第16話 手術
☆
病院の朝は早い。検温を終えた後、もう一度眠って目を覚ますと大地君が来ていた。
「おはよう」
「おはよう」
「もう少ししたら術前処置を始めるらしいよ」
「うん」
大地君は余所行き着は着ていなかった。
いつものスーツ姿でリュックを持って来ていた。
「職場に寄ったの?」
「上司と話をしてきた」
「部長?」
「もっと上。俺を引き抜いた社長に直談判してきた」
「大地君、引き抜かれたの?」
「そう。社長とも釣り仲間で、俺が大学院の時、引き抜かれた」
釣り仲間、最強!
「もしかしたら、無試験?」
「まあね。面接は釣りの雑談で終わったかな」
スーツの上着を脱ぐと、ソファーに半分に折って置いた。ワイシャツの腕を肘までまくり、リラックスした服装になっていく。
「河合の話をして、今回の花菜ちゃんの話もしてきた。有給は気にせず、しっかり治すように言われたよ。休みの理由は、ハワイ旅行だってさ。どこまでバカにしてやがるんだ」
「ハワイ旅行・・・・・・。お土産どうするつもりだったんだろう?」
わたしは起き上がって、顔を洗った。歯磨きもするとさっぱりした。
絶飲絶食なので、水も飲むことができない。顔にいつも持ち歩いているクリームを塗って、保湿もしておく。
「河合に会ったら、ずいぶん苛々していたな。花菜ちゃんが出勤してこないからだろうな。俺は親切だから、教えてやらなかった。社長から部長に話してくれることになっているからな。社長直々の出張ってことにしてもらった」
「すごい。大地君って、すごい人脈」
「子供の頃から釣りやっていたから、年上の友達は多いんだ」
わたしは頷いた。
「会社の方は任せておけ」
「うん」
「昨夜は眠れたか?」
「薬をもらった」
「そうか」
大地君がわたしを抱きしめた。
「また痛むんだろうな?痛みは代わってやれないけど、家のことは俺がやるから」
「今度の先生は、きっとうまくやってくれると信じている」
「そうだな」
髪をするりと撫でる。
「無事に帰って来いよ」
「うん。大地君と結婚できたのに、お爺ちゃんにもお母さんにも、まだ紹介してないもの」
「兄貴の方は引き受けてくれた。花菜ちゃんの具合が良くなったら、話を聞かせて欲しいって」
「ありがとう」
大地君は、わたしに触れるだけにキスをして、また強く抱きしめた。
これで場所が病院でなく、病衣ではなく、これから手術でなかったら、どんなに幸せだろう。優しい腕に抱きしめられて、嬉しかったけど、すごく怖かった。
扉がノックされて、大地君の腕が離れた。
「術前処置に入ります」
「お願いします」
大地君は頭を下げると、ソファーに座った。
「トイレを済ませ、手術着に着替えベッドに上がってください」
「はい」
わたしは看護師さんの言うとおりに動いて、ベッドに上がった。
腕に点滴の針が刺されて、肩にも注射された。
わたしはベッドから車椅子に座った。
「では、行ってきますね」
「お願いします」
わたしは大地君に手を振った。
心配そうにわたしを見ている大地君に声をかけられなかった。
励ましてくれているけど、大地君もわたしと同じくらい怖いんだ。
☆
麻酔をかけられ、数を数えている間に意識が吸い込まれていった。
目が覚めたら、今回は気持ち悪くはならなかった。
ただぼんやりして、泣き出しそうな大地君の顔が見えた。
触れようとしたら、手を握られた。
「よく頑張ったな」
わたしは頷いた。
大地君の背景は暗くなっていた。
夜だ。
わたしはまた吸い込まれるように眠りに落ちた。
花菜、花菜ってわたしを呼ぶ声が聞こえる。それでも目を開けられない。
とても眠くて、とても怠くて。
☆
翌朝、わたしは検温の時間に目を覚ました。
大地君が、わたしのベッドに伏せて眠っていた。
「旦那様、心配して深夜も看ていらしたから」
わたしは頷いた。
検温と一緒に採血をされる。
まだ点滴はぶら下がっていた。
看護師さんが部屋から出て行くと、わたしは大地君の髪を撫でた。
黒い髪だが、少し明るい色をしている。
硬くもなく、柔らかくもない。サラサラとした髪質だ。
同居して、初めて触れた。
大地君が目を覚ました。
「花菜」
「おはよう」
「よかった、花菜」
大地君は横たわるわたしの手をしっかり握った。
「目覚めなかったらどうしようかと思った」
「心配をかけてごめんなさい」
「手術中に大出血を起こしたんだ。胎盤が残っていて、それの排除の途中で、胎盤に動脈が接触していたようなんだ。出血の場所が特定できなくて、手術中にいろんな検査が行われて、出血を止める手術もしたんだ」
