第2話

「お前もったいねぇよ」

 入学式から三か月。

 高校生になってから履くようになったローファーに足を差し込もうとしていた東郷を呼び止めたのは幼馴染の鶴見だった。

「ベースが弾けるんだろ? だったら同好会に入れよ」

「別に僕はたいした事ないよ」

 幼馴染である鶴見は東郷より一つだけ年上。

 同じ地域で生まれ、今まで同じ環境で育ってきた。高校生になった今になって敬語で話すというのはなんだか気まずい。それに鶴見からも敬語は使うなと言われている。

「うちは初心者大歓迎なんだ。全然弾けないやつばっかりだから」

「それも最初だけだよ。すぐに追い越される」

 鶴見がここまで熱心に東郷を軽音楽同好会に勧誘するのは、彼が軽音部のリーダー的ポジションにいるからだ。同好会には三年生の部長や副部長がいるが、それとは別に二年生である鶴見もそれなりの地位に任命されている。ライブをするために外部の施設と交渉したり部員同士の揉め事の仲裁をしたりと仕事は多岐に渡る。同好会運営に欠かすことができない存在としてマネージャーのような仕事を任されているのだ。

「僕は早く帰って婆ちゃんに線香を上げたいから」

「あ、ああ。分かった」

 先日祖母が亡くなったことを知っている鶴見はあっさりと東郷を開放した。

 通夜に参加していたこともあって東郷の心情を察するには容易だった。

「今年はベース希望者が少ないから、東郷はいつでも大歓迎だからな」

「遠慮するよ。だって僕は自分のベースが嫌いだから」

「じゃあなんでベースを弾いているんだよ」

「……分からない」

 東郷はそう呟くと、何かを言っている鶴見を無視して昇降口を出て行った。


 校門を出た東郷は自転車にまたがると力任せにペダルを踏み込んだ。

 路地から大通りに出て日豊本線の線路を横断し、国道に合流するとただひたすらと南下していく。代り映えしない直線道路を下っていくと境界線に達し、門川町から日向市へと突入。やがて見えてきたショッピングセンターを左に曲がって進んでいくと工業地帯に入った。道路を走行する車種も変わり、大型トラックやトレーラーが轟音を立てて疾走していく。突っ込まれたらどうしようもないが、街路樹や段差によって車道と歩道が分離されているのがせめてもの救いだ。もう少し歩道を広く設計して欲しかったと日向市には物申したいけども。

 学校を出て三十分ほどだっただろうか。

 大通りを離れて路地へと入っていく。

 マストに掲げた小さなレーダーをくるくると回している細島海上保安署の小型巡視船を傍目に自転車を漕いでいくとさらに道は小さくなり、歩道と車道を隔てていたものが白いラインだけとなった。幼いころから慣れ親しんだ潮風に鼻をくすぐられながら、細島港の岸壁に沿って進んでいく。

 あと十分も走れば自宅に到着するだろう。

 一刻も早く帰って、婆ちゃんに線香をあげるんだ。

 彼は自転車のギアを一段上げる。一瞬だけペダルが重くなったがすぐに元の負荷に戻った。たまに後ろからやってくる自動車に注意を払いつつ、漁業の町を突っ走る。

 道路に面した地元の漁業組合の建物から誰かが出てきた。

 その人物を回避するために後ろを振り向いて車が来ていないことを確認。安全を確かめると車道に膨らんで避けようとしたが、その人物の顔を見てブレーキを掛けた。

 漁業組合の前でペコペコとお辞儀しているのは地元中学校の教師だった。

 東郷はブレーキを調整しながら惰性で走行し、数人の大人たちの前で地面に足をつけた。つんのめるように着地した彼の姿はさながら空母に着艦した戦闘機のようだった。

「東郷じゃないか」

 母校の教師は突然現れた東郷に驚いた。

 それと同時に隣の男性が声をあげる。

「おう、東郷の坊ちゃんか」

 それは漁業組合で組合長を務めている矢部だった。

「矢部さん、なにかあったんですか?」

「職場体験で中学生を受け入れたら、わざわざ先生がお礼に来てくれたっちゃが」

「東郷の坊ちゃんって先生と顔見知りなんか?」

 矢部の隣にいた組合員が聞いてきた。

「はい。部活の顧問でした」

 東郷は苅田のクラスになったことはない。

 しかしクラス担任以上に彼とは長い付き合いだった。

 中学校では吹奏楽部に所属していたが、その顧問が苅田だったのだ。入部から引退までの三年間、ずっと苅田に指揮を振ってもらっていた。

「ほぉ~。先生、あのオーケストラの指揮者やったんか」

「いえいえ、吹奏楽部です」

 遠慮しがちに苅田は間違いを訂正した。

 祖母も同じことを言っていたが、どうも高齢者は吹奏楽もオーケストラも同じように見えてしまうらしい。大人数で演奏するというのは共通しているが、経験者としてはどうしても指摘せずにはいられない。

