人魚のいる町
天原カナ
人魚のいる町
人魚のいる町で育った。18歳まで。
家の裏は浜辺で、すぐそこに海があった。
そこでは稀に人魚が現れた。
小さな町の人たちは昔からあることだからと慣れたもので、たまにテレビ局が取材に来るくらいだった。
海がすぐそばにあるからといって、泳いで遊ぶことなどなかった。
この町の子どもたちは海に行くことを禁止されていたからだ。大人たちは口々に言う。人魚に連れて行かれるよ、と。
私の家は浜辺沿いで食堂をしていた。町には他に外食するような場所は少なかったから、昼も夜も繁盛していた。多分、この町でうちの食堂のご飯を食べたことのない人はいないんじゃないんだろうか。
それほどこの町は小さくて、人が近かった。
「ただいま」
学校から帰って食堂のドアを開けると、誰かしら町の人がいた。遅い昼食を食べる人、早い夕食を食べる人、おかずを肴にビールを飲む人。
彼らは私を見つけると口々にいつも同じことを言う。
「おかえり、真波ちゃん」
「黒崎食堂の跡取り娘が帰ってきたぞ」
「真波ちゃんももう高3かぁ」
私は黒崎真波。
この黒崎食堂の長女で、町の人たちはみんな知っている。そうしていつかは私が食堂を継ぐのだと信じて疑わない。
お客さんたちに愛想笑いをしながら、店の奥に行くと自宅につながるドアがある。そこを開けると二つ下の妹の美波の靴が散らばっているのが見えた。その靴を並べてやって、自分の靴も脱ぐ。
リビングに行くと、制服のままテレビを見ている美波がいた。クーラーがきいていて、涼しい。
「美波、靴揃えなさいよ」
「だってトイレ我慢してたんだもん」
「ああ、そう。制服着替えないと皺になるよ」
「お風呂入る前には着替えるよ」
私と美波が着ている紺色の地味なスカートは、隣町の高校のものだ。この町には一つしか中学がなくて、みんなその隣町の高校に進学する。そうしてその後は県内の大学か専門学校に行くか、就職するのだ。
幼稚園から変わらない顔ぶれは安心感と退屈さが混ざっている。きっとそれはこれからも変わらなくて、いつか私が食堂の厨房に立つと、客は同級生たちや先輩後輩といった知った顔だらけになるのだろう。
「お姉ちゃん、今日の晩ご飯、回鍋肉だって」
「それ炒めるの私?」
「そうじゃない?」
「たまには美波もやってよ」
「厨房が忙しくなかったら、お母さんにやってもらおうよ」
「金曜日だから忙しいでしょ。お風呂先に入るよ」
「はぁい」
汗をかいたブラウスをさっさと脱ぎたくて、二階にある自室に急いだ。鞄を机の横にかけると、制服を脱いでTシャツと短パンという格好になった。
窓を開け、部屋の湿った空気を入れ替える。部屋の窓からは目の前の海が見えて、私はそれが気に入っていた。
浜辺には誰もいなかった。
時刻はもうすぐ5時だ。遊んでいた子どもたちは帰り、犬の散歩をする人もいない。
でも波打ち際になにかがいるのを見つけた。
「人魚……」
この町は人魚のいる町だ。
だが、最近ではめったに見られない。町の年寄りたちは人魚が減ったと口々に言ったものだ。私も生まれてからこの家にいるが、一度も見たことはなかった。
急いで階段を下りて、ブラウスを洗濯機に投げ込む。そのまま裏口から出ると、もうそこは砂浜へ繋がる道になる。道を砂浜沿いに歩いて、砂浜におりれる場所へ行く。そうして砂浜におりると、ゆっくりと歩いて波打ち際まで行った。
近づくと、やはりそれは人魚だった。
人間の上半身に、魚の下半身。海に下半身を浸けて、近づく私をゆっくりと振り返った。
「やぁ」
「……喋れるの?」
「喋れるよ」
人魚は女か男かよくわからなかった。乳房は小さく、下半身は鱗に包まれていて男女の判断は付かなかった。
その顔はこの世のものとは思えないほど美しかった。高校で一番綺麗と噂の女の先輩より、クラスの女子憧れの男子よりも綺麗な顔をしていた。
私は一目で人魚を気に入った。
周りには誰もいなくて、今この人魚の存在を知るのは私しかいない。最近人魚が現れたという噂も聞かないから、この瞬間は私だけのものだ。
「人魚って初めて見た」
「そうかい」
高くも低くもない声が、耳に心地がいい。
「人魚に名前はあるの?」
「ある。でも人間には聞き取れない言葉だよ。君は? 人間には名前があるだろう?」
「真波」
「どんな意味?」
「真の波」
「いい名前だ」
「あなたの名前、私がつけていい?」
「それはありがたい」
「じゃあ、真魚」
「まお?」
「真の魚って意味」
「人魚にぴったりだな」
女でも男でもなく、年寄りでも若くもない声がその薄い唇から紡ぎ出される。不思議な存在は私の心の中にすんなりと入ってきた。
「他に人魚はいるの?」
「最近ではあまり見ないな。だから私の名前を呼ぶものはいなくなった」
「寂しい?」
「真波に会えたから大丈夫」
ふわりと笑う真魚はどうしようもなく美しかった。夕日に照らされた白い顔を、独り占めできるのが嬉しい。
ふと触ってみたいと思った。人魚の身体に。その鱗に覆われた肩を、人と変わらない手を、潮の香りのする肌を。
「また会える?」
「真波がそう望むなら」
腕時計を見ると、思ったよりも時間が経っていた。美波が探しに来るとめんどくさい。なにより真魚を誰にも見せたくなかった。
「私の家、あそこの食堂なの。部屋から海は見えるから、真魚が来たら出て行くわ。他の人がいるときは現れちゃダメよ」
「どうして?」
「きっと大騒ぎになるもの」
「そうだな。人間は人魚を怖がるものだ」
「私は怖くないわ」
そう言えば、真魚が手を差し出した。触ってみたいと思った肌に触れる機会はすぐに来た。
こんなに美しい生き物に触りたくて、でも触っていいのかわからなくて躊躇っていると、笑い声が下から聞こえた。
「やはり怖いのではないか」
「怖くないわ。真魚が綺麗だから触っていいのかって思っただけ」
「構わないさ」
真魚が真波の手を握る。じっとりと湿った手だった。美しい鱗が手の甲まであって、ただただそれが綺麗だと思った。怖さも、不快さもなかった。
「冷たいのね」
「ずっと海の中にいるからな」
湿った手はひんやりとしていて、そうしてだんだんと真波の体温を奪っていった。冷たかった真魚の手が温くなり、同じ体温になる。
「人魚は温かいものは食べないの?」
「海に火はないからな」
「人魚はなにを食べるの?」
「海にあるものを」
この美しい生き物が、なにかを食べるのを見たくなった。それは美しい光景なのだろうか。それともその美しさが堕ちてくるようなものなのだろうか。
食堂の客はどんな人でも大きな口を開けて食べ物を食べて、口の端にソースやマヨネーズをつけて笑っている。そんな風になるのかならないのか。
「そろそろ帰らなきゃ……」
想像しただけでそれは見てはいけないようなもののようで、私は無理矢理意識を別のところに持って行った。帰る場所。自宅の匂い。待っている妹。
するりと手を離すと、真魚の手は追っては来なかった。ゆっくりと砂浜に落ちて、綺麗な手が砂に汚れ、一瞬で波が砂をさらっていった。
「また来てね」
「ああ」
「絶対よ」
「来るよ、真波」
動かないといけないのに、動けない私を笑って、真魚が身体を動かして海の中に入っていく。そのまま沖へと泳ぎ、消えてしまうまで見ていた。
真魚は毎日同じ時間に現れた。
私が高校から帰って窓の外を見ると、いる。
だから、私は急いで食堂から茶碗一杯のご飯を拝借しておにぎりを作り、卵焼きを作って、砂浜に飛び出した。
「真魚!」
「やぁ、真波」
「誰にも見つからなかった?」
「誰も来てないよ」
「はい。おにぎりと今日は卵焼き」
「タマゴヤキ?」
「そう。たまごやき」
初めて真魚に会った次の日から、私は真魚に食事を与え続けた。だいたいがおにぎりと前日の夕食の残り。
回鍋肉の味に驚き、肉詰めピーマンの苦さに吐き出し、肉じゃがの甘辛さに喜んだ。
だから苦いのより甘いのがいいのかと、今日は甘い卵焼きを作った。おにぎり以外、自分で作るものを与えるのは初めてだ。
