第8話
(これは、まずい)
目指す質屋を目前にして、歳三はおおいに困っていた。勢いに任せて質草を出しに行くと告げたはいいが、何を預けたかまでは言っていない。言う必要ないと思っていたのだ。
だがここにきて質草が何かわかってしまうと気づいた上で、愛刀を預ける羽目になった顛末をようやく思い出していた。
(いや、別に理由を言う必要はないが…)
とはいえ、侍の魂とも言える刀を手放す、それも質に入れるなど恥ずべき愚行、というのが世間の良識だ。
それが仮にも剣の道を生きると決めた者なら、なおのこと。何振りもある内の一つだから…などと見え透いた嘘はつく意味もない。
歳三の場合、己の無計画さと、金の無さが招いた結果で、言うなれば身から出た
(つうか、正直に理由まで言うとこいつのせいみたいで嫌味ったらしいし、金に困って…ってのも、なんだかなぁ…)
もう一度言おう。身から出た錆である。
最後の角を曲がった時、切羽詰まった歳三の足はついに止まってしまった。数歩行った先でそれに気づいた八郎が振り返った。
「土方さん? どうしまし──」
ふいに途切れた言葉に、歳三がふっと顔を上げたのと、八郎が歳三の腕をつかむのはほぼ同時だった。
「──振り返らずに」
「っ」
その言葉にすべてを察した歳三は、舌打ちしそうになるのをどうにか堪えて言った。
「このまま、行くぞ」
「…ええ。後ろに二人、その向こうもおそらく」
何事もなかったかのように歩き始めた二人は、最大限神経をとがらせて背後を探る。確かに嫌な気配を少なくとも複数人、感じ取れた。
「ちっ」
今度こそ漏れた舌打ちを気にするそぶりもなく、八郎は質屋の看板を見て言った。
「店って、ここですか?」
「…あぁ」
(くそっ、油断した)
くだらない事に気をとられて、気配に気がつかなかったのは、完全に歳三の不覚である。そうこうしている内に、この数日間、待ち望んでいたはずの質屋の前を素通りしていく。
歯噛みして俯いたまま、やり過ごそうとしていた矢先、思いがけぬ方から声がかかった。
「あっ、お兄さんっ。やっと来た~」
「──あ」
質屋と反対側の店から、藍の前掛けをした男が手をあげて出てきたのだ。悪気がないとは言え、かなり間が悪い。
「もう寄られたんです?」
「──いや、…あんたには改めて、礼をする」
歳三はさりげなく顔を反らして素っ気なく答えるが、男はついに往来の真ん中までやってきてしまった。
「え? そんな礼なんていいですよ~。あれ、親父さん、居ませんでした? おかしいなぁ」
言葉を
「──いや、その」
「そこに居るんは、この間の─…」
仕方なく顔を上げた歳三の背中に、杖の音とともに届いたもう一つの声。良くないと思いながらも、歳三はゆっくりと後ろを振り返った。そこには
「ああ、やっぱりあんただ。例の奴だろ? 待ってたよ」
「…っ」
今すぐ喉から手が出るほど、取り戻したい物がそこにある。ほとんど無意識で足を踏み出しかけた歳三を押しとどめたのは、低く抑えた小さな声だった。
「──こっち、見てます」
「っ、くそ…」
その声に目線だけ上げると、通りの影に身をひそめた輩と一瞬目があった気がした。
「ん? 何かあった──」
「悪い、親父さん。必ず戻る」
「………」
「え。ちょ、お兄さん?」
片眉を上げる店主に目で念を押すと、まるで状況を理解できていない男には返事をせず、歳三はさっと踵を返した。その様子に背後でざわつく気配があった。
「悪ぃ、つい足止めちまった」
「いえ、どのみち…」
そう交わした直後、背後から声が上がった。
「──気づかれたぞっ」
「追え!」
姿を隠すことをやめた輩がバラバラと通りに走り出てきた。
「お出ましだ」
その姿をちらと肩越しに確認し、二人は一気に駆けだした。それを追う輩は、通りを行きかう町人に怒鳴り散らしては土埃つちぼこりを上げ、こちらへ向かってきた。
二人はぐんと速度を上げて、通りを駆け抜けていく。その後ろ姿をあっけにとられて見ていた向かいの男と質屋店主の目の前を、必死の形相の男たちが後を追って通り過ぎる。
「どけっ! じじい、邪魔だっ」
「おっと」
さらにその後ろから、もう二人。通りに立つ二人の間を今まさにすり抜けようと、彼らを押しのけるべく腕を振った瞬間──。
それにぶつからぬよう横によけた、向かいの店の男の足が地面すれすれにすっと出され、反対側からは杖の先がするりと、まるで示し合わせたかのように差し出されていた。
「うぉっ!?」
「ぬぁ!」
派手な音を立て、もんどりうって転がった二人組は哀れな通行人を巻き込んで、ごろごろと地面を転がっていった。何事かと集まってきた野次馬が、彼らを覆い隠していく。
