第115話 アーニャの苦悩
「やれやれ、やっと終わったね」
「はいぃ、すみません……」
もはや二人以外誰もいなくなった商業部門のフロアでアーニャは自身の上司であるガゼットと書類を片付けていた。中年の上司は少し出っ張った腹のせいで制服がはちきれそうだ。
「売り上げ数字を一段ずつズレて記入するなんて、何をやっとるんだ」
「返す言葉もございません」
本日のアーニャの業務は各店舗から上がってきたその日の売上高をまとめて記載することであったが、事もあろうに全てを書き終えてから最初の方で一段ずつズレて記載していたことに気がついた。
ため息をつきながらも付き合ってくれるガゼットには頭が上がらなかった。妻子がいる彼は仕事で面倒ごとは嫌い、出世しようという強い心意気もなく主任という地位で満足している様子であるが、アーニャのミスを訂正したり直すのを手伝ってくれる。
シュンとしながら片付けを終え、ガゼットに再び謝罪とお礼を言うとロッカーへと行く。着慣れた制服を脱いで私服に着替えるとスゴスゴと職員用通路を通って第一ターミナルへと行く。
「またやっちゃったわ……」
初歩的なミスを繰り返し続けるアーニャはこの部署で下っ端もいいところであった。
お茶汲み、お掃除、簡単な事務作業、店舗への事務連絡。
たまに任される仕事は期待されている成果を上げられないので雑用に戻される、という日々を繰り返し続けている。
アーニャとて努力していないわけではない。夢はエアノーラのようなバリバリのキャリアウーマンになることなのに、その夢はまるで空に浮かぶ月のように手の届かないところにある。
働き始めてもう四年ほど経つのにまるで進歩しない自分に自分で嫌になる。
「こういう日はパーっと美味しいものを食べて飲んで、もう忘れるに限るわ!」
立ち直りの早いところがアーニャの取り柄だ。この切り替えの早さがなければとっくにこの職場を辞めていただろう。
帰ろうとしていたが目的地を変える。くるりと飛行船の搭乗ゲートに背を向けると、その先にある小さな店へと足を進めた。
向かう先はビストロ店。
「いらっしゃいませ」
「あ、レオ君だ。まだ働いているのね」
賑わう店の中ではホールに躍り出ているレオがいる。手が大きい彼が両手で捧げ持つ料理は安定感があり、見ていて安心感があった。昼はよく顔を合わせるのだが夜に見かけるのは初めてだ。アーニャは薄給なのでそれほどこの店に来られないという事情もある。
「おう。混んでるけどさっきひと席ちょうど空いたから、ゆっくりして行くといいぜ」
「ありがと……!?」
示された席を見てアーニャは飛び上がりそうなほど驚いた。
カウンター席の隅、壁際に位置するその席の隣にはとても見慣れていて、そしてとてもではないが隣に座るなど恐れ多くてできそうにもない人物が鎮座している。
「あら、商業部門のアーニャさん。お疲れ様。隣にどうぞ」
商業部門最高責任者、部門長エアノーラその人がそこにはいた。
アーニャは五秒はその場で固まった。
まさか木っ端職員の自分の顔と名前を覚えているとは思わなかった。こう直接声をかけられてしまっては、帰ることもできないではないか。
どうしよう、誰か助けて。
しかし助けてくれそうな人間はここにはいない。上司のガゼットは愛する妻と子が待つ家に帰ってしまったし、ソラノもレオも忙しそうだった。
覚悟を決めたアーニャは席に近寄り、恐る恐る席につく。
「お邪魔します……」
「ええ」
優雅にワイングラスを傾けるエアノーラをちらりとみる。本日も髪型、化粧、服装、靴とパーフェクトな出で立ちだ。一分の隙もないとはこの女性のことを言うのだろう。
「お疲れ様、アーニャ。注文が決まったら教えてね」
ソラノは果実水を出してそう言うなり他の客の注文を取りに去っていってしまった。
ひとまず何か注文しようとメニューを開く。緊張しすぎて本日のオススメを聞き逃してしまった。
「あの、とりあえずシャンパンを」
ちょうど前を横切ったレオに注文を通すと、シャンパンが出てくる。
飲み口のまろやかなそれを喉に流し込んだが、味わっている余裕などない。冷や汗が背中を伝い、気まずい沈黙が場を支配する。
店の中は賑わっているのにここだけが静寂に満ちていた。
エアノーラは自分から話しかけてくる気はないのか、口元に笑みを浮かべている。なんかもう、こちらの出方を伺い楽しんでいる様子さえ見え隠れしていた。
何か、話さなくては!
焦りにかられてアーニャは思ったままのことを口に出してみた。
「エアノーラ部門長が二十四歳の時って……どんな仕事をしていましたか?」
「二十四歳の時?そうねぇ、確か……課長として複数のテナントの管理と部下の育成をしていたわ」
「わぁ」
思わず間抜けな声が漏れる。同じ年齢の時にそれほど責任ある仕事を任されていたとは、やはりデキる女性は違う。
「どうすれば部門長みたいに仕事ができるようになるんでしょうか」
アーニャは思わず問いかけてみた。阿呆らしい質問かもしれないけれど、今のアーニャには切実な問題だ。そろそろこの立場から脱却したい。
「あら、私みたいになりたいの?」
「はい」
「そう」
エアノーラはワイングラスをカウンターに戻し、まっすぐにアーニャを見つめる。何もかもを見通しそうなその瞳に、アーニャはたじろいだ。
「簡単なことよ」
一言一句を区切るようにしてエアノーラは言った。
「私の直属の部下になって働けばいいの」
「えっ……」
「どうかしら? 今ちょうどそういう人材を探していたんだけれど」
エアノーラは至極真面目にアーニャに告げた。
これは試されている。
部門の最高責任者であるエアノーラなら、こんな聞き方などせずとも鶴の一声で采配を決められるはずだ。これはアーニャにやる気があるのかないのかを問いただしているのだ。
その道は険しく並大抵のことでは越えることなどできないだろう。
さりとてここで断れば、アーニャはそれまでの人間だったということになる。このまま一生雑用で終わっていいのか。それとも上を目指して、あえて厳しい道を進むのか。
店の中で忙しなく動き回るソラノが目に入った。
ソラノはたった一人でこの世界に放り出されたはずなのに、スレることなく動き続けた。潰れる寸前の店の立て直しをやってのけ、店は今や王女殿下が利用したという触れ込みで大繁盛している。
レオは料理人になるという夢を持ったらしい。厨房の手伝いもしているのだと、この前に話を聞いた。
ならば。
自分だけがここで停滞していていいはずがない。
「あの、部門長」
エアノーラはアーニャの言葉の続きを待つ。
「私、やります」
まっすぐにエアノーラの瞳を見つ返して言う。
いつまでもまごまごするのはやめよう。目標は高い方がいい。それがたとえ、頂上すら見えない険しい山であったとしても。
こうして声をかけられたということは見込みがあるということなんだ。
そう自分に言い聞かせ、アーニャは返事をしっかりとする。思っていたよりも自分の声に力があった。
エアノーラは赤い口紅の塗られた唇の端を吊り上げて満足そうに微笑む。
「そう、じゃあ、乾杯といきましょうか」
捧げもつグラスとグラスを軽くぶつける。チン、といい音が鳴った。
「私は厳しいわよ。しばらく眠れないと思って頂戴」
「はい、望むところです」
隣に立つだけで卒倒しそうになっていた頃に比べたら、こうしてまともに話せるようになっただけ大した成長と言えるだろう。
一口飲んだシャンパンは、舌の上で泡が弾けた。程よいアルコールにふくよかな味わい。
今までに飲んだどんなシャンパンよりも刺激的な味がした。
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