「うん、うまい」
そう言って食べる真魚に、私は安堵した。
初めておにぎりを食べた真魚は、頬にご飯粒をつけながら、その綺麗な指先で肉を摘んだ。
その光景は美しさとはほど遠く、私は自分が喜んでいるのを感じた。それがどうしてかなんて知らない。ただ、頬についたご飯粒を取ってやり、食べ終わった指先をハンカチで拭いてやった。
今ではおにぎりに慣れたのか、ご飯粒をつけることはなくなった。それが少し残念だけど、食べ終わった後に指先を拭くのは変わらない。
「どうせ濡れるのに」
と、真魚は笑うけど、それでも拭いてやりたいのだから、これはやめられない。
「真魚はどこで寝てるの?」
「海の底で」
「真魚はここに来る以外、なにしているの?」
「海の中を泳いでいるよ」
「真魚は……」
私は色んな質問を真魚にした。
それに真魚は簡単に答え、私たちはたくさんの話をした。
「真魚に兄弟はいないの?」
「わからない。真波はいるのか?」
「妹がいるわ」
「真波に似ているか?」
「似てるとは言われるわ」
「人間は群で暮らすのだろう?」
「まぁ、家族で暮らしたり、一人で暮らす人もいるわね」
真魚も私に質問をした。
聞いてもらえることが嬉しくて、私はなんでも答えた。家族のこと、学校のこと、そして自分のこと、わかることはなんだって答えてやった。
「真波の家からはいい匂いがする」
真魚が私の家の方を見ながら言う。
「うちは食堂だから」
「しょくどう?」
「人が集まってご飯を食べるとこよ」
「たまごやきもあるか?」
「あるわ」
「足があれば行けるのだが」
「私が食べたいものがあれば持ってくるわ」
誰にも真魚を見せたくなかった。真魚を抱えられる人を連れてくれば、食堂に行くことなど造作もないことだろう。でも私は誰にも手助けを求めなかった。この誰もいない浜辺で、美しい人魚と2人っきりの世界を守りたかった。
家に帰ると甘い匂いがした。
お菓子作りが趣味の美波が焼き菓子を作っているのだ。定期的に行われるそれは、家族の胃袋に入ることもあるし、美波の友達に振る舞われることもある。
「今日はなに作ってるの?」
「フィナンシェ」
「いつも見てるドラマは?」
「終わったんだ。今やってるのは見たやつ」
「ふぅん」
お菓子作りは私にはちっともわからない。少しでも計量を間違えると違うものができてしまう繊細さが合わなくて、一度試しにやってから二度とやるものかと思った。反対に美波はきちんと検証すれば正しいものができるお菓子作りが気に入ったらしく、お小遣いでレシピ本を買い、製菓の材料を買い、道具を揃えた。
「お姉ちゃん、進路どうするの?」
「え?」
「今日一年生の進路相談があってさ、あたしは製菓の専門にいきたいって言った」
「私は……」
私は高3、美波は1年。でも先を見据えているのはきっと美波だ。誰もが私は調理の専門学校に行ってこの家を継ぐと思っている。
料理が嫌いなわけじゃない。この町が嫌いなわけでもない。
でも、好きなわけでも、ない。
ただ流されているようなものだ。美波のように自分の好きなものがあるのが羨ましかった。
「お姉ちゃん、調理師になるの?」
「どうだろ……」
「お姉ちゃんがこの家継がなかったら、あたしがケーキ屋にしてもいいよね」
伺うようにこちらを見る美波に、いいよともダメとも言えなかった。
「それは父さんと母さんがいいって言ったらね」
優等生の答えを言って、夕飯のお米を研ごうと洗ってある釜を手に取った。台所は甘い匂いがして、オーブンは全力で働いている。
「お姉ちゃん。人魚と会ってるでしょ」
え、とも、うん、とも、会ってない、とも言えなかった。その言葉は大きくて硬い鈍器のようなものになって、私の頭を揺さぶった。
「あたし見たんだ。夕方お姉ちゃんが海に行って人魚と話してるの。毎日おにぎり作ってるのも人魚にあげるため?」
なによりも真魚の姿を誰かに見られたことが嫌だった。あの美しい人魚が私だけのものでなくなるようで、私は言葉を紡げないでいた。
