第224話 初日

 ミーティア・シャテルロー公爵令嬢が従業員としてビストロ ヴェスティビュールで働くこととなった。

 そうはいってもいきなり全ての仕事を覚えてこなすのは不可能である。

 店ではまず、カウマンとマキロンとレオが出勤する。それからお客様を迎え入れるために果実水を用意したり、その日のメニューの確認をしたり、前日のうちに済ませておいた仕込みから作れるものは作っておく。バゲットを焼いたりサラダを用意しておいたり様々だ。

 そうこうしているうちに店は開店する。テイクアウト客の対応、店内で食事をする客の対応。

 昼前にソラノが顔を出し、朝食兼昼食を食べる。ここで今日のおすすめメニューなどを確認し、店の状態を聞く。

 賄いを食べ終えたソラノが店で給仕係を引き受けて、マキロンとレオは入れ替わりで休憩を取り、午後以降の仕事に備える。

 そこから先、店はランチタイムになるので忙しい。

 お客様をお出迎えし、注文を取り、飲み物を運び、厨房では料理を作り、出来上がった料理を運び、空いた皿を下げ、飲み物のおかわりを注いで、お会計をし、お客様を見送り、テーブルを綺麗にし、また新たにやってくるお客様を歓迎する。

 合間にやってくる空港職員や冒険者が弁当やバゲットサンドを注文するのでそれにも応じる。

 厨房も客席も火がついたように忙しくなるが、慌ただしさを感じさせてはならない。

 あくまで余裕のある接客を心がけつつもお客様を決してお待たせせず、注文ミスがないように細心の注意を払う。

 やがてランチの時間が過ぎると少し余裕ができるので、そこでカウマンとマキロンの二人は仕事を終える。元気なレオは休憩で賄いをかきこんだ後にまた夕方以降の仕事に備える。


 第二のピークタイムは夕方以降、ディナータイムとなる。

 ここでの忙しさはランチとは少し異なっている。

 ディナーはランチよりゆっくり楽しむ人が多いので、一人一人のお客様が注文する品数が多かったりワインのおかわり回数が増えるのだ。矢継ぎ早に入る追加注文に対応しつつ、新規のお客様をお迎えしつつ、帰るお客様を見送る。

 こうして夜半までの営業時間をこなすと、やっと閉店時刻だ。

 店のスクリーンをおろしてターミナルから見えないようにした後に、遅めの自分達の夕飯を取ってからの閉店作業。

 バッシとレオは明日の仕込みをし、厨房を綺麗にし、ソラノは床を掃き、テーブルを拭き、お皿やグラスをピカピカにし、本日の売り上げをまとめる。ゴミ捨てはジャンケンで決める。

 こうしてビストロ ヴェスティビュールの長い一日が終わるわけなのだが、ミーティアにこんなことを話したら目を回してしまうだろう。

 ソラノは店の一日をかいつまんで説明した後、担当してもらう作業の説明をした。


「とりあえず今日は空いたお皿の片付けをしてもらって、店の様子を見ていてください。できそうだったら明日からお客様を客席まで誘導しましょう」

「はい!」


 ソラノと同じくモスグリーンのワンピースを身にまとい、美しい金髪を邪魔にならないよう高い位置で一つに結い上げたミーティアは返事をする。

 社交界に出ていたとはいえ、ほぼ屋敷の中に引きこもって生活していたミーティアにとって、もうすでにこの時点で何もかもが新鮮な驚きに満ち満ちていた。

 用意してもらったワンピースはミーティアがいつも着ているような裾長のドレスではなく、ふくらはぎまでのものだ。白い襟付きで、全体的にはモスグリーンの落ち着いた色合いのもので、えんじ色のリボンタイがポイントになっている。

