第9話 ストレス?
☆
胃がムカムカと気持ちが悪い。
でも大地君が用意してくれた料理は食べたかった。
愛情のこもったご飯は美味しい。
食べたらもっと気分が悪くなった。
出かける前に吐いてしまった。
「顔色悪いけど、大丈夫?」
「うん」
「夜、遅い日は洗濯しなくていいから」
「うるさかった?」
「そうじゃなくて、洗濯1日くらいしなくても、着る物はあるから。早く寝ろよ。体調崩す。もう崩しているみたいだけど。熱は測ったのか?」
「熱はなかったよ」
「絶対に無理はするなよ」
「うん」
鞄の中には、今日も弁当箱が入っている。
大地君の愛情のこもった弁当だ。
そういえば、何カロリーか聞くのを忘れていた。
そんなことを考えていたら、電車はいつの間にか着いていて。
なかなか降りられないわたしの手を引っ張って、大地君が電車から降ろしてくれた。
「大丈夫か?」
「うん」
「いつもと同じだ。先に歩いて行って」
「うん」
わたしはいつものように歩いて職場に行った。
わたしがフロアーに入ると、それを抜かすように大地君が部屋に入ってきた。
手に何か握らされた。
デスクに着いて、掌を開けるとメモがあった。
『捌けない仕事がある時は連絡しろ。連絡先交換しただろう?』
わたしはスマホを開いて、初めて大地君に連絡した。
『ありがとう』
すぐ既読が着いた。
『仕事じゃなくても困ったことがあれば、連絡しろ』
『ありがとう』
ありがとう以外の言葉は浮かばなかった。
わたしはメモを畳むと、スマホケースに入れた。お守りになりそうな気がした。
このフロアーの中で、たった一人になったと思っていたけど、大地君が見守ってくれている。
わたしは鍵の付いた引き出しを開けると、大手の取引先の書類を取り出して、読み返していく。値段の場所はPCを使い計算し直し、自分でも電卓を叩いた。何度も見直ししても不安だ。
もう河村先輩に頼れない。
今日の商談相手だ。どうにか仕事を取りたい。
新人の明美がお茶を配っている。
そんなことしなくても、飲みたい人は勝手に飲みに行くのに、そんな暇があるなら、コピー機に紙の補充して欲しいわ。
「蒼井先輩、お茶をどうぞ」
デスクに置いた瞬間、紙コップが倒れた。
提出する書類が一瞬にして濡れた。
「何してるの?」
大声を出すと、皆の視線が飛んで来た。
でも、そんなことに構っていられない大事件だ。
「すみません」
「朝一に、商談に行くための書類なのよ」
「本当にごめんなさい」
「もういいから、どいて」
鞄の中から、ハンドタオルを出すと書類を拭う。
「机の上を拭いてくれる?」
「はい」
明美は走って行った。
きっと台拭きの場所も分からないはずだ。わたしは書類を持ったままタオルを数枚持ってきて、机の上を拭い、PCを見た。
PCはブラック画面になっていた。
ショートしたかもしれない。
隣の席の水野さんが「PC壊れたかもしれないですね」と言った。
河村先輩がわたしを見た。
1班の危機だ。
「河村先輩PC見ていただけますか?」
1班のリーダーだから、仕方なく、来てくれる。
「電源は入っていたのか?」
「はい」
「別の媒体に保存はかけたか?」
「昨日の昼までです」
「最終の保存はしてないのか?」
「昨夜は遅かったので、今朝するつもりでした」
「なんで昨日のうちにしておかないんだ?」
「終電が行ってしまう時刻だったのです」
「そんなの言い訳だ」
わたしは悔しくて、拳を固めた。
確かに言い訳だ。
終電に乗り遅れても、保存までしておくべきだった。
「1班は終電が出てしまう時間まで女子社員を一人で残業させて、新人が犯したミスなのに、深夜まで仕事をしていた社員を叱るのですか?終電が出てしまったら、この会社はタクシーチケットも出ませんよね?部長。責める前に協力して仕事をしなかったことを注意すべきではありませんか?」