「坊ちゃんの爺さんにはよく鍛えられたもんじゃが」

「そういえば矢部さん、東郷の爺さんとこの船に乗ってたがね?」

「そうそう。第六春天丸のことじゃろ?」

 突然話題にのぼったその名前。

 第六春天丸とは東郷の祖父が船長を務めていた大きな漁船だ。

「あの時はよく生きて帰れたもんじゃが~」

「転覆したって聞いたときは大騒ぎになったがね~」

「転覆!?」

 あの頃は大変だったと回顧している二人の会話に苅田は驚いた。それでもたいした事はなかったと海の男たちは笑い飛ばしている。

 その話はしっかりと東郷の記憶に刻まれていた。

 確か東郷が小学校に上がる前の話だ。幼稚園から帰ってきたところに家の電話が鳴り響き、わけが分からないまま着替えさせられて漁業組合に連れていかれたのだ。祖父に連れられて何度か遊びに行ったことがある施設だったが、通された会議室には知っている近所の人だけでなく顔も知らない消防官や警察官が詰め込まれていた。その緊迫した空気に耐えられず幼かった東郷は泣きだしてしまった。

 東郷の祖父が船長を務めていた大型漁船が転覆したことで対策本部が設置され、関係者が集まっていたのだ。

 大きくなって教えられた話だがその転覆事故では誰も犠牲者が出なかったらしい。

 脱出した乗組員たちは救助に駆け付けた巡視船や漁船に収容された。唯一、東郷の祖父だけが転覆した船内に閉じ込められたが、すぐに海上保安庁のヘリコプターがやってきてボンベを背負った潜水士によって救出されたそうだ。あの緊迫した漁協が突然歓声に包まれたと思ったらすぐに地域の総合病院に連れていかれ、点滴を打たれながらベッドで横になっている祖父と面会したのをおぼろげに覚えている。

「海で生きる人間は一蓮托生。生きるときも死ぬときも一緒ってもんよ」

 その単語を聞いて先日の祖母の葬式を思い出した。

 その記憶が表情に出てしまったのだろうか。隣の組合員が矢部を肘でどついた。

「おぉ東郷の坊ちゃん、悪気はねぇんだわ」

 いかつい漁協の親分が、すまんすまん、と両手を合わせる。

「婆さんのことは残念だったなぁ」

「いえ、先日は葬式に来てくださりありがとうございます」

 祖母の死亡が宣告されたあと、真っ先に駆け付けてくれたのが漁協の組合長である矢部だった。納棺される前の祖母に線香をあげてくれて、その後の通夜にも葬式にも参列してくれた。

「葬式って?」

「なんだ先生、聞いてねぇのか。このまえ東郷の婆さんが亡くなったんだよ」

 話についてくることができなかった苅田に矢部が説明する。

 吹奏楽部の演奏会の移動などで祖母は苅田と何度も顔を合わせていた。「うちの家の者は漁に出ていて、私も運転免許を持っていないから、なんとかうちの孫をよろしく」と何度もお願いに行っていた。

「去年はあんなに元気だったのに……」

 苅田は思いもしていなかった訃報に絶句する。

 去年の秋に実施された定期演奏会。それを最後に東郷たちの世代は部活を引退したが、そのステージが終わった後に祖母が苅田の元に駆け寄って何度も繰り返しお礼を言っていた。

 ついこの前までは元気だったのに……というのは東郷も同感だ。亡くなる数日前まで漁港のいかつい漁師にまざって水揚げされた魚の仕分けをしていたぐらいだった。

「東郷の婆さんは孫を可愛がっていたからのぉ」

「孫が中学のオーケストラでヴァイオリンを弾いとるっち何べんも自慢しよったが」

「……コントラバスです」

 東郷は控えめに間違いを指摘した。

 コントラバスをヴァイオリンと間違えるのは高齢者に限ったことではない。音楽に明るくない若者でもそのように間違えることがある。彼らには大きさが違うヴァイオリンという感覚なのだろう。

