私は《悪役令嬢》の役を降りさせて頂きます

めぐめぐ

第1話 悪役令嬢

 あれ? ここはどこ?


 私は、真っ暗な場所で目を覚ました。

 周囲に視線を向けても、闇に閉ざされた空間には光一つ見ることができず、自分の手があるらしい場所すら何も瞳に映さない。


 異常な状況であるのに、私の心は不思議と落ち着いていた。


(私は今まで一体何をしていたのかしら?)


 記憶を探ろうとすると、ずきりと後頭部が酷く傷んだ気がした。慌てて手を当てたけど、指がさらっとした髪をすくうだけで、痛みを感じさせる元凶は何一つ見つからなかった。


 だけど、さっきまで落ち着いていた気持ちが、ざわつきだす。

 心臓が大きく跳ね上がり、身体中が寒気に包まれる。


 そして――

 全てを思い出した。


 *


 私の名は、アンティローゼ・レファ・エリオンフィール。

 エリオンフィール公爵令嬢であり、トロイメラル王国の王太子エリオット・ディル・ダ・トロイメラル様の婚約者であり、未来の王妃となる者。


 幼い頃、両家の結びつきを強めるために、殿下と婚約が結ばれた。

 厳しい妃教育を受け続け、自由はほとんどなく、来る日も来る日も、エリオンフィール家の名に恥じぬよう、婚約者であるエリオット様の名を穢さぬよう、緊張を強いられる日々を過ごしてきた。


 幼い頃は、何度も父と母に泣きついたものだ。しかし耐え続けることができたのは、エリオット様が私を常に大切にしてくださったからだ。


「私のせいで辛い思いをさせてすまない、聡明なアンティローゼ……私が王太子などでなければ、こんな思いをする必要などなかったのに……」


 殿下は泣きはらした私の顔を見つめながら、申し訳なさそうに詫びる。しかし私の涙を指で拭うと、優しく抱きしめながらそっと耳元で囁くのだ。


「でも許して欲しい。辛い思いをしていると分かっていても君を手放せない身勝手な私を……」

 

 少なくとも私たちの関係は、政略結婚だとされていながらも、互いを愛し愛しみ合う関係になっていたはず――だった。


 私たちが、最後の自由として認められた学園へ入学し、


 ――あの女が転校して来るまでは。


 *


 優しかったエリオット様の怒声が記憶に蘇る。

 そう、あれは確か入学してから2年後に行われた卒業パーティーの時だった。


『アンティローゼ・レファ・エリオンフィール! お前が今まで影で行っていた、ルシア・トニ・キーティング伯爵令嬢への嫌がらせは私が知るものとなっている! お前がそんな浅ましい女だとは思わなかったぞ! お前との婚約を破棄し、ルシアを我が妻として迎える!』


 彼の傍には、怯えた表情で私を見つめるルシアがいた。殿下の服を掴み、小動物のように震えながら潤んだ瞳を向けている。


 私たちの関係は、学園入学後も変わらなかった。

 しかしルシアが転校してきてから、状況は一変する。


 あの女はいつの間にかエリオット様に近づき、彼の心を奪ってしまったのだ。


 ルシアがエリオット様と会う時間が増えるにつれて、私と会う時間が減った。

 ルシアに向けられるエリオット様の笑顔が増えるにつれて、私に向けられる笑顔が減った。


 私から殿下に声をかけると、あからさまに不機嫌な態度をとられることが多くなった。


 元々は政略結婚。

 愛がない夫婦など、貴族社会にはごまんといる。


 しかし諦めるには、私のエリオット様への想いは深くなりすぎていた。


 深くなりすぎた想いは、ルシアへの嫉妬へと変わった。


 一度、彼女に警告したことがある。

 エリオット様は私の婚約者だと。彼に近づき色目を使うのは、伯爵令嬢としていかがなものかと。


 しかしルシアは、笑顔でこう言った。


「しかしエリオット様が会いたいと仰ってくださいますから。王太子の言葉に誰が逆らえますか?」


と、とても嬉しそうな表情で。

 どう考えても強要されているようには思えない笑顔で。


 その日から、私はルシアへの嫌がらせを始めた。


 たかが伯爵令嬢に、公爵令嬢である私が嫉妬に燃えるなど愚かしい。今思えば、私が正式な婚約者なのだ。ドンと構えていれば良かったのに、それができなかったということは、私もその程度の器でしかなかったということ。