「人魚って今貴重なんでしょ? 役場に言わなくていいの?」
「そんなこと……」
「人魚に近づいちゃダメだって、小さい頃教わったじゃん」
「知ってるよ」
両親に、祖父母に、食堂を訪れる客たちに何度も言われた。人魚は人を連れていくのだと。海で死人が出ると、人魚が連れていったと噂された。
それでも実際会った真魚は、少しも怖くなかった。ただ美しくて、話すと楽しくて、真魚と一緒にいたら時間を忘れそうになった。
「お姉ちゃん、連れて行かれちゃうよ」
「真魚はそんなことしないよ」
「だって、人魚なんだよ」
「わかってるよ」
真魚は人魚だ。美しい尾鰭を持ち、身体のほとんどを鱗で覆われて、そして不思議な声音で話す。人間じゃないことなんて分かり切ってる。
黙り込んだ私と美波の間に、オーブンが焼き上がりを知らせる音を鳴らす。美波がオーブンの方へ行って、この話は終わったと思った。
だけど、終わったのではなく、始まったと知ったのは次の日の夕方だった。
学校から帰って、着替えようと自室に行った私が窓から見たのは、いつも真魚がいる場所に人だかりができている光景だった。
胸元のリボンを取っただけだった私は、すぐに部屋を飛びだして、階段を下り、裏口から出た。サンダルを履くと浜辺に降りていった。サンダルに靴下に砂浜という相性最悪の中、必死に足を動かしていつも真魚のいる場所に行く。
人だかりに近づくと、食堂の客である男性たちがいるのがわかった。役場に勤めている人たちだ。それにカメラを持った人。県内の水族館の名前が背中に書いてあるつなぎを着た人々。
真魚の存在が知られたのだと理解した。
「あれ? 真波ちゃん。どうしたの?」
食堂の常連の一人が声をかけてくる。そこには悪意などなく、ただ不思議そうな声が聞こえてきた。
「あの、ま……なにしてるんですか?」
「ああ、人魚がいたんだよ。何年ぶりだろうねぇ。この町に人魚が来るなんて」
やはり、真魚が見つかったのだ。そのことが絶望になって押し寄せてくる。あの美しい人魚が私だけのものでなくなってしまう。
カメラクルーたちはいい絵が撮れたと喜んで、役場の人たちは何年かぶりの人魚の登場にそわそわしている。
「すみません、通してください」
「なんだ、君は」
「黒崎食堂の娘さんだよ」
「ああ、あそこの」
そんな大人たちの声を無視して、人だかりをかき分ける。そうして見えたのは、網に包まれた真魚の姿だった。
「真魚! やめてください! 真魚を離して!」
自分でもこんな大声が出るのだと、必死になることがあるのだと知った。大人たちを驚いてこちらを見ている。
「真波ちゃん。この人魚の名前知ってるの?」
周りの大人たちがざわめく。そんな大人を無視して、私は真魚の元に近づき、その身体の網を取ろうと手を伸ばした。
「真魚を離して! これを取って! 早く!」
「君、やめなさい」
水族館のツナギを着た青年が私を止める。だが、その手を払って、真魚に触れた。しっとりとした手触りは、少しだけ乾いていた。
「真魚が死んじゃう……離してください」
「大丈夫だよ。この人魚は水族館で管理することになったから」
「そんな……」
それが最前の方法だというように、水族館の青年が言う。きっとそう言えば私が安心するかと信じているかのように。
「人魚のいる水族館なんて世界的に見てもないからね。これはきっと県外からも人が大勢来るぞ」
「車を早く回して」
「連れて帰らないと」
大人たちが口々に好き勝手なことを言う。
その中で真魚は一言も話さず、ただじっと真波を見ていた。
砂浜に大型の車が入ってきたと思ったら、そこからは早かった。大人たちが真魚を持ち上げて、車の荷台に積み込んで、あっという間に連れ去ってしまった。役場の人たちもそれを見送って帰って行った。食堂の常連客が心配そうに見てきたが、結局なにも言わずに去っていった。
家に帰って勝手口を開けると、美波が立っていた。勝手口の窓からは浜辺が見えるから、きっとここで一部始終を見ていたのだろう。私の顔を見ると、なんでもないように話した。