2班から大地君が声を上げた。
「タクシーチケットは出していない。そもそも女子社員を一人で残業させてはならないと決まっているはずだが」
「すみません」
河村先輩は部長に頭を下げた。
「山下君、ここは精密機械があるから、お茶出しはしなくていいと新人研修で習わなかったか?」
「すみません。失念していました」
明美が謝罪した。
「部長、新しいPCの貸し出し、お願いしてもいいですか?先方に連絡して、今から作り直します」
「備品室から持ってくるといい。許可書が必要だったな。すぐに作る」
「山下さん、わたしの机の上を水滴の一滴も残さないように拭いて下さい」
「・・・・・・はい」
わたしは使えなくなったPCを退けて、書類と共に下がった。
他の新人が、わたしの手から、使えなくなったノートPCを受け取る。
☆
できあがった書類があったから、1班で分担して文字興しをして、一つに合体させたら、一人で打ち直すより早く書類はできあがった。
できた書類を読み直し、誤字脱字のチェックと数字のチェックをしていく。
多少のミスがあり、直しながら確認していく。
「できました。皆さん、ありがとうございます」
すぐに、別媒体に保存しておく。
1班のみんなはホッとしている。
「打ち合わせの時間、過ぎましたが、行ってきます」
「俺も付いていこう。新人のミスの謝罪をしなくては」
「お願いします」
河村先輩は上着を着て、バックを持った。
わたしも上着を着て、バックを持った。
☆
茶菓子を準備して、先方に謝罪し、河村先輩も謝罪してくれた。
新人のミスで遅刻したことを説明してくれた。
先に、先方に連絡してあったので、先方は見た目では怒った様子はなかった。
笑い話で終わったことにホッとしながら、契約は無事に取れた。
「河村先輩、フォローありがとうございます」
「山下が迷惑をかけた」
「新人研修をしているのはわたしだから、わたしにも責任があるわ」
緊張からの脱力で、一気に疲労を感じた。
ずっと気分が悪かった胃が、またムカムカと気持ち悪い。
柔軟剤かな?
武史のワイシャツの香りが変わっている。
わたしの使っている花の香りではなく、別の花の香りがする。
もう他人なんだと、改めて思う。
仕事を終えたわたし達に、交わす会話はなくて、気まずさだけが残っている。
「その、・・・・・・仕事を奪ったとか気にするな。蒼井は新人の時から仕事はできていた。担当を任されてもおかしくないだろう」
「・・・・・・河村先輩」
「4年も同棲していて、捨てた俺を恨んでもいいよ」
「もう、いいんです。お弁当一つ作れなかった。食事も作れなかったのだから、捨てられてもおかしくないです。もう忘れて下さい。わたしも忘れます。4年間お世話になりました」
わたしは頭を下げた。
「蒼井、すまない」
わたしは首を左右に振った。
それっきり黙って、河村は会社の車を運転して会社に戻っていく。
二人の関係は、完全に終わったんだと自覚した。
村上先輩と美貴が結婚したとき、次はわたしも結婚できると思っていたのに。とんだ勘違いだ。恥ずかしい。
「すみません、コンビニに寄っていただけますか?」
「どうかしたのか?」
「気分が悪くて」
「ああ、分かった」
車はすぐにコンビニの駐車場に入った。
わたしはコンビニに駆け込んで、トイレに入った。
トイレから出てきたわたしを連れて、河村先輩は、ドラッグストアーに連れて行き、妊娠検査薬を買って、手渡した。
「今、調べてきてくれるか?」
「わたしが妊娠?」
「確認したい」
「はい」
わたしはトイレに入って、検査をした。
しっかり出た二重線を見て、お腹に触れる。
赤ちゃんがいるの?
