赤いきつねのぼく
高杯秋魚
『赤いきつねのぼく』
――今年も寒くなりましたねぇ。
大晦日のさむいさむい早朝。昨年と同じように感慨深げに呟く彼女は、魔法瓶(というらしい水筒のようなもの)からお湯を注いだばかりの『赤いきつね』を、折り紙をきつねの形にしたおもしつきでぼくの前に置く。
その独り言のような呟きに返事する声はなく、どこかの木々の枝から朝を知らせる小鳥の鳴き声が相槌のように返ってくるだけだった。
彼女は、もうすぐ還暦を迎えるシワくちゃのおばあちゃんだ。でもその背筋は驚くほどまっすぐで、そこから受ける印象は健康そのもの。出会った日から何年経っても相変わらずの美人だ、なんて、――ぼくがひそかに思ってしまうくらいに。
彼女とはもうずいぶんと長い関係になる。けれどその実ぼくらの関係は決して深いものではなく、むしろ簡単で浅いものだと言えるかもしれない。
昔の、43年前の大晦日のことだ。ぼくはまだ子どもの頃の彼女を助けたことがある。民家からも田畑からも少し離れたこの寂しい脇道で、彼女はひとり悲しげに泣いていた。迷子になっていた。日が落ちてあたりもすっかり暗くなった夕方だった。
ぼくは――
「おかあさん、おかあさん」
と、悲し気に泣くその姿が可哀想で見ていられなかった。だから、この時は初めて会ったばかりの、その幼い少女のことを助けてあげることにしたのだ。
姿を見せたぼくはそのまま何も言わず、冷たい彼女の手をぐっと握って、近くの街道まで連れて案内する。道中、ぼくが一体どこの誰なのかと、どこへ連れて行くつもりなのかと、彼女はしつこく尋ねてきた。ぼくは……、自分の中の『決まりごと』を守るため、黙ったまま何ひとつ答えることはなかった。
最初こそ不審がっていた彼女だったが、やがてぼくに自分を害する気がないことがわかったのか、しばらくぼくの顔をじっと見つめてきた後、少しうつむきがちについてくるようになった。
もうあたりは暗くなっていて、その時の彼女の顔色はわからなかったが……。
別れ際、ぼくはやけに真剣な顔の彼女から「どうしてもお礼がしたい、また会うことはできますか」と尋ねられた。その時の彼女はあまりに頑固で、ぼくが何か答えるまでずっとそこに居座りかねない雰囲気だったので仕方なく――
「あの脇道にあったお稲荷様の祠に、時折でいいから供え物をしてほしい」
その時はそれだけ伝えて、さっさと別れてしまったのだが……。
あの日から彼女は毎年欠かさず大晦日の早朝にここへ来ては、祠のまわりを丹念に掃除して、こうしてお供え物をしていくようになった。もう今年で数えて43回目にもなる彼女の習慣のひとつになってしまっている。
新年が明けてから訪れるとお供え物は必ず消えているので、ぼくが取りに来ていることがわかっているからなのか……、彼女は今もその習慣を続けている。2度と逢えるはずもないあの時の少年の言葉を信じているのかどうかは、定かではない。ぼくも適当なところで無視すればよかったはずなのに、結局こうしてずるずると自分でもよくわからない『何か』を決定づけることを先延ばしにしている。
彼女のことを思えば罪悪感にも似た気持ちで胸がずきずきと痛むはずなのに、同時になぜだか温かさを感じてしまっている『わるいぼく』がいる。
――そんな回顧をしてる間に、彼女はこちらにぺこりと一礼して去っていく。
ぼくはその背をちらりと盗み見るように片目のまぶたを持ち上げて、彼女が完全に立ち去ったことを、周囲に人の気配がないことを、頭の上の“耳”をそばだてて確かめてからゆっくりと動きだした。
大きく伸びをし――、手足を投げ出して、人の姿に“化ける”――。
そう、ぼくは人ではない。普段は祠の中でぼんやり佇んでいるだけの石像にすぎないが、騒ぎにならないように人の目があるうちは動かないと自分の中で『決まりごと』を作っているだけの、ただのしがない“きつね”だ。
そんなぼくがこうして43年もの間、彼女を縛り続けていることに負い目を感じ始めたのはいつからだろう。けれどたった一言、「もう十分だ」と彼女に言ってあげることも、ぼくにはできなかった。そのためにはもう1度、あの頃とまったく変わらないぼくの姿を見せないといけないからだ。
彼女は自分を助けたのが人ならざる化け物だと知って、酷く傷つくかもしれない。思い出は思い出として綺麗なまま残してあげることが一番よいのかもしれない。そう信じつつ悩むぼくは、こうして今日も矛盾した行動をする。
嬉しさと罪悪感の板挟みを受けながら、ぼくはお供え物に手をつける。そういえば最初の頃はおにぎりとか、煮つけとか、そんなものだったはずだが、ここ十数年のお供え物はこの『赤いきつね』だ。別に嫌いではないからよいのだけれど。
もういい頃合いだろうと折り紙のおもしを外して、割り箸を手に取る(こればかりはきつねの手足ではやりづらいので、人の姿に化けないといけない)。ふと、この折り紙の存在もまたお供え物が『赤いきつね』になってからであることに気づいた。
そういえばこれを今のいままで、よく調べたことはなかった……。
ぼくは、ちょっとずつちょっとずつ、指の腹を使って折り紙を開いていく。するとそこには、とても短い文章が書かれている。
『また来年も逢いましょうね。きつねさん』
彼女からの手紙を読み終えると、ぼくの口からは自然と笑みがこぼれていた。
「なんだ。バレてたんだ……」
今年の笑い納めは、彼女のおかげで昨年よりも晴れやかなものだった。
箸を置いて、12月の澄み渡る青空を見上げる。ここよりずっと高いところをぼくの尻尾のような形をしたふわふわのわた雲がいくつか浮かんでいる。
今朝の風はやけに冷たく、不思議と熱をもった頭には、ちょうどよかった。
「来年こそは、勇気を出して顔を見せてみようかな……」
なんて。ぼくは、隠しきれないほどに尻尾をぱたぱたと揺らしながら、43年越しに決意を固める。ほっぺたを赤くして、ようやっと――。
ようやっと――ぼくは彼女の気持ちと、自分の気持ちに気づけたのだった。
おそらく、ずいぶんと待たせてしまっただろうけれど……。
来年こそは、彼女と『赤いきつね』を食べられるような気がする。
そんな“赤いきつねのぼく”なのだった。
赤いきつねのぼく 高杯秋魚 @tofu-1998
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