第20話 職務専念
その日から、何日も
だが就寝時間までに彼女が戻ってくることはなかった。
それが幾日も続くと心細さが湧いてきた。
「まさか、失踪したんじゃないだろうな」
悪い予感はしていた。
正面から向かい合おうと誓い合っても、人の心は移ろいやすいもの。
とくに
退去は取りやめたが、顔を合わせるのが嫌になった可能性はじゅうぶんある。
どうもひとりで待っていると悪いほうへと思考が進む。
明日になればまた会える。そう思ってみたものの、帰らざる日はさらに続く。
「あら、高石さん。こんなところでなにを」
久方ぶりの
「この間の『他に気になる人がふたりいる』って話。そのうちのひとりが直接
彼女の顔色を窺った。
「ずいぶんいきなりな話ですね。その方もあなたのことが好きなんですよね。私の
こちらの胸の中を探るような応答だ。
「違うって。当人としては競争相手を知らないと戦えないって言ってて」
「戦う、ですか。それなら降りようかな。私、平和主義なんで」
やはり彼女は以前と比べて、俺に
元カレとは別人格であると心の底から思ってくれているのだろう。
だからこそ、以前のような
「ちなみにどんな方なんですか、その女性って」
「うちの会社の常務秘書室長で、とっても気が強いかな。男女関係もかなりさばさばとしていて、アレもスポーツって言い切ってしまうような人だね」
「ずいぶんと
言われるまでもなく、
女性であってもファンになる男子社員が
それゆえ女子社員羨望の的でもあった。
「向こうは
「いいですよ。なんてお名前なんでしょう」
「岡田真弓って言います。阪神の岡田と真弓です」
「阪神ってなんですか?」
「あ、すみません。野球お嫌いでしたか」
「嫌いというより興味がないもので……」
常務には鉄板のネタだったんだけどなあ。やはり若い女性には通じないか。
「それより、岡田真弓さん……で合っていますか?」
「はい、間違いないです。近いうちに一緒に話したいと先方は申しております」
「ずいぶんと低姿勢なんですね」
「役職では課長より上ですからね、常務秘書室長って」
「そうなんですか。やっぱりお綺麗なんでしょうね」
容姿が気になっているのかな。
「そうですね。容姿端麗、スポーツ万能、才色兼備と──」
「そんなにすごい方なんですか?!」
「と、本人は申しておりますが、実際は
「岡田さんに悪いですよ、その言い方」
紡木さんがイタズラっ子を叱る母親のようにたしなめてきた。
「でしたね。本人に聞かれたら後が怖いです」
その一言で笑い合った。
「ですが、少し待っていただけますか、お会いするのは」
「というと?」
「長期間留守にしないといけない仕事が入っていまして、それを済ませて戻ってきてからお会いするのでは駄目ですか?」
「本人は一刻でも早く合わせろ! とせっついていますが、どのくらい留守にされるんですか?」
「そうですね。詳しくは上司から聞かないとわからないのですが、九月になるくらいまでは拘束されると思います」
「そんなに長くですか……」
少し心細くなってしまった。これから向き合おうという相手が、九月まで対面もできなくなるのか。浮気心が湧いてこなければいいのだが。
「もう戻ってこないわけではないので、安心してください。必ず戻ってきます、あなたのためにも」
こうまで言われてしまったら浮気なんてしていられないな。やはり『三人』以外はこのまま関係を生産していったほうがよそさうだ。
「その言葉を聞いて安心しました。帰るあてもないのに待ち続けるのはなかなかしんどかったので」
「高石さん、すみませんでした。事前にお伝えするつもりではいたのですが、なかなか折り合えなくて。このところ夜遅くにお帰りになっていたみたいでしたし。朝にしても起こすのは悪いかなと」
「かまいませんよ。こちらの都合で夜遅くまでかかっていただけですから」
「お仕事、たいへんなんですか?」
「いや、仕事じゃないんです。……と言っても関係はあるのか」
「今度部長に昇進することが決まったんです」
「あら、おめでとうございます。その年齢で部長はすごいんじゃないですか?」
「真弓さんのほうがすごいですね。秘書室長は部長級の役職なので」
「そんなにすごい方なんですか」
「それで、常務から『女関係を清算してこい』と言われていまして。過去に関係を持った女性と食事して関係を解消していたんです」
「それじゃあ私を待っていたのも、清算するためだったんですか?」
「そういう流れではなかったはずですよ。例の『気になるふたり』を含めて三名まで絞り込もうってことです」
「そのひとりが岡田さんで、もうひとりが私。あとひとりはどなたなんですか?」
その言葉に
ここで理乃の名前を出してよいものかどうか。
相手がこちらを好きでいてくれないと、名前を挙げたけど違いました、って
最低限、向こうもこちらを好きでいると確認できるまでは言うべきではないのだろうか。
「もうひとりはこちらが気になっているだけなので名前は控えます。もし彼女にその気がないのに名前を挙げられたら、嫌な思いをさせてしまいますからね」
「おやさしいんですね」
やさしいというより臆病になっているだけかもしれない。
あとは要らぬメンツがあるのだろうか。
多くの女性と関係を持っていたので、女性にフラれるとせっかくの女たらしが台無しだとでも思っているのかもしれない。
「いえ、変なプライドだと思います」
「では岡田さんとは九月頃にお会いするということで話を進めておいてください。仕事がきちんと軌道に乗るまではあまり騒がしいのも困りますので」
「わかりました。彼女にはそのように伝えておきます。まあ仕事もバリバリできるタイプなので、理解してくれるでしょう」
「それで、結局
「彼女も仕事が大事なところらしいから、あまり心を乱されたくないのかもしれないな」
「その気遣いを私にもしてほしいところね。毎日いったい何人の女性と話していると思っているの?」
「社内一優秀な君にそこまで迷惑と苦労はかけられないから、すべて俺にまわしてかまわないよ、と言ったらどうする?」
「押しに負けて寝られると困るわね。……わかったわよ。毒食わば皿まで。最後まで付き合うわ」
もし冷静に考えられたら、常務に言われて女性関係を断ち切るための説得なのだから、二度目などありえないとわかるはずだ。
しかしどうしても「二度目の最初は自分しかいない」と思い込んでいるので、余計なフィルターがかかってしまうのも無理からぬことかもしれなかった。
「それにしても、てっきり
「先に坂江さんがうちの取締役会に非常勤で入るわけだから、接触するタイミングがシビアだな」
「問題はそこね。いくら私が常務秘書室長だとしても、彼女とアポイントメントをとっていたら余計な注意を惹きかねないし。あなたは提携案を持ってきた張本人だから、まだ自然かもしれないけど、課長が取締役に会うのは現実的ではないかもね。せめて部長になっていれば取締役と話しても自然に映るんだけど」
「部長への昇進は九月だからな。そうなると
なにか深い考え事をしているときによく見る姿である。そして可能性を少しずつ広げていく。
「私がさりげなく坂江さんに場所を指定してあなたが『会いたい』と言っていたと、注意を引いて連れ出したら、そこで話してもらえるとしたら……。私が少なくともなにか知っていると不安がるかもしれないわね」
次の案が出てきた。
「または『あなたと坂江さんの関係を知っているぞ』と脅して連れ出して皆で話したら……。これは坂江さんの心証が悪くなるだけね」
さらなる案だ。
「だとすれば……。坂江さんが常務と話しているときを見計らって、あなたが常務秘書室へ内線をかける。それを私が取り次いで坂江さんと電話を替わる……。これがいちばん坂江さんを傷つけずに話し合いの機会を持てるわね。これでいきましょう」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます