


 店の店主は、年老いた男性だ。大地君に布を当てて、顔色を見ている。



「後は任せておけばいいだろう」



 お兄さんはお店にある椅子に座った。



「花菜さんも座りなさい。まだ体調は万全ではないでしょう」


「この間、診察に行ったら、後は貧血だけで子宮はもう大丈夫だと言われました。今は貧血の薬を飲んでいます」


「そうか、それは良かった」



 大地君のお兄さんは声を潜めて、話しかけてきた。



「あれから、何かありましたか?」



 わたしは、わたし名義で送られてきた口紅の話と書類を入れ替えられた話をした。



「嫌がらせをしてきているのか?」


「はい。大地君が筆跡鑑定に出して、社長が戻り次第処分を考えると言っていました。騙されていた女の子たちは自宅謹慎になっています。まだ試用期間中の事件なので、彼女たちは退職になると思います」


「タチの悪い男だな」


「その男に4年も騙されていたわたしには何も言えません。誘導が上手いんだと思います。騙されていることに気付かないんです。テレビやゲームを買って欲しいと言われたら、何の疑いも持たずに買ってしまいました。家賃もわたしが払うのが当然だと思えたんです。朝食もわたしが買っていました。捨てられて大地君に指摘されて、間違いに気付くことができました。今は大地君と家事分担して、楽しく過ごせています。目を覚まさせてくれた大地君には感謝しています」


「夫婦生活は上手くいってるの?」


「まだ抱き合ったことはありません。一緒に寝ていますけど。まだわたしの体を労ってくれているんだと思います。今はまだ、恋人同士になった気がしています。毎日が楽しいです」