 だけど、今まで私に向けられていた笑顔が、彼女に注がれていると思うと、正気を保つことができなかった。


 ルシアへの嫌がらせは、日を追うごとに過激になっていった。


 もちろん、エリオット様の寵愛を一身に受けている彼女が、私から受けている嫌がらせを彼に伝えないわけがない。


 そして卒業パーティーの際、私は皆の前でルシアに行っていた愚かな行為を公表され、エリオット様から婚約破棄をされたのだ。

 

 ルシアに嫌がらせをしていたのは本当だったから、言い逃れなどできなかった。

 あの場にいた皆が、私に対し冷たい視線を、ルシアに同情するかのような視線を向けていたのを思い出す。


 誰一人、味方はいなかった。

 

 しかし私は愚かしくも、公爵令嬢らしからぬ醜態を晒したのだ。

 殿下の足元に額をこすり付け、涙ながらに許しを請うと、エリオット様への愛を口にする。しかし目を背けられたため、今度は見っともなく服にしがみついた。


 エリオット様はまるで汚物を見るかのような冷たい視線を私に向け、強い力で振り払った。

 その拍子に私は後ろに倒れ、近くにあった机の角で頭を――


 そこからは何も覚えていない。


(死んだ……のかしら? ということは、ここは死後の世界?)


 思い出した記憶はショックではあったが、冷静に受け入れているのは、死んで自分を客観視できているからだろうか。

 そう思った時、


『また戻って来たね、アンティローゼ』

「だ、誰⁉」


 突然降って来た男性の声に、私は驚いて周囲を見回した。もちろん闇の世界に変化はなく、声の主を見つけることはできない。


 しかし、向こうには私の姿が見えているのだろう。耳の奥をくすぐるような笑い声が空間に響き渡った。


『あははっ、安心して、俺は君の味方だよ。それにしても今回も大変だったね。机の角に頭をぶつけて死ぬなんて。ま、前回あった、ルシアに飛びかかってエリオットに切り捨てられる結末よりかは、まだマシかな?』


「……え? 切り捨てられる……結末?」


 男の言っている意味が分からなかった。

 自分の死を落ち着いた気持ちで受け入れていたのに、一気に脳内が疑問符で一杯になった。


 彼が呆れ声をあげる。


「前回死んだとき、ちゃんと説明したんだけど忘れちゃったのか? 君は恋愛小説の登場人物なんだよ? この世界は全て物語の世界ってわけ」


 声の主は全てを説明してくれた。


 この世界は《全ての愛を君に》という物語なのだという。

 登場人物である私たちが決して気づくことはないのだが、私たちの生活を覗く、いや読む外の者たち――《読者》という存在がたくさんいるのだという。彼らの期待や希望が、私たち登場人物に影響を与えるのだ。


 そして私は今、《悪役令嬢》という女性主人公を虐める立場にある。

 お相手となる男性と女性主人公の邪魔をする、いわば当て馬的な役であり、最後には溜まりに溜まった《読者》からの憎しみや苛立ちを、断罪という形で解放する役目があるのだという。


 始めは信じられなかったが、声の主の説明に触発されたのか、今まで何度も繰り返され続けて来た断罪のシーンが脳内に蘇ったことで、受け入れざるを得なくなった。


 時には処刑され、時には殿下の手によって殺され。

 追放されて野垂れ死に、娼館に売られて死ぬまで男たちの慰み者にされ。


 どれもこれも酷い結末だった。

 声の主が、頭を打って死んだ結末がマシだと言った理由が理解できた。


「……酷すぎる、こ、こんなことって……」

 

 私は顔を手で覆った。

 

 確かに私の行動は《読者》にとって、娯楽のようなものかもしれない。


 しかし、私は本気だった。


 全てエリオット様を愛し取り返したいと思っていたこそ、起こした行動だったはずだった。

 それなのに……


「分かるよ、アンティローゼ。俺も酷すぎると思う。愛する人を奪われた被害者である君が何故、《悪役令嬢》の役をしなければならないんだろうってね」

 