「坊ちゃんは高校でもヴァイオリンをやってるんか?」

「……いえ、部活には入っていません」

 もはや楽器の間違いを指摘するつもりはなかった。

「そりゃあもったいねぇが~」

「婆さんがあんげ喜んじょったっちゃかい、高校でもすればいっちゃが~」

「孫の最後のステージじゃからって、うちの漁師にチケットを配りよったがねぇ~」

「俺たちも一張羅のスーツを着て聴きに行ったっちゃが」

 定期演奏会では客席の最前列でスタンディングオベーションを送ってくる矢部に驚いたものだ。それ以上に矢部はこれほどスーツが似合わないのかと驚いた。

 東郷と苅田は去年の観客にペコペコと頭を下げる。

「そういえば東郷って鳴子川高校だったよな?」

「そうですけど」

 ふと苅田が質問してきた。

 東郷が着ている制服の袖には鳴子川高校の校章が刺繍されている。しかし夏服の白い開襟シャツはどこの学校でも似たようなデザインだろう。

「今年の定期演奏会のゲストで鳴子川高校の吹奏楽部を呼ぶんだよ」

 苅田は世間話としてその情報を教えてくれたのだろうが、東郷にとってはどうでも良かった。中学校を卒業してから一度も吹奏楽部には顔を出していないし、高校の吹奏楽部に関しては部員ですらない。

「しかも今回は超大物の指揮者が来るんだよ」

「超大物?」

 東郷の頭の中に人のよさそうな白髪頭のおじいちゃんが一瞬だけ出てきた。

 しかし人違いに違いない。

 こんな小さな漁師町の中学校の、しかも弱小吹奏楽部の定期演奏会にそんな世界的マエストロが来るわけがない。

「『宮崎県の吹奏楽界の女神様』って異名を持つ指揮者でね」

「女神様、ですか」

「たしか東郷が二年のときの課題曲クリニックで講師をされていた指揮者なんだけど」

「………………?」

 課題曲クリニックというのは吹奏楽コンクールの前に実施される講習会だ。県北の中学高校の吹奏楽部を集め、代表校が講師に演奏指導を受けながら他の学校がそれを見学するという形式で行われる。

 たしかに東郷が二年のときはその代表校として演奏指導を受けた。しかし記憶が正しければその時の講師は男性だったはずだ。

「そんな大御所に指揮を振ってもらえるなんて滅多にないことだから、卒業生に片っ端から連絡しているんだよ」

「聴きに来いってことですか?」

「いや、演奏する側で呼び戻しているんだ」

 呼び戻すもなにも、呼び出されたところでまともな演奏ができるのだろうか。「昔やっていたからできるでしょ?」と突然楽器を渡されてもすぐには演奏できないのが楽器というものなのだ。もちろん音ぐらいならば出るだろう。しかし正しいピッチで芯のある音を安定して出すためには毎日のように練習しなければならないし、そのような音でなければ合奏には使い物にならない。

 細島中学校を卒業した人間の多くが同じ日向市内の高校に進学する。はたして何人が高校でも吹奏楽を続けているだろうか。隣の門川町の鳴子川高校に進学した東郷は、中学時代の仲間たちの情報を何も知らない。知っているのは東郷と同じく鳴子川高校に進学した元吹奏楽部の先輩は全員が高校でも吹奏楽を続けているということだけ。それでも二、三人の話だけども。

「東郷も演奏しに来なよ。里帰りしてさ」

「いや、演奏もなにも去年の秋からコントラバス弾いていませんし」

 自宅ではエレキベースを弾いているけどもコントラバスとは別物だ。

 もともとエレキベースはコントラバスを小型化して大音量での演奏ができるように開発されたものだ。たしかに運指、いわゆる弦を押さえる場所も一緒だ。しかし音の出し方が異なっている。

 仮に今年の定期演奏会に卒業生として出演するにしても、最後にコントラバスを弾いたときから半年近い間が空いている。今から練習を再開するにしてもそれだけのブランクが空いているし、そもそも現役時代のように毎日練習できるわけではない。

「中途半端な演奏をしても、それこそ例の大御所の先生に対して失礼になるんじゃ……」

「いや、あの先生からはむしろ「参加したい卒業生は大歓迎」と言われているから」

 歓迎と言われても「楽器を続けている」という前提があるような気もする。しかし吹奏楽経験は中学の部活だけで高校では別の部活に入るという生徒も多いことを吹奏楽の大御所ならば知っていそうなものだ。

「合同練習は夏のコンクールが終わってからだから、ゆっくり考えておいてくれよ」

「……分かりました」

 考えておくなら問題ない。

 時間をおいて辞退の連絡をいれればいいだけだ。

 それではまた連絡します。と告げると東郷は自転車にまたがり、足の甲でペダルの位置を調整する。

「東郷の坊ちゃん! 今年も演奏会を見に行くからよ!」

 漁協の親方の声を背に受けながら、東郷は自宅に向けてペダルを踏み込んだ。

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