あいにいく

天原カナ

あいにいく

 前は海。後は山。

 そんな田舎町で育って、今も暮らしている。

 幼稚園から同じクラスだった友達の多くは、県外に出て行ってしまって、この閉鎖的な田舎町に残ったのはごく少数だった。

 駅前にある開いてるお店よりシャッターの閉まったお店の方が多い商店街の写真店が私の生家だ。商店街の組合長をしている父の元、暇な人々が集う店となっている。

 今日だって朝から暇なおじさんたちが来て、ストーブで餅を焼いて食べていた。

「麻衣ちゃん、餅食べんね?」

「沢田さん家の餅は美味いねぇ」

「あそこの息子は東京出て行ったまま帰ってこんね」

「アンタは麻衣ちゃん家にいてくれてよかったねぇ」

「そうじゃろ」

 4、5人のおじさんたちが出たり入ったりで、お客さんは朝から1人も来ない。成人式は終わったし、卒業式入学式シーズンまで閑散とするだろう。一応証明写真も撮っているけど、スーパーにある写真機で撮れるから、わざわざ写真館に撮りに来る人は少ない。この写真館の主な収入源は、学校関係の行事の写真撮影だ。だけど、今月は注文がないから、現場に行くこともなかった。

 父の仕事が暇ということは、アシスタントをしてる私の仕事も暇ということだ。

 店にあるストーブの前で、父は同じような暇なおじさんたちとお喋りに興じて、私はテレビを眺めながらスマホを見ていた。

 これが今月に入ってからの写真館の光景。

「麻衣ちゃん、いる?」

 写真館のドアが開かれ、相変わらず見知った顔が現れる。

「洋次郎おじさん、こんにちは」

「よお、今日もばっちりキマってんな」

 入ってきたのは父の弟の洋次郎おじさんだった。いつもならストーブの周りにいるおじさんたちの輪に入るのに、今日はまっすぐに私のいるカウンターにやってきた。

「どうしたの?」

「麻衣ちゃん、暇なときにバイトしない?」

 洋次郎おじさんは山の上にある墓地の管理人をしている。お盆やお彼岸は忙しそうだが、それ以外はふらっとうちに現れて、他のおじさんたちと話して帰って行く。

「墓地のバイト?」

「近い」

「どんな仕事?」

「墓参りの代行のバイト」

「そんなのあるの?」

「あるある。結構需要があんのよ」

 そう言いながら、洋次郎おじさんがスマホであるホームページを見せてくれた。そこには「墓参り代行します」という文字が書いてある。

「おじさんこんなこと始めたの?」

「おお。最近仕事が増えてきてな。人手が欲しいとこなんだよ」

「いいよ、やる。お父さん! 暇なとき洋次郎おじさんのバイトしていいよね?」

 父に声をかけると、その場にいるおじさんたちみんながこちらを見る。

「おう、いいぞ」

「洋ちゃん、なんの仕事だ?」

「墓参りのバイトだよ」

「はぁー最近はそんなのもあんのか」

 父からの快諾を得られたら、周りのおじさんたちが興味本位のまま話し出す。

「じゃ、詳しいことはまた連絡するから」

「わかった」

 洋次郎おじさんは、父たちの輪に加わり、私はスマホで「墓参り代行」を検索した。この町の名前を入れたら、すぐにおじさんが見せてくれたホームページにたどり着くことができた。

 この小さい町でバイトをするのは、こうやって知り合いから頼まれることが多い。高校時代のバイト先のお弁当屋さんも、毎年年末に手伝いに行っている米屋の餅つきのバイトも、正月の巫女さんのバイトも全部誘われてやってきた。写真館だけの仕事ではいい給料とはいえないし、こうしてバイトの斡旋をしてもらえるのはありがたい。

「洋ちゃん来たし飲み行くか」

「そうだな」

「麻衣ー父さんちょっと出てくるから」

「はいはい」

 おじさんたちが立ち上がる。どうせ行くのは2軒先の居酒屋だろう。

 この町は小さな輪の中で簡潔している。

 病院も、食堂も、スーパーも、葬儀屋だってある。どこに顔を出しても知り合いがいた。

 そんな生まれ故郷が私は嫌いじゃない。


「墓参りのバイト?」

「そー」

 敦史の怪訝そうな声を受け流して、メロンソーダを飲み干す。

「麻衣はこの町の便利屋かよ」

「ああ、それいいね」

 週末の過ごし方はいつも決まっている。彼氏である敦史と町で唯一の大型スーパーでデートすることだ。大型スーパーといっても、食品売場と衣料品売場、それにささやかなフードコートがあるだけだ。小学生の頃にできたそこは都会とのパイプのような存在で、学生たちのたまり場で、初デートの場所だった。

 敦史は写真館の斜め前に家がある幼なじみで、幼稚園に入る前から知っていて、高校まで同じクラスで、町に残った者同士でくっついたようなものだ。仏壇屋の次男で、今は病院で作業療法士をしている。

「そんなにバイトして欲しいもんでもあるのかよ」

「洋服とか化粧品とか」

「今度買いに行く?」

「ううん。通販で買える。便利な世の中だよね」

「あっそ」

 ちょっとしたブランドものを買いに行くには、大きな町まで行かないといけない。でも今は通販で全てが手に入る。

「そんなの買って、どこに行く気だよ」

「バカね。私の気分がよくなるじゃない」

 デパコスもブランドのバッグも服も、私が機嫌よく過ごすには必要だ。それらはこの狭い町を忘れさせてくれる。

 きっと私は敦史と結婚して、子供を産んで、一生この町で暮らすだろう。それについて疑ったこともなかった。


 意外と需要があると言った洋次郎おじさんの言葉は本当で、墓参りの依頼はすぐに来た。朝から花屋で依頼者から指定された花を買い、山の上の墓地に自転車で行く。去年家族でお金を出し合って買った電動自転車があれば、町の中一周なんてすぐだ。坂道も快適に進めて、山の上の墓地に行くのも苦ではない。

 敦史の家の仏壇屋で買った線香を持って墓地に行くと、当たり前だが誰もいなかった。

「さむっ」

 山の上は風が強く、今の季節は寒々しい雰囲気を漂わせている。水道で備え付けのバケツに水を入れて依頼された場所に行くと、しばらく手入れされていなかったと思われる墓石があった。

 周りの生えっぱなしの草を取って、水をかけて墓石を洗う。綺麗になったら花をいけて、線香に火をつけた。墓に眠る人は知らない人だが、ここの墓地に入っているということは、この町に縁がある人なのだろう。あながち知らない仲というわけでもない気がして、手を合わせて拝んだ。

 そうして最後に持ってきたカメラで墓の写真を撮れば墓参りはおしまいだ。あとは撮った写真を依頼者に送ればいい。

 難しい事なんてなにもない。この墓地にはうちの墓もあるし、何度も来たことがある慣れている場所だ。墓地からは海が見えて、眺めがいい。きっと私も死んだらこの墓地に埋葬されるのだろう。

 時計を見ると墓地に着いて30分も経っていなかった。悪くないバイトだ。1軒単位で入ってくるバイト代もこの町にしては破格だし、写真館の仕事の合間にできる。春物がそろそろ通販サイトに載る頃だ。トップスを買うか、スカートを買うか、それともどっちも買ってしまうか。そんなことを考えながら自転車を漕いで帰った。

 

 墓参りの依頼のほとんどを私がこなして、私が写真館の仕事がある時は洋次郎おじさんがやるという役割が出来上がった頃、一つの依頼がやってきた。

 毎月22日に指定された品物と花をお供えして欲しいというものだった。

 月命日にお参りして欲しいというものなら理解もできる。遠方にいる子孫がなかなかこの町まで来られないから、という代理なんて何度となくあった。この町の住人からも足腰が弱って、入院しているからなどという理由で、山の上まで行けない人たちからの依頼も何度もあった。

 だからその依頼もいつもと同じくらいの気持ちで受けたのだ。

 ちょうど卒業入学シーズンの写真撮影が終わって、次は小学校の遠足に同行して写真撮影しないといけないという時期で、指定された日は空いていたから洋次郎おじさんではなく、私が行くことになった。

 墓参り代行の仕事も慣れたもので、いつも通り線香や掃除道具が入ったバッグを持ってスーパーの花屋へ行って花を買う。花や品物も具体的に指定があって、赤いチューリップを買って、和菓子屋で桜餅を一つ買い、メーカー指定された緑茶のペットボトルを買って行った。

 依頼者がどんな人かは気にしたことがなかった。だが、ここまで指定されるのは珍しい。

 指定された場所に行くと、綺麗に掃除された墓石があった。

 これでは私が掃除する必要はないんじゃないかと思うくらい綺麗で、少しだけ枯れた仏花がいけてあってごく最近誰かが参ったように思えた。

 周りに草一つ生えていないので、仕方なく墓石を掃除して、線香に火をつけて、花を持ってきたチューリップに変えて、桜餅とお茶をお供えする。拝んで、最後に写真を撮ればおしまい。

 代行を頼まれる墓は、だいたいが墓参りに行けないからというのがほとんどだ。だから、周りに草が生えていたり、墓石に汚れがついていたりというのが当たり前で、こんなに綺麗な墓石は初めてだった。これでお金をもらうのは気が引けるが、依頼されているのだから仕方ない。

 墓石の横の名前が書いてある石を見ると、ほんの少し前に亡くなった人の名前が書いてあるのがわかった。その名前に見覚えはないが、この墓はよく家でできた柿をくれる岩田のおばあちゃんの家の墓だと洋次郎おじさんが言っていた。岩田のおばあちゃんは一人暮らしで、子どもたちはみんな遠方に出てしまったと聞いている。

 そこまで考えて、詮索するのもなと思いやめた。食べ物を放置するのはカラスが来るから禁止という墓地の決まりを守って、供えた桜餅とお茶を持って帰った。


 写真館の仕事をしながら墓参り代行の仕事をして、私は貯まっていく貯金を見て純粋に喜んでいた。新しい時計も新調したし、夏のサンダルも買った。着飾って行く場所は町の大型スーパーくらいだけど、パートのおばちゃんたちはみんな似合っていると褒めてくれた。

 岩田家の墓参りは変わらず22日という指定で毎月依頼があった。5月は柏餅とお茶、それに百合の花。6月は水無月という和菓子とお茶にアジサイの花を指定された。アジサイは花屋に売ってなかったから、敦史の家に咲いているのを少しもらいに行った。

「麻衣ってまだ墓参り代行やってんの?」

 おばさんからアジサイを拝借する許可をもらって庭に行くと、敦史が出てきた。

「やめる理由がないもの」

「人の墓参るってなんか変なもの連れてきそう」

「なにそれ。心霊現象的な? 敦史の家の墓も参ってあげようか」

「うちはどうせじいちゃんが参るしな」

 敦史との関係も変わらない。毎週末大型スーパーでフードコートデートするくらいだ。たまに町唯一のイタリアンに行ったり、隣町にあるラブホに行ったりするが、変わることはない。

「そういえば、司くん結婚すんだって」

「理奈ちゃんと?」

「そうそう」

 それは年上の幼なじみの名前だった。相手も同じく年上の幼なじみ。この町で出会って、付き合って、ゴールイン。珍しくないパターンだ。

 うちの両親だってこの町の出身で、幼い頃からお互いを知っていた仲だし、町の中だけで全てが完結するのもよくあることだ。

「司くん、うちらより2つ上だから25かぁ」

「生まれてからずっと一緒で、これで死ぬまで一緒なんだね」

「そうだな」

 山の上の墓地に、2人の家の墓はある。この町の子どもはみんな同じ病院で生まれるし、亡くなれば山の上の墓地に入れられる。

 それが嫌だとこの町を出た者もいる。一度出て行って帰ってくる者もいるし、二度と帰ってこない者もいる。

「麻衣は出て行こうって思わなかったの?」

 敦史のその言葉に、少しだけ考える。出て行こうなんて思わなかった。専門学校も家から通える場所にあったし、仕事だってここにはある。

「理由がないから。敦史は?」

「麻衣がいるから」

「私を理由にしないでよ」

「ごめん」

「そろそろ行く」

「うん」

 アジサイを数本ハサミで切って、その場を離れる。自転車の荷台にアジサイを入れると、山の上の墓地まで無心で漕いだ。

 敦史と町を離れない理由を話したことは初めてじゃない。地元が心地がいい、仕事だってある、そんな簡単な理由だったけど、そこに私がいるとは思わなかった。

 一応恋人という間柄なのだから、あれは惚気の一つだったのだろうか。そう考えたらもやもやしてきた。誰かをこの町に縛る原因になんかなりたくない。

 墓地に着く頃には雨が降ってきて、持ってきた合羽を来て墓参りをした。毎回同じように花をいけて、お供えものを置いて、線香に火をつける。写真を撮ると、来月もまた来るのかと思って片づけた。

