第27話 もう涙すら

 去っていくウタの背中を、翼は追いかけることができなかった。


 どうして。


 それが素直な感想だった。


 昨日、なにか地雷を踏むようなことをしたのだろうか。


 ちっともわからない。


 どれも違う気がするし、どれも当てはまる気がする。


 ウタというあだ名がまずかったのか。


 昼休みの手紙がラブレターで、他の女に告白されてつき合って、その女から他の女と話すなって言われたのか。


 いや、それだけはない。


 だって、ウタが他の女と話しているとこなんか見たことない。


 見ず知らずの人に好かれるような性格じゃない。


 彼は自分のそばにいる人間だけに優しい。


「……どうして」


 足元のコンクリートに黒くて丸い模様が浮かび上がり始めると、翼を追い抜いていく学生たちが駆け足になる。


「やばい!」


「走れ!」


「おい急げって」


 翼が空を見上げると、雨粒が顔にぶつかった。


 ぽつぽつが、次第に、ざざざざに。


「つめ、たい」


 震えているのは、雨に濡れて寒いからではない。


 鞄につけてあるストラップをぎゅっと握りしめる。


「おそろい、だったじゃん」


 右足を踏み出す。今度は左足を踏み出す。意識しないと、歩く、ができない。バランスを崩してよろめいてしまう。これまで無意識に感じ取っていた体の重心がわからない。


「どうして」


 家の前まで帰ってきていた。親に気づかれないようにそっと玄関の扉を開け中に入る。ぐっしょりと濡れた靴から染み出た水が、三和土のタイルを黒く染め上げる。靴を脱いで廊下に足を乗せると、そこの茶色も一瞬で黒く染まった。関係ないやとそのまま廊下を歩き、階段の一段目に足を乗せた時。


「翼? 帰ってきたの?」


 リビングからお母さんが出てきた。


 気にせず階段を上っていく。


「ちょっと? 翼? ……って廊下までびしょびしょじゃない」


「傘忘れたの!」


 必要以上の大声を出す。今はなぜか自分を押さえつけるものすべてに反発したかった。


「忘れた、ってあなたねぇ。連絡してくれたら学校まで迎えにいったのに」


「帰ってる途中だったの」


 翼はポケットからスマホを取り出して、正常に動くか確認する。


 防水機能があるとわかっているが、やはり心配だ。


「途中って」


 お母さんの不満そうなため息が聞こえた。


「とりあえず一回下りてきなさい。先にシャワー浴びて」


「いい。後で」


 よかった。


 ちゃんと起動する。


 翼はそのまま親指を動かし続け、ウタとのトーク画面を開いた。


 もう使われることもなく、いずれ埋もれゆく運命にある画面をじっと見つめた。


「いいわけないでしょ。制服も鞄の中も乾かさないと。着替えなら母さんが持ってくるから」


「いいって言ってるでしょ!」


 階段を駆け上がる。廊下で滑って転びかけた。自分の部屋に駆け込むと、急に体中から力が抜け、制服の重さに耐えられず座り込んだ。


「お尻つめたっ」


 翼は思う。


 泰道諒太郎と聖澤翼は、正反対だけど同じなのだ。


 翼は他人からのイメージを守ろうとして、自分というものを体の奥底に追いやって生きてきたけど、ウタは自分自身で自分というものを体の奥底に追いやっている。


 彼がそうなってしまったきっかけは、きっと親友だったウヨさんの死。


 カナタさんからそれを聞いた時に確信した。


 そして、翼は自分を救ってくれたウタを、同じように救いたいと思った……のに。


「ウタ、ごめんね」


 でも、それは無理だった。


 聖澤翼じゃ無理だった。


「ほんとにごめんね」


 翼は立ち上がる。


 いいかげん、濡れた制服が体に張りついて気持ち悪い。


「どうしたら、よかったの」


 スカートのファスナーを下げると、水の重さで勝手に床に落ちた。ぴちゃと音がする。セーラー服のファスナーをあげ、襟のスナップをプチっと取った時、ふとベッドの上を見て違和感を覚えた。


 私、朝、綺麗にしたっけ?