「そう。楽しいならいいよ。恋人気分をいっぱい味わってから結ばれればいい」


「心配かけて、すみません」


「心配はするよ。大地は僕の弟だからね」



 わたしは頭を下げた。



「花菜ちゃん、兄ちゃん、見て」



 奥から大地君の声がする。


 お兄さんは立って、わたしを奥に連れて行ってくれる。



「若瀬さん、どうでしょうか?」


「馬子にも衣装だね」


「兄ちゃん、酷い」


「大地君、似合ってるよ」


「違う生地で、お作りします」



 他の生地をあてがわれ、どれも似合っている。



「まだ若いので、重厚感を出すと洋服が歩いているように見えてきますので、今はこの程度でいいかと思います。いかがでしょう?」


「主人がそう言うならそうなんだろう」


「40代になられたら、新調してください」


「あの、このスーツはクリーニングでしょうか?」


「クリーニングがいいでしょう。ご自宅で洗われるなら、おしゃれ着洗いでも洗えますが、肩が垂れてくるかもしれません」


「わかりました」


「若くて美しい奥様ですね」


「ですね、毎日惚れているんですよ」


「まだ新婚さんですか?」


「はい。誰かに奪われる前に入籍だけしました」



 お兄さんが笑っている。

 わたしも照れくさくて笑った。



「では、しっかり働かなければねりませんね」


「はい」



 大地君はなんの迷いも無く返事をした。

 一番高い金額のスーツをお兄さんが買ってくれた。あとの2着は大地君がカードで買った。金額は20万もしていない。1着10万程度で収まった。

 お兄さんの年齢になると、20万ほどになるのだろうか?スーツ貯金をしなければ。

 お店に飾ってあるスラックスが、ずっと目に付いていた。


「大地君、このスラックス着てみてくれる?」


「俺、これ以上お金は使うとストレスで・・・・・・」


「いいから。お出かけ着を持っていないんです」


「それなら」



 そう言って、店主がカジュアルな色の生地を出してきた。



「値段も1着2万もしませんよ」


「どの色が似合うかしら?」


「今着ているシャツには薄いベージュがいいでしょう。紺色も引き締まってどんな色の上着にも似合うでしょう」


「そうしたら、その2着をお願いします」


「花菜ちゃん、駄目だって」


「テレビとゲームを売ったお金よ」


「わかった」


「ツータックが似合いそうですね」


「似合うものでお願いします」



 わたしはカードで支払いをした。



「スラックスは1週間ほどでできます。スーツは2週間ください」


「お願いします」



 大地君の声に合わせて、わたしは頭を下げた。

 引換券は大地君に渡す。

 お店を出て車に乗ると、大地君がお兄さんに頭を下げた。



「兄ちゃん、ありがとう。2週間後には社長に見えるようになりそうだ」


「2週間、1着3万円か。僕の若い頃のスーツが着られれば、あげるけれど。家に帰ったら、見てみよう」



 車でお兄さんの家に戻ると、子供達はご飯を食べていた。



「お帰りなさい」


「パパ、おかえり」


「パパ、お帰りなさい」


「ただいま。二階のクローゼットに行ってくるよ」


「はい」



 奥さんは子供の世話をしている。

 階段も二階の廊下も明るい。廊下にあるクローゼットを開けると、たくさんのスーツが下がっている。



「20代の頃のスーツは、この2着だ。1着着てみろ」


「おう」


 その場で着替え始めたので、わたしは背中を向けた。


「ぴったりだ」


 わたしは振り向いた。


 とても似合っている。


「先に試着させてくれたら、3着もいらなかっただろう?」


「今日、買ったのは夏用だ。夏の終わりに秋冬用を買え、秋冬用は夏用より高いからな。コートも忘れるな。ちなみに、今着ているのは、オールシーズン用で夏以外は着られる。真夏はさすがに暑い。2週間くらいならこれで暮らせるだろう」


「スーツに秋冬用があるなんて知らなかった」


「おまえ年中3着1万円着ていたのか?」


「そうだよ」


「冬はコートくらいあっただろう?」


「ないない。マフラーくらいはしたけど」



 お兄さんが呆れている。



「20代の頃のコートだ。持って行くか?」


「もらう」


「まったく、これでビジネスマンだと胸を張って言えるものだ。就活とは違うのだから、しっかりしろよ」


「ありがとう。兄ちゃん」



 お兄さんは大地君が可愛いんだ。

 お礼を言われる度に、にっこりと笑う。



「兄ちゃん、それとさ。結婚指輪買いたいんだけど、知ってるお店ある?」


「そこまでは付き合ってはやらん。名刺渡すから、行ってこい」


「ありがとう。兄ちゃん」



 階段を降りると、奥さんが顔を出した。



「お食事召し上がって行かれますか?」


「食べていけ、大地」


「それならお願いします」



 お兄さんは大きな紙袋を出してきて、大地君が持っているスーツを中に入れた。



「ネクタイくらいは自分で買えよ。安物は買うな」


「分かった」


「ジュエリーショップは電話してから行け。普段、店は開いていない。ここは卸の店だ。割安でいい物が買えるだろう。婚約指輪もセットで買えば、もっと割引してくれるだろう」


「そういうもんなの?」


「ここの店の店長の性格だ」


「わかった」


「最初の投資はケチケチするなよ」


「おう」


 台所からいいにおいがする。

 対面キッチンになっていて、色は全体に白い。

 わたしは台所に入っていった。



「お手伝いすることはありますか?」


「それなら、フォークとグラスを並べてもらえますか?


 フォークは引き出しから素早く4本だし、背後を振り向き、食器棚を開けた。


「グラスはここです」



 わたしは先に手を洗わせてもらった。


 置かれた4本のフォークをテーブルに並べると、今度はグラスを2個ずつ並べていく。


 食器棚から大皿が5枚出されている。

 ブランド品のお皿だ。

 お店で見たことがある。この大きさだと一枚1万円はしそう。

 オーブンの中には、ピザが入っている。

 パスタ鍋からザルを抜いて、水切りすると、フライパンで二人分ずつ調理をしている。トマトソースで炒めて、お皿に上品に盛り付ける。すぐに次の料理を始めた。



「運んでくださいますか?」


「はい」



 わたしはお兄さんと大地君の前に置いた。

 すぐに台所に入っていく。



「わたし、お料理苦手で」


「練習よ。私も最初は作れなかったもの」


「この家を建てるとき、キッチンを考えたの、素敵な料理を作りたくて、色々勉強したわ。オーブンに入っているピザは、台座から手作りよ。パン生地から応用して作っているのよ」