 この墓地のどこに誰の墓があるのかだいたい分かってきて、色んな人の依頼を受けた。命日だから参って欲しいというのがほとんで、月命日に毎月というのはこの墓だけだ。メールでしかやりとりのない依頼人はどんな人なのだろうか。お盆くらいは自分で参ったりしないのだろうか。安くない金額を払って依頼をする見たこともない依頼人にとって、この墓の住人はどんな相手なのだろうか。

 帰りながらそんなことを考えていたら、雨が強くなって私は急いで自転車にまたがった。


 梅雨が明けても、22日の依頼は届いた。

 7月は葛まんじゅうとひまわり。それと同時にお盆の依頼も書いてあった。

 小菊の花束、これはわかる。

 とんかつと100%オレンジジュース、それにシュークリーム、故人の好きなものなのだろうか。そうして最後の宛先のところを何気なく見て、私は首を傾げた。

「みなみかぜはらさん?」

 そこには南風原理香と署名がある。なんと読むのだろう。今までの墓参りも同じ人からの依頼だったはずだから、南風原さんとやらから来ていたのだろう。あんまり気にしたことはなかったが、この辺りでは聞かない名字だ。

 そもそも岩田のおばあちゃん家の墓なのだから、てっきり岩田さんからの依頼だと思っていた。

「よぉ」

 写真館のドアが開いて、敦史が入ってくる。週末だからこれから一緒に大型スーパーのフードコートに行く予定だった。

「ねぇ敦史、これってなんて読むかわかる?」

 依頼のメールを見せるわけにはいかないから、メモ紙に「南風原」と書いて見せてみた。お互いの国語の成績なんていやというほど知っている。どうせ読めないのだろうから、コピペして検索してみようと思っていた。だが、敦史から返ってきたのは意外な言葉だった。

「はえばる」

「え、敦史読めるの?」

「沖縄にある名字だろ?」

「沖縄の知り合いなんていたっけ?」

「患者さんにいるんだよ。南風原さん」

 敦史が勤めている病院の患者は、ほぼこの町の人だ。たまに敦史から聞く患者さんの愚痴も、どこの誰だか筒抜けである。

「この町の人じゃねぇよ。事故で大けがしてうちの病院に運ばれたんだ。年末にため池で事故あっただろ? あのときの」

 そういえばうちに集まるおじさんたちが話していた気がする。ため池で大きな事故があって運転していた男性が亡くなったと。

「その人名前、理香さんって言う?」

「なんで知ってんの?」

「毎月22日の依頼主」

 敦史がああと納得したような声を出す。アジサイを貰いに行くときに話したのを覚えていたようだ。

「入院してるから、お墓参り行けないんだ」

「ずっと寝たきりだったしな。右手だけ動かせたからスマホは使えたみたい」

「その人、まだ入院してるの?」

「まだしばらくは入院だな」

 この町の住人から依頼があるときは、墓の写真を撮って見せに行くこともある。年寄りはそれを見て拝んだり、綺麗になった墓を見て喜んだりしていた。

 南風原さんには毎回写真を送っている。でもこの町の人じゃないなら、お墓の周りはきっと知らないだろう。どんなところにお墓があるなんと想像するしかないと思う。

「ねぇ、敦史。南風原さんに会えるかな?」


 町唯一の大きな病院。その3階の角部屋は個室になっている。敦史と一緒に歩いていると、幼い頃から知っている看護士さんたちとすれ違った。

 私と敦史は「南風原」と書かれた部屋の前に行き、ドアをノックする。すぐに返事があって、私はドアを開け、敦史に外で待っててと言って中に入った。

「どなた?」

「突然すみません。墓参り代行の者です」

 南風原さんは私や敦史より少し上の女性だった。ほりの深い目鼻だちをしていて、エキゾチックな雰囲気のある美人だ。

「ああ、毎月ありがとうございます」

「今日はちょっと見せたいものがあって」

「見せたいもの?」

 南風原さんはベッドの横にあるリモコンでベッドを起こした。

「ごめんなさいね。まだあんまり身体を動かせなくて」

「楽な姿勢で見てください。これです」

 私は持ってきたバッグの中からタブレットを取り出して、動画を再生すると南風原さんに見せた。

「これは?」

「いつも依頼されているお墓のある墓地の風景です」

 いつも墓しか写していないが、動画には墓から見える風景を映している。

「そう。大輝はここに眠っているの。海が見えて綺麗なところね」

「勝手なことをしてすみません」

「いいえ。嬉しいわ。まだ車いすじゃないと動けないし、ここには知り合いもいないし」

「お住まいはどこなんですか?」

「東京よ」

 この町以外の人と話すのは久しぶりだ。珍しくて、私はこの人ともっと話したくなった。

「岩田のおばあちゃん家のお墓ですよね、ここ?」

「そうね。岩田さんのお墓。岩田大輝っていうのが私の恋人の名前なの。多分、あなたの言う岩田のおばあちゃんの孫にあたる人ね」

「その人は」

「亡くなったの。年末にね。事故で」

 ため池で亡くなった男性というのは、岩田のおばあちゃんの孫で、この人の恋人だったのだと理解した。

「この夏に結婚する予定だったの。だから、旅行がてらおばあちゃんに会いに行こうって。あなた恋人は?」

「一応彼氏います」

「この人しかいないと思ったら、掴まえなきゃ。いついなくなるかわからないわよ」

 この人しかいないというより、残っていたのが敦史だった。2人しかいない幼なじみ同士、身を寄せ合ったようなものだ。

「大輝さんのこと、好きだったんですね」

「ええ、愛してるわ。きっとこれからも」

 南風原さんの言葉は、過去形じゃなかった。恋人が亡くなっても変わらない気持ちがある。

「来月東京の病院に転院するの。それでもお墓参りの代行を頼んでもいいかしら?」

「もちろんです」

「自分の足で動けるようになったら、ちゃんと行くから」

「毎月ですか?」

「それは厳しいかもしれないわね。大輝と一緒にいろんなところに行こうって約束してたから、まずはそこに行かないと。世界を旅するの」

 南風原さんはテーブルの上に置いてあったノートを見せてくれた。そこには行きたいところリストと書かれた世界中の地名があった。もちろん私はどこも行ったことがない。

「2人でいろんなところに行ったの。いろんなものを見たし、いろんな人に会ったわ。楽しかった」

 南風原さんは恋人を亡くした悲劇のヒロインなんかじゃなかった。真っ直ぐ前を向く姿は眩しい。

「昔は1人旅が好きだったの。でも大輝とあって一緒にいることでもっと旅が楽しくなった。私はきっと1人でも生きていくことができるけど、大輝とならもっと楽しいんじゃないかって思ったの。そんな風に思える人はもう現れないわ」

「そんなこと」

「私の赤い糸は今でも大輝と繋がってるから」

 にっこりと笑う南風原さんは誇らしげだ。

 それから南風原さんは大輝さんについてのことを教えてくれた。「詳しいんですね」と言ったら、「好きな人のことは知りたいでしょう」と笑われた。

 まるで大輝さんが生きているようだった。

 私はまた遊びに来ることを約束して、外に出た。そこには待ちぼうけをくらっている敦史がいた。

「遅い」

「ねぇ、敦史。私たち別れよっか」

「は?」

 私は敦史の好きな食べ物を知っている。それは幼い頃からそばにいるからだ。知りたいと思ったわけではなく、自然と知っているものだった。

 もし敦史が死んだら、私はあんな風に愛していると言えるだろうか。多分、言えない。

 この町で生まれて育って、私は知らないことが多すぎる。世界にはもっと多くの人がいて、もしかしたら私の赤い糸が繋がっている人は全然違う場所にいるかもしれない。

「車買おうと思うの」

「車? それより別れるってなに?」

「いろんなとこに行って見聞を広めるの」

 そうと決めたら、この小さな町が息苦しくなってきた。まずは隣町、そしたら隣の県、北海道から沖縄まで行ってみよう。

 状況を飲み込めていない敦史を置いて、私は病院をあとにした。

 世界は広い。この小さな町だけで終わってしまうにはもったいない。

 会いに行こうと思う。世界に。

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