第3話
「咲良さんは歌手になろうとしているんですか?」
休みの度にここに来て、二人で一緒に歌の練習をするようになって。区切りが良いからとペットボトルのお茶を飲んでいた彼女に、興味本位で尋ねてみた。
「なろうとしているというか、何というか……」
「迷ってる感じですか?」
「そういう訳でもないのですけど……頑張っても手応えがなくて、本当にこのままでいいんだろうかと、もう諦めた方が良いのか、別の方法で頑張るべきなのか……私はこれからどうすればいいのかと途方に暮れているという感じで」
「なるほど。行き詰ったと言うのならば、そもそも自分は何が目的で頑張っているのか、初心を振り返るのもありだと思いますよ」
「……初心ですか」
「はい。人間、頑張るのは大抵理由があるからです。どんな理由で頑張ろうと思ったのか、その理由で頑張り続けるにはどういう方法が良いのか……迷った時はスタートラインに立ち返って見直すのがいいと。受け売りですけど」
「どなたのです?」
「父です」
母との結婚を反対されて自身の親と縁を切り、以降は苦労もあったし迷って立ち止まってしまう事も多かったらしい。だから、その度にどうして自分は頑張ろうと思ったのか原点に立ち返って、もう一度気合いを入れて奮起して……を繰り返して、今の会社を作り上げたのだそうだ。
「……鍵司さんは、デビューとかを考えてらっしゃいますか?」
「俺ですか? 歌うのは楽しいし好きですけど、仕事にする気はないです」
きっぱりと言い切ると、咲良さんは大きな瞳をぱちぱちと瞬かせた。小動物を愛でたくなる気持ちというのは、今の俺が感じたような気持ちなのだろうか。
「何か、別にしたい事があるんですか?」
「そうですね。父親みたいに、身体的な障害を持っている方の福祉や介護に関わりたいと思っています」
「福祉や、介護」
「はい。現場を知っている事は大事でしょうから、初めはヘルパーや介護福祉士を目指そうとは思っていますが、ゆくゆくは……何かしらの障害をお持ちの方が、日常生活で困った時に気兼ね無く頼れる人材派遣サービスを作りたいと思っています」
それは、小学生の時から既にぼんやり思っていた事で、中学、高校と上がっていくうちに定まっていった自分の目標だ。まだまだ暫定的な部分が多いけれども、諦める気は微塵もない。
「……どうして、そちらの方面に進もうと?」
「きっかけは母ですね」
「お母さまの?」
「はい。俺の母は目が見えないので」
この話を改めて他者にするのは久々な気がする。特に隠している事ではないが、新しく人と会った時くらいにしか話す内容ではないからだ。友人や先輩、後輩はほとんどその事実を知っているし。
「元々は見えていたらしいんです。けれど、高校生の時に何とかってややこしい病気になって、年を追うごとに見えなくなっていったと」
「それなら、鍵司さんがお生まれになった時には、もう……」
「明暗は分かるらしいですが……でも、そうですね、母の目に俺の姿が映った事はありませんし、俺や弟妹に対して何かを見せるという作業をするのは、決まって父の仕事でした」
「お父さまは見えるのですか?」
「五体満足でガタイの良い超健康体ですよ。風邪すら滅多に引かないので、数年前にインフルエンザに罹った時は大騒ぎになりました」
確か、俺が小四か小五だったと記憶している。朝起きてリビングに入ったら、おろおろしている母と泣いている弟妹がいたので、何事だと問いかけたのだ。
そしたら、いつもなら起きてくる時間に父が起きてこない、寝室に行って様子を確認してみたら体が異常に熱くて息が荒かった。体温計で熱を測って弟に数字を読み上げてもらったところ、三十九度を超えている事が判明。時期的にインフルエンザではと予測したが、華奢な母が白杖を使いながら病院に連れて行くのはほぼ不可能。母の実家にSOSを出したが、祖父母も叔母も出掛けていて不在……八方塞がりだと言う事で、困っていたとの事だった。
「結局、父が出勤しなかった事で心配して連絡をしてくれた会社の人に事情を話して付き添ってもらい受診、泣いている弟妹は保育園と小学校を休ませて母と一緒に家で待機、俺はマスクをして登校して自分のクラス担任と弟の担任に事情を話して……と対応して何とかなりました。俺も弟も登校しなかったから俺の方の担任の先生が電話してくれてたんですけど、ちょうど会社の人と通話してた所で取れなくて」
「それは大変でしたね……その後お父さまはすぐに回復されました?」
「薬飲んで安静にしていれば大丈夫……との見立てでしたが、看病までは手が回らないだろうとの事で二日間入院させてもらいました。元通り、元気になって帰ってきましたよ」
「それなら良かったです」
咲良さんはそう呟くと、ペットボトルの中身を飲み干した。上下するほんのりと色づいた喉元が、どうしてか見てはいけないもののように見えてしまって、どきまぎしながら目を逸らす。
「その時に、身体機能の一部が不自由だと困る事も多いのだと思い知りました。父は母にべた惚れなので母の手伝いに協力的ですけれど、その父本人が動けなくなってしまった時に窮地に陥る可能性が浮上した訳ですし。だから、そんな夢を抱くようになりましたね」
障害がある場合は努力でどうにか出来る範疇を超えている事も多いのだから、頼れる人脈があるなら必要に応じて頼るべきと思っている。けれど、世の中にはそんな人脈がなかなか作れないという人もいるし、作れていても時と場合が悪くて頼れずに困る事だってあるだろう。そんな時に、確実に頼れるサービスがあれば解消出来る問題もあるのでは。子供ながらに、そう考えたのだ。
「……恰好良いですね」
咲良さんの口からそんな言葉が飛び出てきて、驚き過ぎて盛大にむせた。大丈夫かと心配して背をさすってくれる手が、じんわりと温かい。
「あ、あな、貴女は、そう言って下さるんですね」
「だってそうでしょう? そうやって、はっきりと自分の未来について語る事が出来るのは、とても凄い事だと思います」
「あ……ありがとうございます!!」
他ならぬ彼女にそう褒められて、一気にテンションに火が付いた。これが家の中ならば喜びのダンスを踊っているところだが、せっかくの好印象を壊したくはないので足踏みするだけで留めておく。
「お坊ちゃんの発想だとか、ええかっこしいだとか……そう言ってせせら笑う人間も多かったので、そう言って頂けるのは素直に嬉しいですね」
「何です、それ! そういう人達は自分が中途半端だからやっかんでるんですよ!」
「そうですかね……?」
「そうですよ! 自分が、鍵司さんみたいに将来の事を考えられてないから、きちんと目標を定めて頑張ってらっしゃる貴方がとても眩しくて、羨ましいんです! 私には分かります!」
どこかで聞いた事があるような言葉が聞こえてきて、思わず苦笑する。頬を膨らませている咲良さんが可愛らしくて、鼓動がどんどん早くなっていく。
(……リップ塗ってるのか)
最近乾燥するようになったから、それでだろうか。唇が乾燥していると、歌っている時に切れて痛む事があるのだ。だから、彼女が塗っている事自体は何らおかしくないのだけれども。
色付きのリップだったのか、何時もよりも唇が赤く色づいている。じっと見ていては失礼だと思うのに、艶やかで美味しそうなそれから目が離せない。
吸い寄せられるように、彼女へ顔を近づけた。詰まった距離に驚いたのか、咲良さんは頬も赤くして目と顔を逸らそうとする。それが嫌で、彼女の頬をしっかりと両手で包みこちら側に引き寄せる。
「……待って!」
互いの唇が軽く触れた瞬間、彼女に突き飛ばされて我に返った。目の前にあるのは、怒りと言うよりは困惑と動揺を映している、咲良さんの赤い顔。
「俺……今……」
何をしようとした? 彼女は嫌がっていたのに、事に及ぼうとしていなかったか?
「す、すみません! 俺、何てことを!」
「鍵司さん、あの」
「本当に申し訳ない! こんな失礼な事をして、何とお詫びすればいいか」
「あの、違うんです。嫌だったとかでは、なくて」
「申し訳ありませんでした。もうここには来ないようにします」
「待って! 待ってください!」
「それでは失礼します!」
後悔の念でいっぱいのまま、鞄を掴んで走り出す。彼女の呼び止める声には、気づかないふりをした。
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