天国の入り口で

天原カナ

天国の入り口で

 チリンチリンと鈴が鳴る。

 それが客が来た合図だ。

「はーい!」

 私は鈴の音に返事をして、家のドアを開ける。

 そこに誰がいるなんて知らない。この家には毎日知らない人がたくさん訪れるから。

「いらっしゃいませ」

「どうも。初めまして」

 今日最初のお客様は、若い男性だった。

「ここでこれを見せればわかるって言われて……」

 差し出されたのは数字の書かれた一枚の紙切れだった。

「はい。承りました。どうぞお入りください」

 男性は杖をついて、一歩ずつ家の中に入ってくる。そうして窓際にあるソファーを薦めると、どかりと座って、深いため息をついた。

 私は部屋の隅に用意されている魔法瓶からカップに琥珀色のお茶を注いで、男性の前にあるローテーブルに置いた。

「お茶をどうぞ。今お持ちしますから、少々お待ちください」

「お願いします」

 私は男性から渡された紙切れを持って、部屋を後にする。廊下を出て、台所、リビング、寝室、客間を通り過ぎて、地下への階段を下りる。そうすると後ろから聞き慣れた足音が聞こえてきた。

「右腕さん」

 私が右腕さんと呼ぶのは、この家のもう1人の住人だ。彼に名前はなく、右腕もないことからそう呼んでいる。

「取りに行くときは僕を呼んでくださいと言ってるでしょう」

「でも番号の照合しないといけないし」

「荷物運びです。片腕でも貴女よりは力持ちですよ」

 右腕さんは私のことを「貴女」と呼ぶ。

 私に名前はない。ここを訪れる人も私の名前を呼ぶ必要はないし、ここには右腕さんと私しかいない。だから、名前などいらない。

「今日のお客様はどちらでしょうか?」

「こっちよ」

 地下は暗く、そして冷たい。私は階段を下りたところで、蝋燭に火をつけて燭台を持った。同時に右腕さんは置いてあった脚立を持つ。

 家の地下には壁の見えない空間が広がっている。そこには天井に届くほどの棚が置いてあり、そのどれにも番号の書かれた木箱が置かれていた。大きいものから、小さいものに、細長いもの。中身に合わせた大きさの木箱がずらりと並んでいる。

 男性にもらった紙切れと同じ番号の木箱を見つけると、右腕さんが器用に片腕だけで持ち上げた。

「脚立はいらなかったですね」

「必要だったらもう一度取りに行かなきゃいけないもの」

 木箱があった場所はちょうど私の腰くらいの高さで、右腕さんが少し屈めば取り出せた。大きさは右腕さんの膝くらいの長さの四角柱で、側面に数字が書かれている。その番号が紙切れと同じかもう一度確かめて、右腕さんに頷いてみせた。

「よし、持って行きましょう」

「ええ。お客様がお待ちだもの」

 蝋燭の光だけを頼りに、今来た道を戻る。階段を上がれば、もうそこは明るい場所になり、私は蝋燭の火をふっと消した。

「あとは大丈夫です」

 燭台を廊下の棚の上に置いて、右腕さんから木箱を受け取る。ずしりと重みが腕にかかり、それを右腕さんが心配そうに見る。

「大丈夫ですか?」

「大丈夫よ。右腕さんが来るまで私1人でやっていたことだもの」

 もっと大きななものや、重いものを1人で運んだこともあるし、もっと高いところから下ろしたこともある。だから、大丈夫と右腕さんに言って、私は男性の待っている部屋のドアをノックして開けた。