 ベッドの上は、ホテルのそれのようにベッドメイクされてあった。今日は急いでいて、ぐちゃぐちゃのまま出てきたような……。


 嫌な予感が全身を駆け巡った。


 ふらふらとベッドに歩み寄る。


 うん、やっぱりおかしいと思ったのと、部屋の扉が開くのは同じタイミングだった。


「ああ、それ」


 声がして振り返ると、お母さんがバスタオルを持って立っていた。にこりともしていない淡白な表情が、翼の網膜に焼きつく。


「お母さんがやっておいたわ」


「ノック。勝手に入らないでっていつも言ってるじゃん」


「あなたがちゃんとしとかないからでしょ」


「頼んでない」


「言いわけしないの」


 それはどっちだ! と思うが、もう面倒なので言い返さない。


「あ、そういえば」


 お母さんが威圧的な表情を崩さぬまま、目線をベッドと床の間の空間に向けた。


「そこにあったの、捨てといたから」


「――――え?」


 なにを言われたのかわからなかった。


 けれど体中から血の気がさーっと引いていく。


「あんなのやってたなんて恥だと思いなさい。人に知られたら、母さん恥ずかしいわ。やめてちょうだい」


「……なんで」


 ふつふつと怒りが込み上がってくる。


 お母さんが恥ずかしいとか、そんなの知るかよ。


 捨てておいたから?


 その行為に感謝しなさいと言わんばかりの口調が許せなかった。


「なんでそんなこと」


「口答えしない!」


 強く鋭い声が飛んでくる。


「あなた最近おかしいわよ。変なことばっかり私たちに隠れてやってるみたいじゃない。いつものあなたに戻りなさい。ちゃんと生きなさい。あなたももう大人なんだから」


「うるさい! 黙れぇ!」


 翼は母親を力いっぱい押す。


「出てけよ今すぐっ!」


 いつもの私ってなに?


 本当の私はいつもの私じゃないってこと?


「もう勝手に入ってくんな!」


 うだうだとなにか言い返してくるお母さんを部屋の外まで押し出すと、扉をバタンと閉めて内鍵をかける。


「ちょっと翼! 開けなさい!」


 お母さんの声は無視して、もう一度ベッドの下をのぞき込む。


「捨てといたから、って」


 コスプレ衣装も、昨日ウタが取ってくれた須藤蘭子のフィギュアも見当たらない。


 宝物が、自分が、なくなった。


 その喪失感が体を支配していく。ぼろぼろになっていく。希望が溶けていく。


「もう、無理だよ。私」


 これで、コスプレオフ会にはいけなくなっちゃったな。


 着る服がないし、どうせ作ってもまたこうして捨てられるのだ。無意味すぎる。お母さんが恥ずかしいんだってさ。


「……あ」


 翼はふっと机の上を見た。


 よかった。


 コスプレ用のメイク道具は捨てられていない。


 普通のものだと思ったのだろう。


「でも」


 これだけがあったってなんにもならない。意味がない。ウタにも嫌われてしまった。


 聖澤翼が、リサでいられる場所はどこにもないのだ。


「ちゃんと生きる、ってなんだよ」


 涙が溢れ出てくる。


「生きてるよ。私はいつも。必死でいつだってさぁ!」


 この世に自分の居場所はないんじゃないか。そんなふうにも思えてくる。天井が徐々に下がってきて、そのまま押し潰されてしまう錯覚に見舞われた。


「ウタ。私、やだよ」


 そう呟いた時だった。


 大量の虫が這っているみたいなぞわぞわが、体を包んでいく。


 悲鳴を上げたいのに上げられない。


 体中が渇いていく。


 顔を覆っている手のひらがざらざらしてきたような――


「――ああ、あ、あああああ」


 翼は、絶望と共に手を顔から離した。


 両の手のひらを見る。


 目を強く閉じてもう一度見る。


「……ああ」


 かすれた声しか出てこない。


 治りかけていたはずなのに、収まったはずなのに、手のひらが砂化している――いや、手のひらだけじゃない。今日着ている下着がピンクだから、薄茶色がよく目立つ。フリルが砂漠に健気に咲く小さな花のように見えた。もちろんお腹の周りだけではなく、太腿も膝も脹脛もくるぶしもかかとも爪も、全部が砂になっている。


「なに、これ……」


 慌ててセーラー服を脱ぎ捨て、下着も脱いで、全裸で姿見の前に立つ。


 戦慄とはこのことか、絶望とはこのことか、と思い知らされた。


 聖澤翼は砂になっていた。


 足や腰だけではなく、腕も胸も肩も顔も髪の毛も、まるで鎧をまとっているかのように、すべてが砂で覆われていた。


 悲鳴も出ない。


 恐れと、虚しさだけ。


 翼は膝から崩れ落ちた。


 ざらざらの目からは、もう涙すら出てこない。

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