 私の気持ちに共感するように、男の声がとても優しくなった。


「しかし残念ながら《読者》には主人公の一面しか読むことしかできない。誰も《悪役令嬢》側の気持ちや事情など知らないんだ。今、君が悪役令嬢なのは、《読者》が《君》を《悪役令嬢》だと思っているから。彼らが君に《悪役令嬢》の役目を望み、期待する限り、繰り返される悲劇は終わらない。大切な者を奪われ、死ぬ結末は変わらないんだ」


「ど、どうすれば、いいの? どうすれば……」


「……良く思い出して。君が今までルシアにやってきたことを。客観的に見て許される行為だと思う?」


 私は記憶を探った。


 ルシアには、嫉妬心からありとあらゆる嫌がらせをした。


 持ち物を隠すなんて日常茶飯事。

 悪い噂を流したり、階段から突き落とそうとしたり、一度は、ならず者を雇って襲わせようともした。


 ……普通に考えても、常軌を逸している。

 私から見ても、完全に悪役の行動だった。


 同時に自身の幼さ、愚かさが恥ずかしくて堪らなくなった。

 エリオット様だって、私がこんなことをしていたと知ったら、ルシアに心を奪われているとか関係なく、嫌悪を露わにされ、私との関係を見直されることだろう。


 私の心境を察したのか、声の主が苦笑いをした、ように思えた。


「そういうことだよ。《読者》は、君が愛深き故に行った行為に同情しなかった。むしろ悪役である君への憎しみを強め、最後断罪されてスッキリし、《悪役令嬢》に虐げられたルシアの幸せを見たいと思った。だから君は《読者》の希望に知らず知らずのうちに応え、《悪役令嬢》として行動し、破滅に至ったというわけだ」


 彼の言いたいことは良く分かった。

 私は、自分で自分の首を絞めていたわけだ。


 その時、身体が急に何かに引き伸ばされるような感覚が襲った。

 だけど、この感覚は何度も経験している。


 新たな物語が始まる際に、起こる現象だったはず。

 

「ああ、時間が来たようだね。君はまた学園入学時に戻され、新たな物語が始まる。でも、悲劇を回避するために君がすべきことがなにか、もう分かっているよね?」

「……ええ。私はできる限り《読者》の憎しみを集めないようにしなければならない。《悪役令嬢》として期待されるような行動をしてはならない。そうね?」

「ああ、その通りだ。聡明なアンティローゼ」


 私の名を呼ぶ声は、優しさに満ちていた。

 彼の言葉に、どこか懐かしさを覚える。昔よく感じていた、だけど久しく感じていなかった懐かしさが、胸の奥を締め付けた。


 しかし理由を知る前に、彼の言葉が思考を遮った。


「俺の大好きだった《全ての愛を君に》の世界を正しい結末に……君を――に――」


 声が遠く、はっきりと聞こえなくなる。

 しかし最後に告げた彼の声は、どこか泣きそうだった。


 私の意識はここで途切れてしまった。


 *


 気が付いたら、私は鏡台の前に座っていた。

 私の後ろには誰かがいて、長い金色の髪をくしで梳かしている。

 

「今日は、アンティローゼ様の入学式ですわね。殿下と送られる学園生活は、きっと楽しいものになるでしょう」


 心の底から楽しそうに言いながら私の髪を整える侍女。

 どうやら、


(……戻ってきたのね、入学式の日に)


 不可思議な現象を、自然と受け入れていた。

 だって、もう何度も繰り返してきた光景だったから。


 入学式の時、こうやって楽しそうに髪を梳かしてくれた侍女が、次第に暗く沈んだ声へと変わり、最後は無言で身支度を手伝ってくれていたのを思い出す。


 夢であればいいと、今でも思う。

 私の幻想であれば、どれだけ良かったことか。


 お出かけのご用意をします、と告げて侍女が部屋を出ると、私一人になった。綺麗に整えられた鏡の中の自分を見つめながら、今まで繰り返してきた悲劇を、暗闇の中で私に生き残る助言をくれた彼の声を思い出す。


(この世界は物語。そして私は……《悪役令嬢》)


 立ち上がると、窓から外を見た。

 今この瞬間も《読者》という存在が、私を見ているのだろうか。


 いや、主人公であるルシアの物語を追っているのかもしれない。

 でも、どちらでもいい。


「……もう、あなたたちの思惑には乗らない。私は、《悪役令嬢》の役を降りさせて頂くわ」


 《読者》という神に等しい存在を思い、私は窓枠を掴む手に力を入れた。

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