「お待たせしました」

「ああ、待ってました……」

 待ちわびたように男性が腰を浮かす。その目が期待に満ちているのを感じながら、私は木箱をテーブルの上に置いた。

 そうして木箱の蓋を開けると、男性のほうっという息を吐く音が聞こえてきた。

 木箱の中にあったのは、人間の膝からしたの足だ。男性は躊躇いなくそれを手に取ると、椅子に座り直し、右足をズボンをめくった。

 そこには無機質な機械の足があって、軽い音がしてはずされた。そうしてなにもなくなった空間に木箱の中にあった足をあてがうと、ぴたりとくっついた。

「何年ぶりでしょうか……」

 震える声で男性が言う。

 みんなそうだ。数年ぶり、数十年ぶりの再会に、声を震わせる。

「病気で足を切断したんです。そうしないと生きていけないと言われて」

「そうでしたか」

「おかげで孫の顔まで見ることができました」

「よかったですね」

「ええ、本当に。右足だけ若いままでおかしいでしょうか?」

「そのうち馴染みますよ」

「そうですか。では、もう行きます」

「はい。お気をつけて」

 男性は立ち上がると、右足を馴染ませるように揺すってから、慎重に一歩を踏み出した。また一歩。何事もないとわかると、もう一度礼を言って、出て行ってしまった。

 私は残された義足と杖と飲み干されたカップを片付けて、次の客のための準備をする。テーブルを拭き、カップを洗い、軽く床を掃除する。

 またチリンチリンと鳴り、ドアが開かれる。

「運び屋が来たぜ!」

 明るい声が聞こえて、部屋の中が一気に明るくなった。

「いらっしゃい、運び屋さん」

「これが今日の運び物だよ」

 運び屋さんはそう言って、大小さまざまな大きさの木箱を部屋に運び入れた。その音で気がついたのか、右腕さんが部屋に入ってきた。

「いらっしゃいませ、運び屋さん」

「おう。これ地下に運んでくれ。番号間違わねぇようにな」

「はい」

 ひときわ大きな木箱を運び屋さんから受け取って、右腕さんは部屋を出ていった。そのまま地下に行って、木箱の番号と同じ番号が書かれた棚に仕舞うのだ。

「右腕がいるから嬢ちゃんも仕事が楽になったな」

「そうですね」

「あいつが来てもう一ヶ月か」

「そんなになりますか」

 ここには日付が示すものはない。だから、今が何日かという概念もない。ただ時間が流れるだけだ。

「ほら、最後にいつものな。今日はベーコンがあるぞ」

「ありがとうございます」

 運び屋さんが渡してくれたのは、麻袋に入った食料だ。中身を見ると、タマネギや人参、じゃが芋に小麦粉が入っていた。

「他に欲しいものはあるか?」

「次に来るときは塩と蝋燭が欲しいです」

「わかった。じゃあ、また7日後に来るな」

「はい」

 私も右腕さんも、この家から出ることはない。かわりに運び屋さんは定期的に訪れては、ここに必要な物を持ってきてくれる。どこから持ってきているのか、なんて知らない。ただ、持ってきてくれて、私はそれで生活する。

 毎日野菜のスープを作り、小麦粉でパンを作り、そして食べる。同じ要領で作っているのに、ちょっとずつ味が違って飽きることはない。今日からはベーコンがあるから、また違った味になって美味しいだろう。

 それが変化のないここでの生活の、ちょっとした変化だ。

「運び屋さんは帰っちゃいましたか?」

 地下へ行っていた右腕さんが帰ってくる。

「ええ、忙しい人だから。手伝うわ」

 2人で手分けして木箱を持って、地下へ行き、書かれた番号と同じ場所の棚に仕舞う。この木箱の中身を欲する人が現れるまで、この場所で眠るのだ。

 今日も明日も明後日も。私たちは訪れる人を待ち続ける。


 ここには色んな人が訪れる。

 ある日は片足のない老女だった。白髪を綺麗に結わえて、上品な白いブラウスを着ていた。

「若い頃になくしたの」

 魔法瓶に入れたお茶を差し出すと、そう話し出した。ここに来る人たちは、みんななくした物の思い出話をする。

「戦争中だったの。友達と一緒に列車に乗ってて、敵国の飛行機がやってきたって車掌さんが言ってきたわ。そこから何時間も列車の中に閉じこめられたの。時計も持っていなかったから、どのくらい経ったかわからなくて、友達と震えてたわ。だんだんお手洗いに行きたくなってね、それを友達に言うと、友達もそうだというの。飛行機はまだ近くにいるというし、外にはいけないし、友達と手を握って、えいって一緒にその場にしたわ。列車の中の暑さも、太股を伝う液体の感触も忘れられない。そのうち、大きな爆撃があって、私の足は列車の下敷きになってしまった。友達は列車の下敷きになって死んでしまったわ。私は幸運だったの。片足一つで生き残った。不思議よねぇ、私と友達の間の差なんて、右にいたか、左にいたか、それだけなの」

 お茶を飲んで美味しいと笑う老女には、深い皺が刻まれている。

「お待たせしました」

 右腕さんが細長い木箱を持ってくる。それを老女が眩しそうなまなざしで見た。

「あらあら。あなたは右腕がないのね」

「はい。行方不明で」

「そうなの。見つかるといいわね」

 老女は木箱から若い片足を取り出すと、それをあるべき場所にあてがう。若い片足はあるべき場所を取り戻したかのように、ぴたりとくっついた。

「では、おいとましましょうね。お茶美味しかったわ。ありがとう」

「お気をつけて」

 老女はスキップでもしそうなくらい軽やかな足取りでこの家を出て行った。残されたカップには温かさがまだ残っていた。

 ある時は片目のない男性だった。

 頭に白い物が目立ちだしてはいるが、体格のいい人だ。

「仕事中の事故でよ、なくしちまったんだ」

 お茶を差し出すと同時に、男性は顔の空洞を指さして話し出した。

「ありゃ、仕事初めて3年くらい経った頃だったなぁ。仕事にも慣れてよ。慣れっつーのは怖いな。いつもやってることだって思って、手順を疎かにしちまった。そしたら、ボンッよ。火花が飛び散って、眼球に当たっちまった。痛いとかはなかったな。ただ熱くてよ。周りは大騒ぎだし、急いで顔半分に冷てぇタオル当てられて、手を引っ張られて車に乗せられてよ。あれよあれよと病院に連れて行かれたら、眼球摘出しないといけないってよ。こっちは働き盛りだってのに、ふがいなくて泣いたね。片目だけで、泣いた。会社の仲間たちも泣いてくれてね。いい奴らに恵まれたよ。だけど、こんな片目の俺を好いてくれる奇特な女もいてよ。子どもも3人生まれた。ちいと早いが悪くねぇ人生だったな」