「派手に行ったのー」
「みんな大丈夫かな…」
そそくさと脇によけた男と、初老の店主は同時にそう言うと、お互いの顔を見合わせてにやりと笑った。
「親父さん、なかなかやりますね」
「なんだ、わしが何かしたか?」
「いえいえ、別に何も」
「ふむ。なんだかあんたとは気が合いそうだの。…ん? そういや、あんたどこかで見た顔だな」
「いやだな、ずっと向かいで商売してますよ~」
「ほう、そうか。どうもわしは面倒くさがりでいかんな。──…時に、わしんとこに丁度、美味い茶と菓子があるんじゃが」
「……私もちょうど、今から休憩なんですよ」
「そうかそうか」
闇雲に怒鳴り散らす輩を完全に無視して、二人は楽し気に笑っていそいそとその場を後にした。
◇ ◇ ◇
そんな顛末など露ほども知らないまま、二人はひたすら走り続けていた。少し距離は稼いだものの、未だあとを追ってくる気配がある。押しのけられたであろう通行人の悲鳴と、何かをひっくり返す物音が彼らの居場所を教えてくれていた。
方角がわからなくなる程曲がり、時には大通りの人混みの間を抜け、人の影に隠れてまた裏通りへと体を滑り込ませて町を抜けていく。
困ったのは駆け出してすぐに、江戸屋敷が立ち並ぶ
徳川幕府発足のころならいざ知らず、近頃は参勤交代も
さらに江戸屋敷は大名に一つではない。小さな国であろうと上、中、下屋敷と最低三つは所有(上屋敷の殆どは幕府より拝領)している。それが旗本ともなれば中屋敷や別邸の意味もある下屋敷は、複数構えるのが普通だ。
屋敷の規模に差はあれど、そうした屋敷は町民とは分けられ、必然的に固まって建てられていた。つまり、行けども行けども白塀や長屋門が続く通りが出来上がるという訳だ。当然、身を隠す場所などどこにもない。
なんとかそこから抜け出し、さらに北へ向かうと、八郎の地元に近い場所だった。地の利がこちらに来ると、徐々に罵声が遠のいていった。もちろん、行商で培った歳三の指示も的確だったのは言うまでもない。
歳三は走りながら、追っ手の事を考えていた。昼日中から姿を見せたこと、人目もはばからず追ってきたこと。釈然としない点はいくつかある。隣を行く八郎にちらと目線をやった。
「おい、どっちの客かわかるか?」
一瞬の間の後、八郎は前を向いたまま答える。
「──いえ。それはわかりませんが、今追ってきているのは二人のようですね。もう少し居たように思いますが、どうやら出鼻をくじかれたみたいで、今は居ません。二手に別れた風もない」
「…そうだな」
その追っ手もすでに遠く引き離している。それきり二人は無言のまま、足を緩めることなく裏通りを駆けて行った。
さすがに息も上がってきた頃、ふいに視界が開けた。緑が目立ち、町家の向こうには寺社の屋根がいくつか見える。奥には果樹や田畑もある。
自然と走る速度も緩やかになり、息を整えながらゆっくりした歩きに変えていく。
「はぁ…、どこだ、ここ」
「ふー、えっと、駒込ですね」
「……だいぶずれたな」
「すみません、色々避ける内にこっちへ来てしまいました」
「いや、良い選択だ」
とにかく、二人とも一度腰を落ち着けるべく、手ごろな神社の境内へ入った。宮司も居ない小さな社で、ひっそりとしているのは好都合である。雑木林に囲まれ、身を隠すにはうってつけだ。
「ようやく、諦めたか」
「ええ、しつこくて参りました」
井戸を見つけて水を汲み上げた。桶から直接、喉を鳴らして飲むと、ようやくひと心地ついた。新しく汲み上げた桶を八郎に手渡すと、歳三は近場の切り株に腰を下ろした。手ぬぐいを出して額の汗を拭っていく。
(さて、どうするか)
新しく額に汗が滲んでくるのをそのままに、歳三は頭を巡らせていた。その横では、桶の水でさらに顔も洗ったらしい八郎が、豪快に頭を振って水しぶきを飛ばしている。
手ぬぐいを持ち合わせていないのか、袖で拭おうとしているのを、歳三が手ぬぐいを差し出した。
「ったく、良いとこの坊ちゃんらしくねえな」
「坊ちゃんじゃないですし。すみません、借ります」
受け取った手ぬぐいで控えめに顔だけ拭うと、丁寧にたたんでそれを返した。前髪から滴が垂れているのはご愛敬だ。
(すぐには戻れねえ。だが、こうなると余計に刀は手に入れねえと…)
受け取った手拭いを手にしたまま考え込む、歳三の横顔を黙って見つめていた八郎が、ふいに目の前に立った。
「ところで」
「ん?」
ふいに顔を上げた歳三を彼はまっすぐに見つめて言った。
「あなたは、誰に追われているんですか」
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