第4話
少し時を
「──潮時、かな」
ここ数日、こうした日が続いている。しばらく経って女が戻って来ても、返って八郎の方が気遣ってしまい、ただ一緒の布団に入って寝るだけだ。
何も考えず、ひたすら女の身体を貪ったのは最初の数日間。だがそれも身体が満足しても、心が満たされることはなかった。
「どうするかなぁ…」
八郎は考えていた。ここへ来てから、時間だけはあるので、ひたすら考えていた。己の存在、というものを。
食って行くのに困っているわけではない。生まれに不服もない。剣術は思っていたより楽しく、もっと先を目指したいと思った。
少々複雑な家ではあるが、実父の養子になった義兄(後の義父となる)が跡目を継いだことに、不満はない。父とて伊庭へ養子に来た身だ。そういう家なのだと納得もしている。
それに物心ついた時には、すでに義兄が
幼い頃は蘭学にのめり込んだ。厳しい稽古をする門弟たちを尻目に、目新しい学問に夢中になった。それを剣の道に誘ったのは、義兄である。
すでに剣豪として内外から認められていた義兄、秀俊は八郎の才能を見抜き、少々強引に剣術の世界へ引き込んだ。最初こそ反発していた八郎だったが、すぐにその面白さ、奥深さにのめり込んでいった。
そのまま師範代をめざすのかと、おぼろげに考えて、ふと思考が止まった。
『その後は?』
何も出てこなかった。父は既に隠居の身だ。家督と道場は義兄が立派に跡を継いでいる。剣の腕に多少の自信はあるが、幕臣の身分を引き継ぐのは義兄だ。八郎は長男でありながら、次男という立場にある。
存在する、ということは、そこにあるという意味である。では、ただそこにあるだけで存在しているのかというと、八郎は、否と考えた。そこにあるだけでは、物と同じである。では、どうすれば存在していることになるのか、それがわからなかった。
漠然とした不安に足元が揺らいだその時、ある問題が起こった。何も考えられず、勧められるまま馴染みの女郎の所に転がり込んでいた。そのまま、一体ここで何日過ぎたのか、よくわからない。五日や六日でないのは確かだった。
その翌日、ふらりと外へでて戻ってきた時、廊下の奥からの声に耳を疑った。
『──続けて泊まったら、お縄なんでありんしょう? 姐さんが言っていたえ。あの人、いつまで居るんでありんすか?』
頭を殴られたような衝撃だった。八郎は知らなかったのだ。まさか連泊を禁止しているなどと。ふらつきながら、後ずさると、その背中にそっと小さな手が添えられた。
「旦那様? お帰りなんし。ほら、
「──お前」
「部屋、行きんしょう?」
女はこの決まりを知ってか知らずか、初日からずっと態度を変えていない。言われてみれば、いつだったか番頭が何か言いたそうな顔をしていたように思うが、そもそも最初の頃の記憶が
結局、女に背を押されてすっかり見慣れた部屋に入った八郎は、二日を過ぎたのなら、七日も十日も同じと腹をくくった。どうせ、行く場所などない。
それから居心地の悪さを自覚しつつ、同じ部屋で過ごすこと、さらに数日。いよいよ追い出しにかかったのか、女の居ない時間が増えてきて、ここらで潮時かと、八郎が一人きりの部屋で寝返りを打ったその時。
〝──土方さん!〟
「え?」
思考の海を漂っていた八郎の耳に、通りからよく通る声が飛び込んできた。慌てて身体を起こし、素早く窓辺からそっと通りを見た。
大柄な男が誰かに駆け寄るのが見えた。
「あれは、…永倉さん?」
駆け寄った先は、軒が邪魔してよく見えない。おそらく先ほど呼ばれた相手で間違いない。八郎がアレコレ考えるよりも先に、視界に戻って来た二人組は、やはり見知った二人で、そのまま隠れるように向かいの路地裏に消えた。
「なんでここに? ……何か、あったのか?」
八郎はさっと掛けてあった羽織を取り、襖を勢いよく開けた。
「きゃっ!」
「おっと」
そこにはこの部屋の主が盆を手に、まさに襖に手を掛けようとしていた。上気した頬に少し髪が乱れているが、そっと見て見ぬ振りをした。知らないままがいいこともある。