 男性は一気に話すと、お茶をすすって「美味い」と笑った。

「おまたせしました」

 右腕さんが小さな木箱を持ってくる。

 いつの間にか私が話を聞く間に、右腕さんが地下から木箱を持ってくる役目ができあがっていた。

「おう、兄ちゃん。それが俺の目ん玉か?」

「はい」

 男性は木箱を開けると、そこに置かれた眼球を取り出して、勢いよく顔の空洞に押し込んだ。

「おお、見える! 若い頃みたいにはっきり見えるわ」

「それはよかったです」

「見えない側も見える。そうそうこんな視界だったな。それじゃあ、世話んなったな」

「はい。お気をつけて」

 嬉しそうに笑って、男性はこの家を後にした。きょろきょろとあちらこちらを見ながら、それでもこちらを振り返ることはなかった。

 右腕さんと2人でそんな人たちを見送るのも、もう何度目だろう。誰もがこちらを振り向かず、道の先を行く。

 この家の周りには深い霧が立ちこめていて、道の先になにがあるのか、私は知らない。記憶の深いところからずっと私はここにいる。

 訪れる人から紙切れを受け取り、書いてあるのと同じ番号の木箱を渡し、話を聞き、そうして見送る。

 その繰り返し。


 右腕さんと家の掃除をしていると、チリンチリンと鈴が鳴った。持っていた箒を壁に立てかけて玄関に行く。右腕さんはそのままはたきで天井近くと叩いていた。

「いらっしゃいませ」

 ドアを開けると、若い女性が立っていた。背中まで伸ばした髪が揺れていて、不安そうな目をしている。

「あの、ここに来るように言われて・・・・・・それでこれを出すようにと」

 戸惑ったように女性は紙切れを差し出す。

「はい。承りました。どうぞお入りください。今お茶を淹れますね」

「あ、お気遣いなく……」

 いつもの魔法瓶からお茶を淹れて、カップを女性の前に置いた。

「いい匂い……」

「今お持ちしますので、少々お待ちください」

「はい」

 私は部屋を出て、廊下に置いてある燭台を持って、地下へ行く。途中台所の天井を掃除していた右腕さんが顔を出した。

「地下に行くなら、僕が取ってきますよ」

「大丈夫。小さなものだし、右腕さんは掃除の続きをしてて」

「わかりました」

 地下に降りて、蝋燭に火をつけて番号のある棚へと行く。比較的入り口に近い場所の棚の一番下に、それはあった。手のひらにすっぽりとおさまるくらい小さな木箱を持って戻る。

 階段をのぼって廊下を通り過ぎるときに、右腕さんが左手で天井のほこりを落としているのが見えた。

 ドアをノックして、開ける。

「お待たせしました」

 女性が待ちきれないように立ち上がる。

「こちらになります」

「これが……」

 木箱を見下ろす女性の髪が、さらりと揺れる。女性がおそるおそる木箱を開けると、そこには小さな一対の耳が入っていた。

「私、生まれつき耳がないんです。聞こえないわけではないんですが、聞き取りにくいことが多くて。集音する機能がないから」

 そう言うと、女性は顔の横の髪をかき上げた。なるほど、確かに耳がない。そこは小さな穴が開いているだけで「耳」というものがなかった。

「ここに来れば、私の耳があると聞いて。でも赤ちゃんの頃になくしたものだから、小さいですね。これ今の私の大きさになるかしら」

「なりますよ。次第に馴染むものです」

「いつも耳がなくていじめられてたの。幼稚園でも小学校でも中学でも高校でも。好きな人ができてもいつも自信がなかったわ。ただ耳がないというだけなのに。髪型もいつもこれ。耳が隠れるようにこの髪型だったの。いつか結い上げたり、耳飾りをつけたりするのが夢だったわ。でもこれで全部叶うわ」

 女性は木箱から小さな耳を取り出すと、耳のある場所にあてがった。ぴったりとひっついたそれは、じわじわと大きくなっていく。

「耳があるだけでこんなに嬉しいのね」

 明るい声でそう言うと、女性はポケットから髪ゴムを取り出し髪を結い上げた。まだ小さい耳が現れる。次は耳飾り。小さな赤い石のついた耳飾りがこれまた小さな耳たぶを彩る。

「目が見えないわけじゃない。喋れないわけじゃない。手足だってある。耳だって全然聞こえないわけじゃない。でも私にも耳がないことが重要だったの」

 控えめに微笑んで、女性は座り直してお茶を飲み干した。

「ごちそうさま、美味しかったわ」

「それはよかったです」

「貴女の声もよく聞こえるわ。便利ね、耳って」

「はい」

「そろそろ行きます」

「お気をつけて」

 軽い足取りで女性が出て行く。彼女の初めてのポニーテールが揺れているのが見えた。

 客が出て行くと来たときと同じくドアの鈴が鳴るから、それを聞いて右腕さんが入ってくる。

「終わりましたか?」

「ええ」

「どうかしました?」

「私も髪を結ってみようかと」

 私の髪も先ほどの女性と同じくらいだ。この髪型になる前のことなんて知らない。気がついたらこの長さで、伸びることも、切ろうと思ったこともなかった。右腕さんが来るまで1人でここにいたのだから、切ることは無謀だったのだが。

「いいですね。きっと似合いますよ。短いのも似合いそうですが」

「でも1人じゃ髪は切れないわ。それに結ったこともないのよ」

「大丈夫ですよ。僕が手伝います」

「右腕さんが?」

「ここに来るまで、僕は美容師でしたから」

 そう言うと、右腕さんは私を座らせて、器用に三つ編みを結ってくれた。途中片手ではできない部分に来ると、私が手伝った。できあがった三つ編みをくるりとお団子にすると、右腕さんはヘアピンで留めた。手馴れたようすに、彼が美容師だったというのは本当のようだった。