「お母さんが食堂手伝ってって」
「美波が役場に言ったの?」
「そうだよ」
そう言われた瞬間、美波の頬を叩いていた。子どもの頃は姉妹喧嘩をして叩くとすぐに泣いていたのに、美波はじっとこちらを見ただけだった。
「お姉ちゃんが海の底に連れて行かれないためだよ」
美波にそう言われて、それも悪くなかったと思った。真魚の住む海の中に連れて行かれるなら、この世を捨ててもいいとすら思った。
「お姉ちゃん、それでもいいと思ってないよね?」
「……食堂の手伝い行ってくる」
私は妹に心配されるような姉だったのだろうか。仲がいいわけではないが、悪いわけでもない。どこにでもいるような姉妹だったと思う。
まだなにか言いたげな美波を置いて、私は家の中を突っ切って、食堂へと行った。食堂は早い時間から賑わっていて、ほぼ満席だった。
「あ、真波、ホールの手伝いして頂戴」
「わかった」
「美波は?」
「知らない」
厨房に置いてある私専用のエプロンと三角巾を身につけると、注文を確認する。ふとホールを見ると、一番出口に近いテーブルに、中谷のおばあちゃんがいるのを見つけた。中谷のおばあちゃんは90越えた老女で、でも週に2、3回は食堂に食べにくる常連だ。いつだってカツ丼やら焼き肉定食やらボリュームのあるものを頼んで、それをぺろりと平らげる剛胆な人だった。
「中谷のおばあちゃん、今日もカツ丼?」
「そうだよ。あんたの家のカツ丼はおいしいからね。家でトンカツなんて揚げてなんてしてられないよ」
中谷のおばあちゃんは会えば必ず色んな話をしてくれる楽しい人だ。歯の抜けた歯茎を見せながら、大声で笑う姿が私は好きだった。
「真波ちゃん、人魚見つけたね」
「え?」
「家の裏で大捕り物があったとあっちゃね」
おばあちゃんはうちの2軒隣に住んでいる。うちと同じく家の裏は浜辺だ。さきほどのことも見ていたのだろう。
おばあちゃんは私だけに聞こえるように声量を落とした。
「人魚はね、恋をすると消えてしまうんだよ」
「そうなの?」
「私が小さい頃は人魚なんてたくさんいたんだよ。みんな綺麗で、不思議な声で、私は人魚が好きだったね」
「うん。真魚も綺麗で不思議な声をしてた」
「そうだろう」
嬉しそうに笑うおばあちゃんに安堵していると、厨房からお父さんの声が聞こえた。
「真波、カツ丼できた!」
「はーい」
厨房の窓からカツ丼を受け取ると、おばあちゃんの元へ運ぶ。
「今日も美味しそうだね。いただきます」
「どうぞ、召し上がれ」
おばあちゃんは美味しそうにカツ丼を食べている。真魚はなにか食べさせてもらえたのだろうか。真魚が魚だけでなく、卵焼きやおにぎりなんかも食べられて、そうして甘い味付けが好きだということを水族館の人たちはわかるだろうか。
言えばよかった思いながら、私はただ真魚のことを考えながら働いた。
朝から冷え込んで、長袖が手放せなくなった頃。私は朝一番の電車に揺られて、県内唯一の水族館に向かった。
人魚が見つかったというのはニュースになった。夕方の県内ニュースではどこでもその話題をしていて、私はそれを食い入るように見ていた。そんな私に、美波はもうなにも言わなかった。お父さんもお母さんも、私が人魚を見つけて役場へ報告したのだと思っている。本当のことを知っているのは美波と中谷のおばあちゃんと、あの日浜辺にいた大人たちだ。
今日は水族館で人魚がお披露目される日だ。誰よりも一番乗りでその姿を見たくて、始発の電車に乗った。持ってきた鞄の中には、甘い卵焼きとおにぎりが入っている。
始発で来る客はさすがにいないらしく、水族館の前には誰もいなかった。コンビニで入場券を買って、入り口に並ぶ。水族館が開くまでまだ数時間ある。英単語帳を読みながらしばらく待っていると、ぽつぽつと人が私の後ろに並びだした。
この水族館には子どもの頃から何度も来た。家族でも来たし、学校の遠足でも来た。だから、どこになにがいるかもわかっている。ニュースで一番大きい水槽に入れられると言っていたから、水族館のどこに真魚がいるかもわかっていた。
