09 彼方よりの使者
クリスのアルケーの町での生活は、最初のゴタゴタとカナリアの身に起こった事件を除けば概ね平和であった。
思う存分他者の為に動けて、有難いことに感謝の言葉を投げかけて貰える毎日。
それだけではなく、時折友人たちと過ごす何でも無いような時間は、しかしクリスにとっては何物にも代えがたい宝物の様であった。
生ゴミを漁っていた頃とは比べ物にならない程に充実した日々。
今は遠き、遠き、嘗ての故郷。突然、もう二度と会えなくなった大切な人たち。
誰であろうと、誰かの代わりにはならない為、その寂しさが癒える事は無い。
だけどそれは、新しく出会った縁も、変えられない大切な者という事で、今のクリスは幸せだった。
しかし、光陰矢の如し。
時間は止まることなく流れていき、人を取り巻く状況もそれに応じて変わっていく。
クリスの穏やかで幸せな日々にも、突如として大きな流れと変化が訪れる事になった。
その始まりは、ジャン神父の言葉からであった。
「審査官様、ですか」
「ええ。
「とても、光栄です。これも、ジャン神父のご推薦あっての事。誠にありがとうございます。」
聖神教において、上の地位を取得するための幾つかのルートの内の1つが、一定以上の地位を持つ者からの推薦だ。
小さいとは言え、1つの教会を任されて。人柄も信用に足ると認められたジャン神父は、その一定の地位に入っている。
そしてそんな彼は、約1ヵ月前に町を襲った事件の後、クリスにより上位の地位を与えるべく上へと強く進言を行っていた。
今回の事は、その行動が実った形、と言えるだろう。
ただし、ジャン神父の裁量だけで、殆どノーチェックに近く与えられるのは6本線の地位までなので、其処から更に上に相応しいか見定めるための人員が送られてくる、とこれはそういう話だ。
「私はただ、評価されるべき者が評価される様、神に誓って真実だけを伝えただけです。その結果、他者より良い評価が下されたのなら、それはクリスさんの頑張りに他ならないでしょう」
「いいえ。例えそうだったとしても、誠実な神父様の言葉だったからこそ、ここまで早く評価を頂けたのだと、私は思います」
話し合う2人はどちらも笑顔で、大した緊張も見られない。
”審査”等と言えば重苦しく感じるが、かなり上位の位階の者に対する物ならばともかく、片田舎の7本線の少女に対する物など、そこまで仰々しい物にはならない。
カナリアが5本線に認定される時も、似た様な流れがあり、何も問題なく終わったのだ。
完全に気を抜いてダラけて良い訳では無いが、この世の終わりの如く緊張する物でも無い。
「日時や、いらっしゃる人数などは、追って連絡があるそうです。詳細が決まりましたら、失礼にならない様に準備を整えましょう」
「わかりました」
ほんの少しだけ特別な思いを抱いて、この話はここで終わり――――にはならなかった。
「クリスっっ!!ジャン神父っっっ!!!!」
「カナリアさん!?」
「カナリア!?」
和やかに話が終わりそうな時分に、クリスとジャン神父が話していた部屋へカナリアが血相を変えて飛び込んで来た。
いや、飛び込んできたのはカナリアだけでは無かった。
「それに皆さん。これは一体何事ですか!?」
他の神官や女神官など、教会に勤めているものが、誰も彼も不安そうな顔で、カナリアの後ろに居たのだ。
明らかに尋常ならざる事態が発生した証拠であり、ジャン神父は先頭のカナリアへ一体何があったのかを問いかけた。
「そ、そのっ!他の教会の方がいらっしゃって……!!」
「教会の?伝達ミスでクリスさんの審査官の方が、もういらっしゃってしまったのでしょうか……?」
「そ、そんなレベルの話じゃ無いんです!!とにかく外に出てくれれば、分かります!ほら、クリスも!!」
「…………」
「…………」
明らかに可笑しい皆の様子に、クリスとジャンは互いに顔を見合わせながらも、言われた通り教会の外へと出て行った。
*****
「――馬鹿、な。一体、これ、は…………!?」
「――――」
カナリアの言葉通り、外へと出ればその
ジャン神父は激しく動揺し、クリスも言葉には出なかったがかなりの衝撃を受けていた。
町の外に、教会の印が付いた馬車が止まっている。
言葉にすれば、それだけ。それだけでも多少は可笑しいが、ジャン神父が言った通り、日時の伝達に不備があったと考えれば納得できる範囲だろう。
しかしながら、何よりも可笑しく異常なるは
町の外に、教会の印がついいた馬車が、
一体、何百?或いは何千?