「上手ね」

「それが仕事でしたから」

 ここに来るまでの右腕さんのことは知らないし、聞いたこともなかった。聞いてしまったら、この生活が崩れそうで聞けなかった。

「これなら掃除がしやすいわ」

「台所は終わりましたので、あとは貴女の寝室と僕の客間です」

「じゃあお互いの部屋で終わりね」

 壁に立てかけて置いた箒を取って、私は自分の部屋に行く。ドアを開け放って、窓も開けて空気を入れ替える。窓の外には霧しかないが、風が吹き抜けてきた。

 寝室にはベッドと洋服ダンス、それにテーブルと椅子しかない。荷物も最小限しかないから、床を掃いて、拭けば終わりだ。

 ベッドの下の埃を取ろうと、しゃがんで箒を入れる。何度か入れては出しを繰り返していると、トンとなにかに当たる感触がした。ベッドの下になにか置いた記憶はない。それとも落としたなにかが入り込んだのだろうか。

 不思議に思ってのぞき込んだら、そこには地下にあるはずの木箱が置いてあった。嫌な汗がぶわりと溢れた。なんで木箱がここにあるのだろう。隠すように置かれたそれを、震える手で取り出す。うっすらと埃をかぶったそれは、番号が書かれていて、地下にあるものと同じだった。

 大きさからすると、腕くらいだろうか。

 おそるおそる箱を開けると、思った通り腕が入っていた。指の向きから右腕だと分かる。親指の付け根にほくろがあった。

「あ」

 これは右腕さんのものだ。

 そう思いついたら、頭が割れるように痛んだ。忘れているものを思い出すように、膨大ななにかが生み出されようとしていた。

 思わず床に頭をつけてしまった。ゴツンという音がしたが、そんな外からの痛みは、中からの痛みに勝ることはなかった。

「どうしました!?」

 音がして気になって見に来たのであろう右腕さんが、慌てたような声で近づいてくる。

「……これ、右腕さんのだ」

「え?」

 驚いたような顔をして、右腕さんが木箱を見る。そうして木箱の中を確かめると、そこに入っていた腕を持ち上げた。

「ほくろの位置が僕の腕と同じですね・・・・・・番号確認します」

 右腕さんがポケットから肌身はださず持っている紙切れを取り出す。ぼろぼろになってしまった紙切れと木箱の数字を照らし合わせると、ほうっとため息をついた。

「僕のもので間違いなさそうです」

 右腕さんは袖をめくると、右腕をあてがった。じわりじわりと皮膚がひっついて、それは右腕さんの右腕となった。何度か手を握りしめたりしている右腕さんは、いつになく嬉しそうだ。

 ここに来て、木箱の中身を手に入れた者は、出ていってしまう。それは誰1人例外なくそうだった。

 でも右腕さんだけが、木箱が見つからなかったのだ。木箱があるはずの棚にはなにもなく、右腕さんは欲したものを手に入れることができず、ここに留まることになった。

 それが私の知っている記憶だ。

 だが、違う。

 思い出した記憶は、思い出してしまった記憶は全く違うものだった。

 木箱を隠したのは私だ。右腕さんをここに留めておきたくて、ベッドの下に隠し、自分の記憶すらも隠した。

「どうしました?」

「右腕を手に入れた、右腕さんは、出て行ってしまうの?」

 震える声で聞いたら、右腕さんは悲しそうに笑った。

「僕の記憶は、美容師だったということだけでした。でも右腕が戻ったことでいろいろ思い出しました」

 ここを訪れる人たちは、みんな思い出話をする。

「僕は美容師でした。町ではそこそこ繁盛した美容室を経営していました。毎日たくさんの女性が訪れて、彼女たちの髪を切り、パーマを当て、髪を染めました。僕は綺麗になったと嬉しそうに笑う女性たちを見るのが好きでした。自分の両腕から、女性たちの幸せを生み出しているようで、楽しかった。ある日僕は交通事故を起こしました。ほんのちょっとした操作ミスです。でも美容師として大事な右腕を失いました。右腕を失って数日、僕は生きていましたが、最後には息を引き取りました」