頭の中でそこまでの最短ルートを思い描きながら、ただひたすら時間がくるのを待った。
「本日はようこそいらっしゃいました」
アナウンスが聞こえて、私は英単語帳を鞄にしまった。後ろの方に並ぶ家族の子どもが「人魚見たい」と叫んでいたが、その子より先に見なくては行けないと思った。
誰よりも早く真魚の姿を見たかった。
自動ドアが開くと、私は小走りで、真魚のいる水槽を目指した。途中係員に注意された気もしたが、それどころではない。
イルカショーの整理券もペンギンのいる島も鮫のいる水槽も、全部無視して真魚のいる水槽を目指した。
一番奥の大きな水槽に、真魚はいた。
どの魚よりも大きい尾鰭を悠然と動かして、水槽の中を泳いでいた。そういえば真魚が泳ぐ姿を見るのは初めてだ。いつも浜辺に座っているから、海の中をこんな風に泳いでいるのだと知った。
「真魚、真魚」
厚いガラスに水の中。きっとこの声は届かない。それでもガラスにすがりつくように近づいた私に、真魚は気がついた。
すぐに私のところまでおりてきて、顔を合わす。
「ま、な、み」
真魚の口がそう動く。あの不思議な声は聞こえなくても、記憶の中の声が耳に届けてくれた。
「真魚・・・・・・」
涙があふれた。助けられないことに、自分はただの無力な子どもなのだと知らされたことに。きっと数分後にはたくさんの人々が真魚の姿を見るのだろう。それが嫌で嫌でたまらなくて、どうしようもないことに腹が立った。
「真魚」
届かない名前を呼ぶと、真魚は微笑んでくれた。そうしてもう一度、私の名前をその口が紡ぐ。
「真波」
「え?」
真魚の身体から無数の泡があふれ出し、その輪郭が消える。
あっという間だった。真魚の身体がその水槽から消えたのは。
「真魚? 真魚!」
水槽のどこにも真魚はいない。
真魚は消えてしまった。
「人魚は恋をすると消えるんだよ」
中谷のおばあちゃんの言葉が蘇る。
真魚は恋をしたのだろうか。それならば相手は私だと自惚れてもいいだろうか。
しばらく真魚のいた水槽を眺めていた私のそばに、いつの間にかほかの客がやってきた。
「ぱぱー人魚いないよ」
「そうだな。どこにいるんだろう」
本日公開の人魚を目当てに来た客がほとんどで、みな真魚のいなくなった水槽で人魚を探していた。しばらくしてスタッフが来て、その場は騒然となった。
私はその場を離れ、鯨の骨格標本が天井から吊られているホールのソファーに座って、お茶を飲み、おにぎりと卵焼きを食べた。食べている間も涙が出た。真魚に恋をしていたのだと、食べながら知った。あの美しい顔と不思議な声にまた会いたいと思った。
どんなに泣いても、真魚は戻ってこない。泡になって消えてしまったおとぎ話の人魚のように。
きっと今頃水族館のスタッフは大慌てしていることだろう。ざまあみろと思った。真魚の最期を見たのが私でよかったと思った。そうして泣きながらおにぎりと卵焼きを平らげると、私は水族館を後にした。
私は食堂を継がなかった。食堂はお父さんが現役を引退するまで続けられ、それからは改装して美波が小さなパティスリーを開いた。それは隣町からも買いに来る客がいるほど盛況しているらしい。
私は人魚の研究をするために、都会の大学に進学した。秋の初めから進路を変えて猛勉強したのだ。そうしてこの国で唯一人魚の研究をしている大学に合格した。
日がな一日人魚のことを考えながら、真魚のことを忘れたことはない。きっとあれは初恋だった。真魚は泡になって消えてしまったけど、あの幼い恋情はここにある。
あの時の痛みを、甘さを、幼さを私は忘れない。真魚の美しい顔も、不思議な声も忘れるわけがない。
今日も私は人魚に思いを馳せながら、おにぎりを食べる。
人魚のいる町 天原カナ @amahara_kana
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