「すごいです」


「家を建てるときにキッチンの色にも拘ったの。白色が好きで、置く物もすべて白にしたの。もし、今、何か買う予定があるなら、将来家を建てるときのことも考えて、色とか合わせて買った方が綺麗よ」


「勉強になります」



 パスタが出来上がり、オーブンも焼けた。

 わたしがパスタを運んでいる間に、ピザを取り出し、ビザカッターで切っている。

 すべてがお洒落で、わたしは学びたいと思った。



「お待たせしました」



 テーブルの上にピザを置くと、ランチが始まった。

 大地君が作るパスタより、少し甘めな味付けは、子供もいるからだろう。

 トマトソースがまろやかで美味しい。優しい味付けだ。

 パスタを食べ終えると、皆がピザに手を伸ばす。

 ふんわりとしたパンの食感に、海老やホタテ、イカが美味し味付けに炒められ、ピザソースと絡まり合う。



「美味しいですね」


「美味しいけど、これはさすがに作れないな」



 大地君がピザを食べながら、言った。



「パン生地をベースにシーフードミックスを使った簡単な物ですよ」


「うちにはオーブンがないんだ」


「あら、不便ね」



 お兄さんの奥さんの美保さんは、少し驚いた顔をした。



「やっぱりオーブンレンジを買おうかしら?」


「でも、花菜ちゃん、土日以外ほとんど仕事で家にいないし、なくても暮らせるよな」


「そうね」



 残業が続くと、大地君より帰宅が遅くなる時も多い。

 大地君は定時で帰っているようだが・・・・・・。



「パン作りしてる時間があるなら、睡眠を取って欲しいよ。花菜ちゃんは働き過ぎだから」


「でも営業部が売ってこないと利益が出ないのよ?」


「それもそうだけどさ」



 大地君は口を尖らせる。



「大地は、花菜さんに構って欲しいんだろう?」


「そうだよ。最近では俺の方が先に帰宅しているんだ。遅い時間に帰ってこないと心配だし」


「できるだけ早く帰れるように努力はするわ」


「大地が花菜さんを養えるくらい給料をもらえるように頑張れ。社長補佐から社長になれるように、努力しろ」


「おう」


「大地は末っ子で寂しがり屋なんだ。花菜さん、頼むよ」


「はい」


「兄ちゃん、俺のことあんまり言うなよ。教えるなら花菜ちゃんに俺の格好いい所とか言ってよ」


「おまえの格好いい所なんて思い浮かばないな」


「兄ちゃん、酷い」



 大地君とお兄さんは、本当に仲がいいのだろう。

 兄弟っていいな。

 いつか、わたしにも赤ちゃんができたらいいな。

 居間で兄妹揃って昼寝をしている二人の寝顔を見ていると、子供が欲しくなる。



「また遊びに来い」


「兄ちゃん、今日はありがとう」


「何かあれば、いつでも連絡してきてくれ」


「はい、お願いします」



 わたしたちはお昼をいただくと、自宅に戻っていく。



「兄ちゃんのキッチンには、オーブンにベーカリーと食洗機があったな」


「うん」


「家を建てるときは、俺もつけるからな」


「競い合わなくてもいいよ」


「花菜ちゃんを幸せにしたいんだ」


「今でも幸せよ」



 大地君は車を寄せて止めると、わたしを抱きしめてきた。



「もっと幸せにしたいんだ」



 わたしにキスをして、車を出発させた。



「早く指輪を渡したい。家に戻ったら、すぐに連絡するから」

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