 黒いタイツとパンプスを合わせた装いに自分がまるで別人になったかのような錯覚を覚え、ミーティアは部屋の全身鏡の前で一人ポーズをとってみたりした。

 エア・グランドゥールまでは護衛付きで来て、そこから先は一人で店に入る。

 そして今に至るというわけだ。

 昼前、つまりソラノと同じ時間帯にやって来たミーティアは、ソラノにエプロンとメモ用紙、それからペンを手渡された。


「はい、エプロンつけてください。メモとペンはエプロンのポケットに入れておくと、何かとメモを取るときに便利でいいですよ」

「はい。……えっと、このエプロンはどうやって身につければいいのでしょう」

「腰で巻いて後ろでリボン結びにするんです」


 言いながらソラノが自分のエプロンを解いて、目の前でレクチャーしてくれる。

 見よう見まねでミーティアもワンピースの上から腰にエプロンを巻き、後ろ手でリボン結びを作ってみた。


「見えない状態で結ぶというのは、結構難しいものなんですね」

「慣れればすぐにできるようになりますよ」


 エプロンを着用するだけで既にもたついているミーティアに、ソラノはにこりと笑って励ましかける。

 次にトレーを渡され、ミーティアは受け取った。


「じゃあ、空いているお皿をどんどん下げてください。もしお客様に話しかけられたら、『少々お待ちください』と伝えて、誰でもいいので私たちの誰かを呼んでくださいね」

「はい」

「よし、じゃあ、行ってみましょう」


 鼓舞されたミーティアはカウンター内から客席がひしめく店内へと足を踏み出した。

 決して広くはないが天井が高いおかげで開放感のある店内は、淡いオレンジ色の照明の光を受けて落ち着いた雰囲気を醸し出している。

 どきどきする気持ちを外に出さないように気をつけながら、ミーティアは今しがたお客様が帰ったテーブルに近づいて、空いたお皿とワイングラスをトレーに載せ、持ち上げようとしてーー。


(……お、重い……!)


 お皿のあまりの重さに衝撃を受けた。

 ミーティアは大貴族の令嬢なので、当然屋敷には数多の使用人がいる。給仕は専属の者が配膳から何から全てやってくれるので、自分でお皿を持ち上げたことなど生まれてこの方一度もなかった。


(お料理が載っていない、空のお皿がこんなに重いだなんて知りませんでしたわ……)


 ちらりとソラノを見ると、彼女は空いた別のテーブルのお皿を片付けていた。それも皿の上に皿を二枚三枚と重ねた挙句に軽々と片手で持ち上げ、まるで大したことがなさそうに店の中を突っ切り、カウンター内の流し台へと運んでいる。


(わたくしも頑張らなくては……あっ)


 とにかく片付けなくてはとなんとか両手でトレーを持ち上げると、ワイングラスがトレーの上でグラグラとした。脚の長いグラスはバランスを取るのが難しく、少しでもトレーが傾くと倒れてしまいそうだ。


(あっ、あっ、大変)


 ミーティアは声に出さず、しかし内心で大パニックを起こしながら、重いトレーを両手で支えつつどうにかこうにかグラスを落とさないようにカウンターまで運ぼうと奮闘した。

 だがそんな努力も虚しく、トレーは徐々に傾き始める。この一年間、刺繍針より重いものを持っていなかったミーティアの細腕ではお皿とグラスを同時に運ぶというのは至難の業だった。斜めになったトレーからお皿とグラスが滑り落ちそうになるのを、ミーティアは悲痛な面持ちで見つめるしかできない。


(このままですと、お皿もグラスも割れてしまいますわ……あぁ、やっぱりわたくしに、給仕役なんてできっこないんですね……!)


 今までの自分を変えられるかも、と舞い上がっていた今朝までの自分が恥ずかしい。そんなに簡単に人が変われるはずがないのだ。お皿の一枚も運べない自分がいたって、店に迷惑がかかるだけである。社交界にも出ず結婚話も進めず、おまけにエア・グランドゥールにまでのこのこやって来て皿を割るような自分を好きでいてくれる人なんかいるのだろうか。今度こそルドルフだって愛想を尽かしてしまうに違いない。ミーティアはもう、泣きそうだった。