「子宮残ってる?」
「ああ、一時期は子宮摘出も考えられたが、医師達がどうにか残せるようにと、考えて頑張ってくれたんだ」
「良かった」
わたしはお腹に触れた。
「今度こそ赤ちゃんは産める?」
「産めるだろうと言われた」
わたしはホッとした。
大地君もホッとしている。
「今日、改めて残存物がないか検査をするそうだ」
「そんなにたくさん残っていたの?」
「ああ、酷い手術だったようだ。ただ胎内をかき混ぜたような状態だったらしい」
大地君がわたしの額に触れる。
「熱はまだありそうだね」
「熱があるから、ぼんやりするの?」
「貧血も酷いらしい。輸血をするか迷っていた。今日の検査状態で決めるらしい」
わたしは大地君の手を握った。
「ずっと付いていてくれてありがとう。何度も名前を呼んでくれている声は聞こえていたよ」
「何度も、何度も呼んでいたからね」
大地君がニッと笑った。その笑顔を見て、もう大丈夫なんだと思えた。
「ホッとしたら、お腹が空いたよ」
「ご飯食べてきていいよ」
「いったん家に戻って、また来るよ」
「お仕事は大丈夫?」
「俺には社長が付いてるからね。社長にも連絡しておくよ。きっと心配しているはずだ」
「うん」
大地君は手を放すと、わたしにキスをして微笑んだ。
「すぐに戻ってくるから、心配しないで」
「わたしは大丈夫よ」
「俺が大丈夫じゃないんだ」
そう言うと、リュックを肩にかけて、スーツの上着を抱えると、颯爽と室内から出て行った。その頬が赤く色づいていて、わたしはキスをされた唇に触れた。
触れるだけのキスなのに、心がときめく。
こんな気持ちは初めてだった。
わたしはまた目を閉じた。握られていた手を胸に抱えて、食事の時間まで眠った。
☆
大地君は、ほんとうに数時間で戻ってきた。
シャワーを浴びて、着替えてきたようだ。
ラフな普段着を着て、オレンジを切って持って来てくれた。
わたしが食べると、大地君は嬉しそうな顔をした。
医師の診察の時には、既に傍にいてくれた。
医師からは大地君が説明してくれたことを、説明された。
貧血の治療は注射で行うことになった。
残存物はもう残っていないようだった。
エコーで丁寧に診て、MRIでも確認された。
発熱は感染症だろうと言われた。
最初の堕胎手術で、感染症を起こしていたらしい。
あのまま最初の堕胎手術をされた病院で、言われたまま放置していたら、子宮を失っていたかもしれないと言われた。セカンドオピニオンをして良かった。
わたしは1週間、入院して貧血の治療と感染症のための点滴を受けた。
大地君は、わたしの術後の次の日から会社に出勤していった。
朝、顔を出して、帰宅前に顔を見せてくれる。車で出勤しているらしい。
翌週の水曜日に大地君が、普段着で迎えに来た。
わたしは最後の注射を受けて、帰る支度をしていた。
大地君が選んでくれたワンピースは、大学の時、よく着ていた白色のワンピースだった。下着も白色が選ばれていた。それに着替えて、髪を梳かす。
「お母さんから、昨日、明日帰宅するってラインが来ていたの。間に合って良かった」
「それなら、花菜のお母さんに挨拶しないとな。結婚しましたって」
「そうだったわ」
大地君がニッと笑った。
看護師さんに、薬と次回の診察日の予約をもらい。わたしは大地君に付き添われて、退院した。会計はクレジットカードを使い、わたしの荷物は、大地君のリュックの中に入れられた。
診断書を書いてもらった。あと1週間、自宅安静だ。次の診察で異常がなければ、会社に出勤できる。
「わたしも大地君のご両親に挨拶しなくちゃ」
「俺の方は慌てなくていい」
「そういうわけにはいかないわ」
「今週はゆっくり休め。小次郎爺ちゃんには風邪だと言っておいた。すごく心配していたぞ」
「うん。大地君には本当にお世話になった。ありがとう」
「花菜ちゃんは、もう俺の嫁だから心配するな」
わたしは大地君の腕に手を絡めた。
大地君の頬が赤くなる。
車が駐まっている駐車場まで、大地君に甘えた。
「大地君って、もしかして、女の子とお付き合いしたことないのかな?」
「ないよ。魚とロボットしか興味がなかったんだ。女の子を見てときめいたのは、花菜ちゃんが初めてだよ」
「好きなってくれてありがとう。助けてくれてありがとう」
「これから、少しずつ夫婦になっていこう」
「はい」
わたしは笑顔で答えた。
大地君は首や耳まで赤く染まった。
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