「あぁ、びっくりしたえ~。…旦那様、どちらかへ行かれるんでありんすか?」
「あ、ああ。──…長らく世話をかけたね。今宵、帰ります」
「え」
するとどこに居たのか、番頭が脇からぬっと顔を出した。
「いやいや、そうですかぁ。お帰りですか! 残念ですけど、無理は申せませんからね~。また、吉原にお越しの際は当稲本楼をご
「…あい」
八郎の綺麗な眉がほんの一瞬、くっと歪むが、次の瞬間には綺麗な笑みを二人に向けた。
「いや、急ぎの用を思い出したので、ここで失礼しますよ。
「っ、旦那様!」
「いいから、ね。………そのうち、また来るよ」
女は以前から八郎の気に入りだった。居座った理由は話していないが、詮索してくることもしなかった。何か事情があると察してくれているのだろう。
とにかく、今はそれより気になる事がある。女の袂にさっと路銀を落としこむと、そっと頬を撫で背を向けた。
八郎が玄関の
「出遅れたか…」
八郎は手にした羽織を肩にひっかけ、静かに人混みへその身を投じた。
◇ ◇ ◇
総司はいらついていた。事情を知らないとはいえ、近藤も佐藤道場の面々も、わざとじゃないだろうかと思えるほど、先を急ぐ気配がまるでないからだ。
もっともらしい理由をつけて、早く試衛館へ帰ろうと再三訴えたが、二つ返事の舌の根が乾かぬ内に、『ああ、それであの件は…』と話が始まる。もうそれを昨晩から何度繰り返したか分からない。
近藤を生涯の師と定めた総司だが、酒が入るとやたら話が長いのだけは、頂けないと思っている。とはいえ、久しぶりにあった義兄弟同士、こうして話が尽きないのを少しだけ羨ましく思う所もある。
「──にしても、一体いつまで話してんだ」
こういう時、近藤を急かすのはだいたい源三郎の役目である。彼の兄もまた、近藤らと義兄弟の誓いを交わしている関係上、彼らの付き合いは長い。もっとも近藤を御するのが一番上手いのは、悔しいかな、あの歳三である。
「もう、今日…帰れるのかな」
総司がため息をこぼしたのと同時に、またあちらから大きな笑い声が上がった。
その後、総司と近藤が日野宿を後にしたのは、予定から半日遅い、昼八つが過ぎた頃だった。急げば日暮れにどうにか間に合うかどうかの時刻だ。
「近藤さん…話長すぎです」
「いやぁ、すまんなぁ、総司。彦五郎と積もる話があったもんだから。お詫びに途中で甘味屋寄ってやるから、機嫌直せ、な」
「……それはまた今度にとっておいてください。今日は休みなしで帰ります。さ、無駄口はお終いです。急ぎますよ」
「おいおい、総司っ。おーい!」
「ほら、早く! 置いて行きますよ」
「本気かぁ? しょうがないなぁ…おーい待てってば」
近藤はすっかり頭から抜け落ちているのか、すでに警戒心のかけらもない。総司は出来る限りの早歩きで、さらに四方に目を光らせて山道を急いだ。
◇ ◇ ◇
その頃、歳三はまた町に居た。道場で夜を明かした連中とは別に、左之助と遅くまで話し込んでいた歳三も大いに寝坊した。朝と言えるぎりぎりの時刻に、かろうじて
近藤の妻、つねの嫌味に苦笑いを返しつつ、
(にしても、俺ぁ、あの嫁は苦手だ)
何を思ってつねと夫婦になったのか、疑問に思うもついぞ聞く機会がない。というより、よもや
(勝っちゃんと女の趣味が合わねえのだけは、確かだ)
存外失礼な事をつらつらと考えながら、部屋に戻った歳三は、支度を整えるとすぐ出かけた。もちろん、昨日買戻し損ねた大刀を手にするためだったのだが…。
「おいおい、なんで閉まってんだよ」
休みなく歩いて来た歳三は、昨日と同じ店の前に立ち、呆然とした。時刻は昼九つ、真っ昼間だ。周りの商店はどこも活気に満ちて、人通りも昨夕とは比べ物にならない。
「まさか、休み?」
念のため、木戸を叩いてみたが、当然ながら物音ひとつしない。
「──あれ、お兄さん、昨日の…」
すると、またしても後ろから声をかけられた。振り向けば、昨日も声をかけてきたはす向かいの店の男が、藍の前掛け姿でこちらを見ていた。
「すまない、ここの店は…」
「あれ、今朝は開いてないね。おかしいな、いつもならとっくに開いてるんだけど」