どうしよう、ひとりでは育てられない。
わたしは結果をそのまま河村先輩に見せた。
「すまない。堕ろしてくれるか?」
わたしは頷いた。
赤ちゃんができていても、もうわたしへの愛情は欠片も残っていないのだと分かった。
「会社に戻ったら、病院に連れて行く」
「付いてきてくれるの?」
「同意書がいるだろう?」
確かにその通りだ。
☆
会社に戻り、部長に契約書を渡すと、拍手をされた。
「良くやった。みんな拍手だ」
ホワイトボードのわたしのスペースに、また赤い磁石が置かれた。
まだダントツ一位だ。
「昼食はまだだろう?二人とも休憩に入って食事をしてくるといい」
「はい」
わたしは返事をして、席に戻った。
「お疲れ様、上手くいって良かった」
「本当に一時はどうなるかと思ったけど、商談取れて良かったよ」
1班のみんなは喜んで迎えてくれたけれど、わたしは笑顔を作れなかった。
「ありがとうございます」
「どうかした?」
「疲れたんだね。ゆっくり休んできて」
「はい」
河村先輩は、「頼むよ」と言って「食事に行くか?」とわたしを誘った。
「わたし、お弁当なの」
深く頭を下げる。
お弁当の入った鞄を持って、フォロアーから出て行った。
食欲はなかったけど、大地君が作ってくれたお弁当を食べたかった。
カロリー計算されたお弁当を・・・・・・。
わたしの後を、河村先輩は追いかけてきた。
「食事は抜いてくれるか?知り合いに連絡したら、すぐに手術をしてくれるらしい。このまま早退して病院に行こう」
「今から?」
「費用は全部、俺が持つ。一端、部長に早退の手続きをしてきてくれるか?」
まるで連行されるように、わたしは部長の前につれて行かれて、体調不良で早退すると手続きをさせられた。
わたしの鞄まで持ってくれて、わたしは河村先輩にタクシーに乗せられて、小さな個人病院に連れられてきた。
同意書に署名をさせられ、わたしは内診室に入ると、そのまま麻酔をされて、眠ってしまった。
目が覚めたら、麻酔の副作用で何度も吐いた。
涙が出るほど、お腹が痛い。
赤ちゃんの姿も見ずに、エコーの写真すらもらえず、この世から消されてしまった。
4年間の同棲の結果は、罰だったのだろうか?
目覚めたわたしに医師は、「12週目の女の赤ちゃんでした」と説明した。
「悪い男に、弄ばれないように、これからは気をつけなさい」と先生は、わたしに言った。
「彼は今までに、同じ事を繰り返している。彼のことは忘れた方がいい」
「・・・・・・先生」
「本当は入院してする処置を日帰りでしました。しばらくゆっくり休んで下さい。1週間後受診して下さい」
「赤ちゃん、見せて下さい」
「見せられない」
先生はそう言うと、部屋から出て行った。
わたしはその晩、遅くにやっと麻酔が覚めて、家に帰ってもいいと言われた。
河村先輩にタクシーチケットを持たされ、タクシーに乗せられた。
「四日は休みにしておく、土日があるから、十分に休めるだろう?まだ体調が治らないようなら追加で休みを取るから」
「それって、わたしの有給ですよね?」
「当然だ」
「・・・・・・・・・・・・」
大好きだった。
4年も同棲してきたのに、こんなに冷たい人だと知らなかった。
性別が分かるほど大きくなっていた赤ちゃんが可哀想。
母親になった自覚もないまま消されてしまった。
家の場所を知らせると、タクシーが走り出した。
スマホが鳴った。
スマホを開くと、大地君だった。すごくたくさんの着信が来ていた。
「心配かけてゴメン。あと少しで帰る」
『何かあったのか?』
「家に帰ったら話す」
『わかった』
こんなところで話せない。文章でも残したくない。
こんなに、こんなに辛いことを。
☆
タクシーが家の前に止まると、家の中から大地君が飛び出してきた。
