第1話 別れ
☆
わたしは定時になると会社を出て外で、武史の仕事が終わるのを待っていた。
部長に呼び出されてから、武史はわたしを一度も見ない。
声をかけようとしても、避けられている。
わたしと武史は同棲している。
わたしのマンションで待っていてもいいのかもしれないけれど、もしかしたら帰って来てくれないかもしれないと不安になっている。
できれば一緒に帰りたい。
電柱の陰で待っていると、武史は大勢で歩いて行った。その後を追うようにわたしは歩いた。
部署の男性社員と新人の女の子を二人連れて、歩いている。
飲み会にでも行くのだろうか?
スマホを取り出し、ラインをチェックする。
やはり連絡はない。
同棲期間は4年だ。
わたしが入社して、新人歓迎会の日に酔ったわたしをマンションの部屋送ってもらった日から一緒に住んでいる。
お酒の味を教えてくれたのも先輩で居酒屋の暖簾をくぐることを教えてくれたのも武史だった。お洒落なレストランやダブルベッドの素敵な部屋に泊まることも教えてくれたのも彼だ。
仕事も私生活も全部、武史に教えて貰ってきた。
今回の取引先の会社は、もともと武史が仕事を取ってきた取引先の会社だった。いつも成績のいい武史に、仕事を教わるために、わたしは彼の補佐で付かせてももらっていた。
資料作りをして、手直ししてくれたのは、武史だ。
一人でなんてできる自信がない。
振り向いた彼がわたしを見たけれど、何も声をかけられなかった。
武史を取り巻くグループは、わたしと一緒に行ったことのある居酒屋へ入っていった。
わたしは外で待った。
☆
「ご馳走様でした」
「河合先輩、とても美味しかったです」
「初めて、こういうお店に入ったのよ」
武史は優しそうに笑った。
まるで4年前のわたしみたいな新人は、今年の入社で一番美人だと噂されている山下明美という。
「また連れてきて下さいね」
「ああ、わかった」
明美は、わたしが新人指導している子だった。
美人で素直で、地方から出てきた子で一人暮らしをしている。
わたしにも「おいしいお店を教えて下さい」と言ってくる、可愛い子だ。
「あら、花菜先輩だ」
明美がわたしを見つけて、指を指してきた。
人に指を指してはいけないと教わって来なかったのだろうか?
酔って頬を染めた明美が指を指したので、武史を取り巻くグループがわたしの存在に気付いた。
「もう少し早かったら、一緒に飲めたのにな?」
そう言ったのは、武史の友人の村上先輩だった。
村上先輩は、たぶん、わたしと武史が同棲していることを知っているはずだ。
「今日はここで解散だ」
村上先輩はもう結婚している。
家にはわたしと一緒に仕事をしていた同期だった、美貴がいるはずだ。美貴は妊娠して寿退社をした。わたしのお腹には赤ちゃんはいない。
村上先輩は武史に耳打ちして、女の子たちを連れて、最寄りの地下鉄乗り場に歩いて行く。
武史はそこに残った。
☆
「こそこそつけ回すなんてストーカのすることだぜ」
「武史、わたし、部長にお願いするわ。一人では自信がないって」
「仕事は、もう一人でできてんじゃねえ。いつも確認してるけど、大きな間違えなんてしてねえよ。自信持ったら?いざとなったら枕営業だってできるだろう?」
わたしは、悔しくて武史の腕を掴んだ。
「痛いだろう。手を放せ」
「わたしは枕営業なんてしないわ」
「花菜は床上手で、他に取り柄はないだろう?」
「そんな言い方酷いよ」
「うるさい」
武史は空いた片手で、わたしを突き飛ばした。
勢いで転んだわたしの前に屈んで、「大袈裟なんだよ」と声をあげた。
店の中から店員が出てきて、「大丈夫ですか?」と声をかけてきた。
「大丈夫です。転んだだけです」
「そうですか?」
わたしは急いで立ち上がる。
痛いと思ったら掌を擦りむいていた。
「怪我をなさっていますね。よければ、消毒しましょうか?」
「いいえ、これくらい大丈夫です。ありがとうございます」
武史はわたしを置いて先に行ってしまう。
わたしは急いで店員に頭を下げて、武史を追った。
「武史、待って」
「俺たち別れよう。4年はちょっと長かったな」
「今更、わたしを捨てるの?」
「重いんだよ、存在が」
「今朝までわたしたちうまくいっていたよね?」
「幻想じゃねえ?」
「幻想なんかじゃなかった」
擦りむいた掌から血が流れている。急いでハンカチで掌を巻いた。
「荷物は全部捨ててくれていいよ。ああ、スーツは困るか。今から取りに行くわ」
「今から?」
武史は早足に歩いて行ってしまう。
☆
武史は途中の店で段ボールを二つ貰って帰ると、そこにスーツと普段着と下着を詰めて、「後は捨ててくれ」と言って、合鍵も置いて出て行った。
わたしは、部屋に入ったままの姿で、武史の動きを見ていた。
二人で楽しんだゲームも、そのまま残して、本当に身の回りの物だけ箱に詰めて、出て行った。
扉が閉まった瞬間、わたしの中ですべてが終わったような気がした。
確かに、4年間の同棲は長かったかもしれない。
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