「………」
歳三の落胆は大きい。それが顔に出ていたのか、男は自分の店からあれこれ歳三に持たせてくれたが、正直何を言っていたのかもよく覚えていない。
「くそっ」
いつまでも慣れない刀の軽さに、悪態が口を衝いて出てくる。こうも肩透かしを喰らっては、落ち込みもする。
明日も朝から店を訪ねる気になれず、男に店が開いたら知らせてもらうよう、いくらか金を渡してきた。よほど気の毒に思えたのか、『必ず朝一で文を出すよ』と言っていたように思う。
「まさか、このまま店辞める、とかじゃねえだろうな…あの親父」
預けた時はさして変な様子もなく、不愛想ではあったが、取り扱っている品も多く、よくある質屋に思えた。急いでいたとはいえ、馴染みの店に行けば良かったと後悔しても遅い。
駄目元で辺りの店に聞き込みをしてみたが、かなりの偏屈者らしく、誰も閉めている理由どころか、家すら知らなかった。
「何かあったらどうする気だ、商売人のくせに」
こう見えて、十年に及ぶ奉公と、今も実家の薬の行商をしている歳三である。商売において人脈がいかに大事か、身を持って知っている。
(こうなったら、勝っちゃんに頭下げて、一振り借りるしかねえか?)
いつまでも、竹光を下げている訳にはいかない。気になる事もある。ひと際大きく息を吐き出すと、歳三は前を見据えて、大股で歩きだした。
「──え、帰った?」
ほどなくして、稲本楼に着いた歳三は、思わずそう聞き返した。
怪しまれぬよう、『荷物を言付かって来た』(男に持たされた荷物をちゃっかり流用した)と、番頭に伝えたところ、反対に
「ええ、昨晩。まだ
「あぁ、ええっと、そう…ですか。おかしいな、入れ違いになったようで。──…では、これは持ち帰ります。失礼」
頭の先からつま先までをぶしつけな視線を浴びせられ、歳三は早々に退散した。
「どーすんだ、この先」
昨夜、ということは、ここではないどこかで夜を明かしたということだ。同じ吉原の別の店…という可能性は低い。吉原に居ないなら、捜索範囲は江戸中に広がることになる。到底、歳三一人がどうにかできるものではない。
まさにお手上げ状態である。歳三は人通りのまばらな吉原大通りを、ゆっくり歩いた。妙に足が重い。来る前に腹が減っていたことはすっかり頭から抜け落ちていた。
「あー……くそぉっ、あの馬鹿!」
大門をくぐった瞬間、思わず大きな声が出た。近くの通行人が数人、びくっと身体を震わせたが、歳三の知ったことではない。無性に腹が立ってきた。
(だいたい、なんで俺があいつのケツを追い回さにゃならねえんだ)
歳三は眉間に皺を深く刻んで、大股で歩き始めた。
(大刀を質に入れたのだって、元を正せばあいつのせいじゃねえか)
そんなことはない。元は歳三の金の無さが招いた結果である。
(もう、俺ぁ、降りる。やってられるかっ)
心の中で思うまま悪態の限りをつき、肩を怒らせたまま歳三は試衛館に戻っていった。
試衛館にいつもより短い時間で帰り着くと、そのまま厨に向かい、水を三杯一気に流し込んだ。そこで
布団が乱雑に畳まれている横を抜け、奥の端まで行くと、両手両足を投げ出して寝転がった。こうなれば、ふて寝である。往復四里近く、行きも帰りも、結局休まず歩き通した。確かな疲れと、寝不足も手伝ってか、すぐに寝息が聞こえてきた。
その眠りが妨さまたげられたのは、日が西の空へ沈みかけた頃だった。
「──…方さん、土方さんっ。もう、起きて下さいってば!」
大きく揺さぶられて、はっと目を開けるとそこには、総司と、近藤の顔があった。そして、その向こうにもう一人。
「…! お、おまえっ」
「昼間っから寝てると思ったら、起き抜け第一声が、それですか。まったく、こっちの気も知らないで…」
目の前で眉根を寄せる総司も、近藤も通り越して、歳三の目はその向こうに釘づけだった。その相手が軽く頭を下げた。
「お久しぶりです、土方さん」
伊庭八郎、その人だった。
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