 そんな絶体絶命のピンチを前にして早くも心が折れそうになったミーティアの元に、文字通り救いの手が差し伸べられる。

 ミーティアが危なっかしい手つきで持つトレーの中心をさっと片手で支えたのはソラノだった。たったそれだけの動作で、トレーが水平に支えられる。


「ミーティアさん、トレーは両手ではなく片手で持った方がバランス取れます」

「え……」

「しかも、手のひらじゃなくて指の第一関節あたりまでで、持つというより指に載せる感じにするといいですよ。中心をこうして支えると、自然とグラグラしなくなるんです」


 ミーティアよりもよほど細いソラノは、確かに左手の第一関節までの五本の指でしっかりとトレーを支えていた。さっきまで左右にガタガタグラグラしていたワイングラスも安定しており、全く危なげがない。


「それから姿勢も、前かかがみじゃなく背筋を伸ばした方が持ちやすいんです」


 ソラノはもはや、左腕で支えているトレーを見てすらいない。余裕のある笑みをたたえ、しゃんとした姿勢でミーティアを見ながらアドバイスをするソラノを見てミーティアは感動した。


「ソラノさん、凄いですわ……!」

「慣れればミーティアさんもすぐにできるようになりますよ。初めから教えておけばよかったですね……すみません」

「ソラノさんが謝ることなんて、何もありませんわ。わたくしが世間知らずなだけなのです」


 普通、公爵令嬢は皿の運び方など知らなくて当然なのだが、ミーティアはもはや己が大貴族の令嬢であるという事実を忘れかけていた。今この瞬間、ミーティアはシャテルロー公爵家の皆が溺愛する深窓の令嬢などではない。ビストロ ヴェスティビュールで働く新人給仕係である。


「わたくし、やってみますわ」


 ミーティアは青く輝く瞳でソラノを見つめると、左手を伸ばした。ゆっくりとトレーを受け取ると、未だかつてない重みが指先から左腕にずしりと伝わってくる。しかしここで負けてはダメだ。ミーティアは眉根を寄せ、歯を食いしばってトレーを支えた。

 すると、不思議なことに、確かに両手で支えるよりも遥かにバランスが取りやすかった。あまりの重さに指がつりそうになったが、どうにか耐える。背筋が曲がらないように気をつけながら歩き、カウンター内に入ると、流しの中に皿を置いた。


「やりましたわ……わたくし、運べました!」

「その調子です、ミーティアさん!」


 大げさに喜ぶミーティアを褒めるソラノ。自信を取り戻したミーティアは再びお皿を下げるべくトレーを持って客席へと向かった。



 やがて店はランチタイムに突入し慌ただしくなった。こうなるともう、ソラノもミーティアの動向をいちいち気にかけてなどいられない。ここが店である以上、最優先すべきはお客様である。

 ミーティアは黙々と与えられた仕事をこなす。何度も往復してお皿を下げているうちにミーティアも段々とコツが掴めてきた。

 これはつまり、ダンスをする時の感覚と似ていた。

 背筋を伸ばして、指先まで力加減を気にしつつバランスをとりながら歩く。

 最近ではめっきりダンス練習もしていなかったけれども、一年前まではミーティアも舞踏会に顔を出していたので、体がきちんとダンスをしていた時に気を付けていたことを覚えていた。

 徐々に配膳が上手くなってゆくミーティアは、ただ皿を下げているだけなのだが楽しくなっていた。

 店はソラノやレオがお客様に応対する声や、厨房で料理をする音、談笑するお客様の楽しそうな声、カトラリーが動く音などに満ち満ちている。

 活気に満ちた店の中、ミーティアはお皿を落とさないよう、お客様にぶつからないよう細心の注意を払いつつ移動していた。

 ミーティアに自覚こそなかったが、その動きは優雅そのものであった。

 ソラノとレオの動きは基本的にテキパキとしているが、ミーティアは彼らとは一線を画するたおやかさを備えていた。これはもう、育ちがものを言っているのだろう。生粋の令嬢であるミーティアは己に施された淑女教育を余すことなく発揮して、お皿を下げまくった。

 初めのうちは店の面々に言われたテーブルに向かっていたのだが、慣れてくると言われなくてもわかるようになってくる。そうして集中力を発揮したミーティアは、ただひたすらにお皿を下げることに従事した。

 ランチタイムが過ぎ、カウマンとマキロンが帰るのを見送り、そうしてディナータイムとなる頃、一人の見知ったお客様が現れた。

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