終わりの見えない馬車の隊列は、正確な数を数える作業をジャン神父の脳より放棄させた。
更に、乗り物があるという事は、当然それに乗って来た者も存在する。
聖神教の神官服に身を包んだ数多の神官たち。そしてそれを護衛している聖銀の鎧に身を包み、一糸乱れぬ隊列を組んだ教会騎士たち。
「何故、こんなっ!?」
「わ、分からないんです。誰に聞いても
「そんな、事が……」
カナリアの言葉に、ジャン神父が絶句した。
しかしながら、こんな数の馬車が遠方から列をなしてやって来たのなら、もっと早くから騒動になっている筈で。
ならば、本当に突然現れたのか?とジャン神父は混乱するばかりであった。
事の真偽がどうであれ、明らかに尋常では無い。
まるで”戦争”でもしに来たようだった。
「――っっ!」
そんな風に思っている内に、町を覆う喧騒が更に増した。
こんな騒動になっているのだから、ジャンやクリス、カナリアなどといったこの町の教会の面々以外も当然気がついていて、外に出て動揺している。
その困惑の波を押しのけながらも、幾人もの神官と騎士で構成された一団が、ジャン神父たちの前までやって来たのだ。
ジャン神父は、震えそうになる体を押し留めながら、クリスや他の子たちを背で隠すように動いてから、気丈に声を張り上げた。
「これは一体どういう事か!?どうか納得の行く説明を頂きたい!!」
悲鳴じみたその叫びに1人の伝令の騎士が答えた。
「ジャン・スィニス神父殿とお見受けする!この度、其の方の進言に従い神官クリスの審査に参った。当方に、危害を加える意思は無い。ご安心召されよ!!」
「――――――は?」
帰ってきた答えは、ジャン神父が最初に予想した。しかし、今ではあり得ないと切り捨てた答えだった。
「審査……?審査と言いましたか?これが、審査の為だと!!なんて無茶苦茶な、有り得ない!!」
激したジャンの言葉の正しさといったらない。
なんなら、目的を告げた伝令の騎士すら、その言葉に口にこそしない物の、同意しているかのように瞳を泳がせていた。
それほどに滅茶苦茶な事態なのだ。
しかし混迷した状況に、更なる爆弾が投下される。
「スィニス神父。その困惑・憤り、全てが正しい。連絡が事後になった事も含め、全ての否は此方側にある。しかしどうかこの老骨の顔に免じて、抑えて欲しい」
「なっ!?な、な、なぁ――」
その声は、静かに、しかしどこまでも深く響き渡る老人の物であった。
声と同時に1人の老神官が、一団の中より現れた。
かなりの高齢に見える、がっちりとした体格の老神官。
刻まれた幾本もの皺が過ごしてきた年月の重さを感じさせ、しかし僅かたりとも曲がっていない背が未だ溌剌とした生命力を感じさせる、そんな老人。
そんな彼の姿を確認した途端、唯でさえ青かったジャンの顔が、更に真っ青となった。
ぱくぱく、と声にならない音を繰り返すその様は、まるで陸に打ち上げられた魚のそれで、ジャンの混乱する感情を痛いほどに周囲へと伝えていた。
「ジョージ・エクシノ
「……………………」
絞りだされたジャンの声に、アルケーの町の住人の視線が、全て老人の衣服へと向けられた。
聖神教の法衣。その右肩に刻まれた位階線。
その数は――
この世界、この星の、あらゆる国、小さな部族にすら行き届く神パンタレイ信仰。
その元締めたる聖神教。その頂点、1人1人が大国の元首に匹敵、いいや凌駕する権力を持つと言われる3人の枢機卿。
この老人が、その内の1人であると言うのか。
そんな人間が、片田舎に住む小娘1人を直々に見に来たと言うのか。
あり得ない。あり得てはならないだろうそんな事。
町の周囲を埋め尽くす馬車の壁、そこに乗っているであろう幾人もの人間。それら全てを合わせてなお、目の前の老人1人の存在の方があり得ない。
ああしかし、神官の身分の詐称――正確に言えば、下が上を騙るのは――重罪だ。
それが枢機卿の物ともなれば、死罪になっても何ら可笑しくない。
それにそもそも、ジャン神父を含めて枢機卿の顔を直接見たことがある者たちの反応は、どう見たって本物に対するそれで。
「こ、これは貴方の命令なのですか、猊下」
明らかに意味の分からぬ異常な現状。
しかしながら枢機卿ともなれば、それを引き起こすことは可能だろう。
あり得ない事とあり得ない事。それが2つ重なって逆に少し理解が及ぶと言う珍事。
そんな風にジャン神父の心の中に生じた微かな納得は、しかしすぐさまぶち壊された。
「申し訳ないが、その問いに対する回答は、否、だ。今回の1件における儂の立ち位置、与えられた裁量は伝令の鳥、唯の使いに過ぎない。言ってしまえば、この場において、儂と他の神官や騎士の間に、然したる違いはない」
「――――は?」
なんだこれは、何が起こっていると、ジャンの思考が再び宇宙の彼方へと飛ばされる。
しかし、時間は止まらず、事態は進み続ける。
「
「ば。ま、まさかそれは」
枢機卿を唯の使いとして用い、この様な態度を取らせる相手。
