掌編小説・『ビタミンX』
夢美瑠瑠
掌編小説・『ビタミンX』
掌編小説・『ビタミン』
1 食べない未来
未来の社会では、既に「食事」は愉しみのみの行為で、栄養の摂取という観念から切り離されていた。
(星新一のショートショートの設定みたいだが、多分もっと面白くなるのでご容赦願う。)
…完全にノーカロリー、ノーファットの、極めて消化の良い、健康な胃腸を保つためのダイエタリーファイバーに絶妙な美味の成分だけが加味され、極上の食事なのだが、これ食べたら太るかも…とかの原始的な悩みとかとはもう人類は解放されていたのだ…
アルコールが欲しければそれ用の飲料はあったが、これも完全に無毒で、カロリーはゼロ。病気になる心配はなく、「酔い心地」だけが楽しめる。
「良い心地」になれるだけで、極めて健康に良い。
こういう技術の改良というのは誰かの損になるのでこれまでインヒビットされてきたのか?
そう疑う人もいるほどに今ではすべて管理されて合理化されている…
では、人体の維持、栄養の外部からの摂取なしの、健康な心身の維持、そういうことは、どうやって可能なのか?そう疑う向きもあろう。
一言で言うと、それは輸血で補っていた。
完全な栄養素がふんだんに浸透している、点滴よりも元気の出る理想的な血液、そういうものの輸血を、ニンニク注射の如くに週一で皆がしてもらうのだ。
それはつまり、あらゆる病原菌や疾病を免れ得るワクチンや、その人の体質に応じた特殊成分も理想的に含有された一種のオーダーメイドの「命の泉」みたいなもので、毎週輸血を受けることで誰もがたちまちどんどん若く元気になっていく。
そうして、間違った食事の弊害や、食品の汚染からもフリーで、食べるものが人間を作る…そのネガティヴな側面は完全に捨象されたのだ。
当然のように世間には健康人が増えていき、慢性病は撲滅され、社会も明るく元気になってきた。
この、「一人一人の人体を限りなく健康にすること、そのための完全な栄養管理・栄養デザイン、それこそが理想社会への王道、基本イデオロギーである!」、
それは案外盲点になっていて、いわばコロンブスの卵のような発見であり、そういう原理を再発見し、「ヘルスニュートリノロジー」つまり健康栄養技術学として体系的に理論化した鼻祖というか提唱者の女性生化学者、医師のA・ニシカワ女史は、30年前にノーベル生理学賞を受賞していた。
が、この完璧に思えた栄養管理社会にも一つの死角があった。
それは何か?
2 ビタミンX
現在の、そうした「完全栄養管理社会」における、自然物との縁を切った、人工的な「不食事習慣」がもたらす生活習慣病、それが存在するか否かについて大規模な疫学的な調査が施行され、その結果、「人工栄養」のみの文明人には、従来の自然な食生活を送っている孤島等の未開民族に比べて、有意に原因不明の「不定愁訴」が多いことが確かめられた。
肉体的にどこにも不備はないのだが、何となく調子が悪い。
気分が冴えない、そうして極端なケースではうつ病となり自殺に至る・・・
そうした事例が格段に多く、しかも年々増えていく傾向にあったのだ。
「つまり…従来の食生活では普通に補われていた何かが、人工栄養のみだと欠損していて、それが不定愁訴やうつ病に繋がっているのだ」
「原則的に自然物と完全に同じ栄養を、ミクロングラム単位で構成しているので、可視的なそうした不足物というのは見つかっていません。」
「乳酸菌とかポリフェノール、微量元素とかも食品分析の結果から必要不可欠なものは網羅されているはずだ。厖大なデータをどこまで完全に解析できるかだと思うが…」
「コンピューターの分析では未知の何かが不足しているとしか思えず、<A.・Ⅰ>はそれを「ビタミンX」と名付けて、解析中ですが、今の処正体不明です」
「ビタミンXか…いったい何なんだろうな」
担当部局では公聴会やら諮問委員会、有識者会議を連日にわたって開催して、問題の解決に躍起になっていた。
「増加しつつある<ビタミンX>の欠如によるとみられる精神疾病について」は、国家や人類の未来に向けての、文明社会の根幹を揺るがす問題った。