「右腕さん……」

「あなたは、僕のお客様だった     さん」

「え……」

 右腕さんが口にしたのは、私の名前だった。

 呼んで欲しくて、呼んで欲しくなかった私の名前。

「ごめんなさい。私があなたをここに留めてしまった」

「いいえ。楽しかったです。ここでの生活。でももう行かないと」

「そう、ですよね」

 木箱の中身が手に入った者は、みんな出て行く。それがここの習慣だ。

 右腕を手に入れた右腕さんは、そのまま寝室を出ていき、玄関を出て行った。鈴がチリンチリンと鳴った。

 右腕さんが一度でも振り返ったのかどうかは、私は知らない。寝室の床にうずくまったまま、私は動けなかった。


 ここは死んだ者が、生前なくした身体の一部を取り戻す場所だ。死者はここに来る前に紙切れを渡され、ここへの場所を案内される。

 そうしてここで紙切れと交換に、生前なくした身体の一部を手に入れるのだ。

 何時間そうしていたのか分からない。私は寝室の床に頭をつけたままの格好で動かなかった。

 チリンチリンと鈴が鳴る音がする。客が来るなら対応しなくてはいけない。そう思っていると、足音はこちらに近づいてきた。右腕さんが戻ってきたのかと思っていたら、よく知った別人の声が降ってきた。

「嬢ちゃん。思い出したんだな」

「運び屋さん」

「あいつも出て行ったな」

「はい」

 思い出した。私は五体満足に生まれて、五体満足のまま死んだ。本来なら、ここには縁のない人間だ。

 ただ、恋をしていた。

 毎月通う美容室の美容師さんに。

 彼の手によって自分が変わっていくのが嬉しくて楽しくて、毎月律儀に通った。髪を切り、染め、時にはパーマをあててもらい、髪のことなら何でも相談した。

 そんな彼に私は恋をしていた。打ち明けられないほど、私は内気で、ただ毎月一回髪に触れてもらうだけでよかった。

 だが、そんな生活を何年としていると、欲が出た。もっと触れられたくて、この気持ちを知って欲しくて、もっとお喋りがしたかった。私は家族以外話すのが苦手で、友達もいなかった。ただ美容師さんとの会話だけが、家族以外の会話だった。

 伝えられないまま過ごしているある日、美容師さんが事故で亡くなったと聞いた。たった一つの外との繋がりがなくなったようで、私は倉の梁に縄を通して首を吊った。

 そうして私はここに来て、身体の一部を返す仕事をすることになった。

 美容師さんと再会したのはここでだった。

 ある日鈴が鳴って玄関のドアを開けて立っていたのが、美容師さんだった。私が聞いたとき、美容師さんはまだ生きていて、私が死んで数日後に亡くなったようだ。

 その数日のずれで、私たちは再会した。私は美容師さんの右腕を隠し、ここに留まるように言った。美容師さんのことは右腕さんと呼び、私と彼の穏やかな生活は続くように思われた。

 右腕を返してしまった今、この生活は終わりを告げた。

「運び屋さん」

「どうした?」

「私を運んでください。ここではないどこかへ」

 大切な思い出は手に入れた。私は私の命を粗末にした罰を受けなくてはいけない。

「いいのかい?」

「いいの。私の恋は私だけのものだから」

 運び屋さんが私を立ち上がらせ、手を引く。寝室を出て、廊下を歩き、いつも客の話を聞く部屋へ行く。

 玄関を開けたら、霧がたちこめていた。

 その先になにがあるかは知らない。

 運び屋さんに手をひかれながら、私は霧の中に入っていった。

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