そんな人間は、ジャンの知るところ1人しかおらず――
「……
「――っっ」
ジャンは口に出しかけていた予想を止めた。
枢機卿の言葉は優しくはあったが、否定することは許されない深みに満ちていた。
「く、クリスさん」
そして絞りだされた声は、ジャン神父の善良さを表すものだろう。
枢機卿。そして仄めかされたその裏に居るらしい人物。
それらはジャンからしてみれば、天からの言葉も同然で。
しかし声と苦渋の表情に籠められているのは、クリスに対する心配だ。
易々と否定できるものでも、自分程度が否定して何か変わる物でも無い。
されど現状は明らかに異常で、クリスをそのまま連れて行かせて良いのだろうか?そんな苦悩が痛いほどに伝わって来るよう。
だからクリスは微笑んだ。
ジャン神父だけではなく、アレン達やカナリア、他にも心配してくれている人たちに対して、心配ないよ。と示す様に。
そして、ジャン神父の背より離れ、枢機卿の前へと歩みを進める。
他の町の人から注意を逸らす為に、何時もは抑えている雰囲気を少しだけ開放しながら。
「お話し中に申し訳ございません。只今、話に上ったクリス・ルヴィニと申します。この度は私の審査の為などに皆さんにご足労頂いたとの事。実に光栄で感謝の念に堪えません」
「――ッ」
真昼に星が輝いた。
話題に上がっていたとは言え、枢機卿の会話に割り込むと言う無礼。
そして、脈絡もなく近づいてくると言う危険。
止めるべきだろう。
無礼討ちはやり過ぎだとしても、一言位は言って然るべきだ。
けれど誰も、何も行いはしない。そもそもそんな考えすら浮かばない。
「――――」
「――――」
「――――」
枢機卿の周りに侍る幾人もの教会騎士。
詳しい所は分からないが、精鋭だろう。
仮にも枢機卿に付く事を許された者たちなのだ。性根も、実力も、凡庸では勤まる訳も無し。
しかしそんな彼らの、誰も彼も。兜の下に隠れた顔を紅く染め、ぼぉっ、と惚けて案山子の如く突っ立っているばかり。
誰もが10もそこらの少女に惚けて、心を溶かされていた。中には女性の騎士すら居たと言うのに!
「ああ……!クリス様」
「なんて神々しい……」
そして無論。その影響はやって来た者たちにだけに留まらない。
意味不明で異常な事態に、困惑し怯えていたアルケーの町の人々。
しかし今の彼らの心の中にそんな感情は欠片も無い。
町が教会の馬車に包囲されている?
枢機卿がやって来た?
そんな
今の己たちが行うべきは、目の前の少女の形をした神々しい”美”そのものの姿を目に収め、魂に焼き付ける事。それを置いて他に無い。
心が蕩ける。なんて幸福。満たされた時間。この世の全てが此処にある。
やはりこちらも、皆が皆惚けている。
中にはこの様な状況下にも関わらず、滂沱の涙を垂れ流し、地に膝をつき両手を握りしめ、祈りを捧げている者すらいる始末。
完全に正気が残っているのはアレンやカナリアと言った元からクリスと親しい面々。
しかし彼らは効果が無いと言うよりは、既にもっと深い所まで心を奪われているから、今更この程度では効きはしないと言うだけ。
そういった意味で、逃れ得た者は誰1人として存在しなかった。
これは一般的に言えば、魅了されたとでも表す状態だろう。
しかしクリスにその気は無いし、そもそも彼女の”魅了”がこんな
ともかく、異常は更なる異常で塗りつぶされた。
最早この場の主役はクリス。彼女の独壇場。誰も彼女から目を逸らせない。
「なるほど。貴方が……」
「お目にかかれてとても光栄です。エクシノ枢機卿猊下、とお呼びしても?」
話しかけられた枢機卿の態度は比較的ハッキリとしている。
少なくとも最早ただの置物と化している彼の周囲の人間たちとは雲泥の差だ。
流石は枢機卿と言うべきか、或いは
しかし流石に余裕までは持ててはいない様子。
よってこれで彼らのクリスに対する
友好か、敵対か。それが分かる…………その筈だったのだが。
「
なんぞ、これ。
クリスが思わず心中で、そう雑にツッコんだのも無理は無いだろう。
しかしながら、どうやら目の前の老人は決して冗談を言っている訳では無いようだ。
ならば、仕方が無い。
「……いえ。そう言うことでしたら、分かりました。ただ付いて行けば宜しいのですね?」
「寛大なる態度、誠に痛み入ります。町の少し外に天幕を張っております。彼の方はそこに。宜しければ、お体を運ばせていただく籠を用意しますが」
「い、いえ。そんな距離で無いのなら、歩かせていただいた方が、嬉しいです」
「分かりました」
これが、枢機卿の態度か?
積み重なる疑問。しかし、考えるよりもそれを命じた者にあった方が早いだろう。
クリスはもう一度、アレン達に心配ないと笑いかけた。
誰かは分からないが、逃げも隠れもする気はない。
そんな風に思いながら、クリスは枢機卿の後を付いて行った。
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