漢方の専門家は、「それは「気」の不足だ」と、一言のもとに切り捨てた。
「食物にも目には見えない「気」というものがあって、人工栄養にはない。そのことが人間の精神的な活力を減殺してしまうに違いない」
非常に説得力はあったが、神秘的な発想で、どうしようもないことをどうしようもないと言っているだけで、数学の時間に仏教の哲理を持ってくるようなものだとハネられた。
天文学者は、「宇宙線やら太陽光、磁気、自然に存在するそうした様々な「宇宙からの影響」が、不足しているのでは…」と提案した。
自然物が生育していく過程では宇宙から様々な影響が、それはあるだろうが、これも解決策のない提案だった。
キリスト者や神秘主義者たちは、「それは「食物への感謝の心」が生じないからだ」と考えた。
謝肉祭だの「いただきます」という言葉は、恵み深い自然からの賜物に感謝する気持ちの表れで、毎日のそれが人間精神を健康にしていたのだ、というのだ。自然という母とのつながり、それが実感できなくなり、精神的な「見捨てられ不安」のようなものが生じるのだ、と…
これも説得力はあったが、それなら特定のメンタリティにこそ問題があり、精神的な別のセラピーで治すしかなくて、それは別の問題という気もした。
大多数の人には生じない問題なのである。
何か月も、<A ・Ⅰ>はひたすらそうしたあらゆる仮説を検証しつつ、厖大なデータを解析し続けた。
そうして…驚くべき真相が明らかになったのだ!
3 虚数解
…「つまり…一言で言うと、欠けていたのは「欠けていること」だった。
ビタミンXは虚数解だったんだ。人間の肉体の神秘的な方程式において、ビタミンXというマイナス要素、老子のいう無用の用?がないと、ある種の障害を生じる場合があって、「完璧な栄養素」という概念自体に潜むパラドクシカルな陥穽が存在するということ…
例えばホメオパシー医学というものがある。
これは人体の防衛機能や免疫を励起するために、少量の毒物を投与する、そういう医学だ。
肉体というものは進化の過程において様々な事態を想定していて… 適当なストレスが招くという、環境との角逐におけるストレッサーによる精神的な健康状態、それが理想的な栄養という温室育ち的な環境では損なわれてしまう。
環境との齟齬、そういうものも貪食していくのが生命体のたくましさなんだな。
ちょうど嵌め込みの家具に少しの遊びを作っておかないとうまく嵌まらない、そういう類似の現象かもしれない。
要するに人体は遺伝的に「栄養の欠損」というものを当然のこととして組み込んでいて、それへの人体のプラスの反応も健康の一要素になっているのだ。
それはむしろ不可欠で、特定の栄養素の過剰や欠損、そういうシーケンスが有機的に絶えず繰り返されることで肉体も精神も試行錯誤して鍛えられていく…栄養的にストレスがゼロという状態は不健康なのだ!」
<A・Ⅰ>の割り出した答えはそういうものだった…
こういう成り行きから、A・ニシカワ女史は健康栄養科学に「ビタミンX」つまり、「精神的健康のための栄養の欠損」という項目を含味して、理論を構築し直した。
欠損する栄養についても人体の神秘的な叡智が働いて、最も精神的肉体的な活力を多量に発動する栄養的欠損を求める…
そういうことも明らかになった。
「今週はおれはビタミンDとビタミンB2が不足している…日光をもっと浴びて、豚肉でも食えということらしい」
「私はたんぱく質全般とトリプトファンっていうアミノ酸ね。処方箋によるとこれは
『もっと体を鍛えて筋肉を付けろ、そのためによく眠れ』っていうサインらしいわ。」
こうして人類はまた一つ問題を解決した…大体がこういう「解決すべき問題」が存在しないと進歩していかない…それは人間存在や、人類の文明の本質的な宿命なのかもしれないのだった。
<終>
掌編小説・『ビタミンX』 夢美瑠瑠 @joeyasushi
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