「花菜ちゃん、大丈夫?」
「大地君、今日はお弁当、食べられなかった。ごめん」
お腹が痛くて、わたしは蹲る。
「どうしたんだよ?」
「お腹が痛いの」
「ちょっと待てよ」
大地君は玄関を開けてくると、わたしを抱き上げた。
「わたし、河村先輩と4年間同棲していたの。今日、出先で赤ちゃんがいるって分かったの。そうしたら、河村先輩が知り合いの病院にわたしを連れて行って堕胎されちゃった。赤ちゃんの姿見てみたかった。記念に赤ちゃんのエコーの写真欲しかったな。女の赤ちゃんだったんだって・・・・・・。もう二度と赤ちゃん産めないかもしれないのに・・・・・・」
わたしは大地君に抱きついて泣いた。
「・・・・・・花菜ちゃん」
「ゴメン。大地君には関係ないよね。迷惑かけてゴメン」
大地君はわたしを居間に下ろすと、玄関を閉めに行った。
「食事は食べても大丈夫?」
「うん」
「ここまで運ぶから、待っていて」
大地君は台所のテーブルから、食事を運んでくれる。
「最近、食欲なさそうだったから、さっぱりとした食事にしてみたんだ」
皿に載せられたのはちらし寿司だった。お刺身も載っている。
「でも、お弁当も食べないと」
わたしは鞄からお弁当箱を出した。
「これは、賞味期限切れ。食中毒を起こす」
「食べられなくてごめんなさい」
「食べさせてもらえなかったんだろう?」
わたしは頷いた。
「すぐに手術をするから食べるなって」
また涙が流れる。
「花菜ちゃんが河村と付き合っていたのは知っていたけど、ここに来たとき、別れたんだと気付いた。だから聞かなかった。赤ちゃんができていたのは気付かなかったけど、気付いたその日に堕胎させるのは、酷いと思う。花菜ちゃんにも考える時間が必要だったと思う」
「病院の先生に、言われたんだ。河村先輩は過去にも同じ事をしていたらしい。悪い男に弄ばれないように気をつけなさいって。わたし、4年間も何していたんだろう?入社して歓迎会の日から河村先輩はわたしの部屋に住んでいたの。このまま結婚するんだと思っていたんだ。甘い夢、見てたな。赤ちゃんは可哀想・・・・・・」
わたしは痛むお腹に触れる。
「この痛みは、赤ちゃんが怒っている痛みだよね」
「それなら、赤ちゃんに許してくれるように、俺が頼んでやるよ」
大地君はわたしの手の上からお腹を撫でた。
「・・・・・・ありがとう」
「ご飯食べて、早く横になった方がいいんじゃないのか?」
「うん。安静にって言われた」
大地君はスプーンでわたしの口に、ちらし寿司をいれてくれる。
わたしは泣きながら食べた。
「美味しい」
少なめのわたしのご飯は、すぐになくなった。
わたしは薬を出すと、それをお茶で飲んだ。
「部屋まで運ぼうか?」
「大丈夫、歩ける」
わたしは立ち上がって、涙を拭った。
「迷惑かけてゴメンね。もう大丈夫だから」
食器を片付けようとしたら、
「これは俺がやるから、休めるようにしなよ」と言ってくれた。
大地君みたいな優しい人を好きになれば良かった。
「それじゃ、お願いします」
わたしは鞄を持つと、部屋に戻って、着替えと化粧品のケースを持つと、洗面所でメイクを落として顔を洗うと、服を脱いで、濡らしたタオルで体を拭った。
大地君はビールも飲まずに、居間でテレビをつけ、考え事をしていた。
「お洗濯、明日するから、そのままにしておいて。四日間はお仕事、お休みするから」
「お、おう」
「おやすみ」
「おやすみ」
わたしは部屋に戻ると、そのまま布団に横になった。
朝から色々あって大変だったのに、少しも眠くならなかった。
ただ涙が流れて、止まらなかった。
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