第14話 モフの憂い


 『プリシラ』とは言えなかった。

 人のことわりをまだ良く知らないモフからすれば、もしかしたら、ユーゴの妻になるかも知れない人のことを悪く言うのははばかられたのだ。


 代わりに、フルフルと体を振るわせた。


「ああっ! インクが! モフ! ちょ、ちょっと待て!」


 モフがインクの付いた体を振るわせたから、そこら中にインクが飛び散って、片付けに追われたユーゴの追及は、せずしてそこで終わった。


 そして翌日、モフは薬師のヴェラとして勤めながら、何だか心なしか機嫌の良い騎士団長ユーゴの姿を見て、ホッと胸を撫で下ろしたのだった。


「良かった……。いつまでも、ルネのことで頭を悩ませて欲しくはなかったから」


 訓練場をそっと覗きながら零したヴェラの呟きは、遠くで騎士達にげきを飛ばすユーゴには届かない。


 しかしながら、モフとの会話を楽しめることを知ったユーゴは、翌日の夜にはとても嬉しそうにして、とある物を差し出した。


 文字が書かれたボードは、幼い子どもが言葉を練習する物で。

 これを購入した店ではやはり、『騎士団長殿には隠し子がいるのではないか?』と暫くは噂になったらしいのだが、それはまた後日知ることとなる。


「モフ、これを使えば簡単に俺と会話することができる」

「モキュッ!」

「ほら、何か話してみろ」


 嬉しそうに三白眼を細めてボードを差し出してくるユーゴに、モフはとても嬉しそうに返事をした。


『ゆーご、すき』


 一番伝えたいのはこの言葉。


「そうか! モフは可愛いなぁ! 俺もモフが好きだぞ!」

『やくだちたい』

「やくだちたい? ……役立ちたい? 十分にお前は役立っている。俺はお前と過ごす時が一番ホッとするんだからな」


 きっと他には誰にも見せないような、蕩けるような笑顔を向けるユーゴに、喜びを隠せないモフは頬擦りする。

 フワフワの毛玉は本当に気持ちが良くて、ユーゴはそっと撫でてやった。


『にんげん、なりたい』

「そうか、モフは人間になりたいのか? 人間になって何をするんだ?」


 次々とモフに話しかける、逞しい体躯の寡黙な騎士団長と呼ばれる男は、もはや『寡黙』とは程遠いほどに多弁たべんであった。


『ゆーご、そばにいる』

「……モフー! お前はモフのままでも十分に癒されるが、確かにもし人間になってくれたら、それはそれで毎日が楽しいだろうなぁ」


 モフは思わぬユーゴの反応に驚いた。


 ユーゴはモフのモフモフしたところが好きなんだと思っていたから、モフモフ毛玉でなくなり、人間になれば好かれないのではと思っていたのだから。


『もふもふなくても、すき?』

「もふもふなくても……? ああ、人間になったら確かにモフモフはなくなるよな。まあ、それでもモフみたいに優しいは俺は好きだぞ!」


 もしかしたら、ユーゴはモフのことを男だと思っているのかも知れない。

 何となく、モフはそんな気がしていた。


 だけど、これ以上聞く事は怖くなったのか、モフはそのような話をするのはやめた。


『ありがと』


 その日もモフはユーゴの枕元で共に眠った。

 こんなことが出来るのも、モフがケサランパサランだから。


 人間になって、それがしかも女だったら……。

 それでもユーゴはそばに置いてくれるのか、モフはとても不安な気持ちで眠りについた。


「モフ? お前なのか?」

「……え?」


 枕元で眠っていたはずのモフは、いつの間にかユーゴのベッド掛布の中へと潜り込んでいた。

 それどころか、今確かに『え?』と声を発したのだ。


「モフ……、お前女だったのか? それに、人間の姿になって……。お前の本当の姿は……」

「ゆ、ユーゴ! 嫌いにならないで!」


 モフは自分がどんな姿形なのか分からないままで、ベッドサイドに驚いた顔をして立つユーゴを見上げた。

 きっと添い寝に違和感を感じたユーゴは、飛び起きたのだろう。


「ユーゴ、人間になっても必ずユーゴのことを助けるから! 嫌いにならないで!」

「……俺には、婚約者のプリシラ殿がいる。モフが人間の女と分かったからには、到底そばに置く事はできない」

「やだ! ユーゴ! モフの姿に戻るから! 二度と人間になんてならないから、だから……!」


 ハッとモフが息を飲んだのと、ビクリと体が揺れたのが同時になった。

 

 目の前には、穏やかな顔で眠る黒く艶やかな短髪のユーゴ。


「モキュウ……」


 どうやらモフは夢を見ていたらしい。


 ケサランパサランは元来夢など見ない生き物だが、アフロディーテの加護によって人間になる時間が増えるごとに、モフは少しずつ人間らしい感情や考えに近づいてきていた。


 それでこのような夢を見たのだろう。

 寝る直前まで、大きな不安を抱えていたからかも知れない。

 

「キューン……」


 人間の感情というのは思いの外複雑で、ケサランパサランのモフは、慣れない心の変化に未だ戸惑うことも多い。


 モフは、初めはユーゴのことを見守るだけで良いと思っていた。

 ケサランパサランとして、この恩人に幸運を運ぶことが出来ればと。


 そこから、どうか日々を心地良く過ごしてもらいたいと思い、段々とユーゴの役に立ちたくなった。


 今では、ユーゴが誰か他の人を選ぶのが苦しいところまで、大きく気持ちが膨らんでしまっているようだ。


「モキュー……」


 切なげに鳴き声を上げるモフの気持ちを、目の前で無防備に眠る騎士団長は知るよしもなかった。


 翌日、騎士団に一人の騎士が配属されることになり、多くの騎士達はその人物に一瞬で目を奪われることになる。


 


 




 


 

 




 
















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