第34話 たとえ俺の心が壊れてしまったとしても

 部屋の中で一人、ベッドに寝転んでいた。


『たかし。本当にあれでよかったの?』


 フェルが頭上で語りかけてくる。


「仕方ないだろ。穂花ほのかを救うためには、ああするしかなかったんだ」


 実際には他にも方法はあったかもしれない。だけど俺が思いついた手段はあれだけだった。穂花を救うためには少なからず犠牲を払うしかなかった。

 劇をぶっ壊して穂花に自信を喪失させるという方法も考えなくはなかったけれど、そうすればクラス全員の時間を大きく書き換える事になる。他に手段がなければそれも考えるけれど、出来れば俺と穂花の二人以外の時間はなるべくなら変えたくはない。


 これが吉と出るのか凶と出るのかはわからない。もはやその点については三日後のオーディションが始まるまで待つしかなかった。

 そうして思いにふけっているところに、ノックもなしにドアが開く音が響いた。


「お兄ちゃん、なんで後夜祭にいってないの!?」


 現れたのは妹の結依ゆいだった。


「なんでって。そろそろ帰ろうって話になったからだな」

「ええー!? せっかくなんだから後夜祭に誘っていけばよかったのに。お兄ちゃんの学校では後夜祭で一緒にいた二人は必ず結ばれるんでしょ。ボク、きいたことあるもん」


 結依は驚いた声を上げると、それからつかつかと俺の前まで歩み寄ってくる。


「ま、そういう雰囲気でもなくなっちまったからな」


 俺はぶっきらぼうに答えると、そのままベッドの上で結依へ背を向ける。

 あまりこれ以上、穂花の事で会話を続けていたくはなかった。

 しかし結依はそれでは収まらないようで、俺の背中越しに言葉を投げかけてきていた。


「お兄ちゃん。ほの姉に何かしたの。もしかして無理に迫って嫌われたとか。いや、お兄ちゃんにそんな度胸ある訳ないからそれはないか」


 一人で勝手に納得すると、結依はさらに俺へと詰め寄ってくる。


「ほの姉に何したの。何か機嫌をそこねるような事いっちゃったの?」

「……ま、そんなところかもな」


 結依の問いかけに否定しないで答える。

 実際かなり近いところはあるだろう。


 穂花の夢を否定した訳では無いけれど、後押しせずにやめた方がいいと答えたのだから、穂花にとっては辛い一言だったに違いない。

 穂花を傷つけたくなんてなかった。だけど傷つけずにいることは出来なかった。


 仕方が無い事だったんだ。あれは。

 自分に言い聞かせるが、ただどこかぽかんと穴が開いた気もしていた。


 あれだけ近づいたような気がした文化祭の一日が、ただ穂花を悲しませて終わった事に胸の中が空っぽになったような気がする。そうするしか仕方無かった。そうしたい訳では無かった。だけど。頭の中がぐちゃぐちゃで考えがまとまらない。


「もうお兄ちゃん、ちゃんとこっち向いて話してよ」


 結依が俺の体を無理に自分の方へと向かせようとする。

 だけど俺はかたくなに結依の方を向こうとはしなかった。


「お兄ちゃん、もう。ほの姉にいったい何をしたのさ。ボクに話してみてよ。内容によってはボクがとりなしてあげることもできるかもしれないし」


 結依はため息をもらしながら俺の体を揺らしていた。

 しかし結依に本当の事を話す訳にはいかない。この後穂花が事故で死ぬのを防ぐために穂花の夢を否定したなんていっても、信じられる訳はないし、信じてくれたところで何をしようもない。


「仕方なかったんだよ、あれは。俺だってそうしたかった訳じゃなかった」


 答えようがないから、そう答えるしかなかった。

 今の気持ちを理解できるのはフェル以外にはいないだろう。そういう意味ではフェルがいてくれるだけ、俺は救われているかもしれない。

 ただ結依にはそれで通じるはずもなかった。背中越しに非難の視線を感じていた。たぶん訝しげな目をしてこちらを見つめているだろう。


「それじゃわかんないよ。ボクにもわかるように教えてよ」


 結依は俺の体を揺らしながら食い下がる。

 こうなると結依はしつこい。たぶん何かしら答えるまで諦めないだろう。だから仕方なくかいつまんで答える。


「穂花が夢を語って、俺はそれを素直に応援する事ができなかった。それだけの話だよ」


 淡々とした口調でつぶやくように答える。

 いくら穂花と結依が親しい間柄とはいえ、夢の内容を勝手に語るのはマナー違反だろう。だからこれ以上の事は言えなかった。ここまでの話だって本当はすべき内容じゃないかもしれない。だけど結依はこうでも言わなければ諦めないだろうから、最低限話せる事だけ話す。


「ふーん。つまり、ほの姉が遠くにいってしまいそうで焼き餅焼いたんだね」


 結依は急に納得した様子で独りごちると、それから俺の頭をくしゃくしゃとなで回した。


「お兄ちゃんはやっぱりへたれだね。よしよし、ボクが慰めてあげよう」

「いらねぇ」


 ため息と共に答える。

 あながち結依の言っている事も間違えてはいない。穂花がどこかにいってしまったら嫌だという気持ちは正しい。

 ただ結依が思っている遠くと俺の思う遠くが、いまは遠く離れてしまっているだけだ。


「でもまぁ、ちょっと驚いたかな。それはお兄ちゃんっぽくはないよね。お兄ちゃんならほの姉のことなら何でも応援してそうだし」


 結依は少し何か考えているようだった。


 実際何もなければ結依の言う通りに、何であったとしても穂花の事を応援していただろう。だけど穂花を応援する事が穂花の死につながるのであれば話は別だ。

 穂花が何よりも大切だから。穂花の意思を尊重するよりも、しなければならないことがある。それで例え穂花を傷つけて、穂花に嫌われてしまったとしても。


 本来の時間であれば一緒にいたはずの後夜祭にも向かう事はなかった。いまこうして結依と話しているのも、もっとずっと遅い時間のはずだった。

 それはかけがえのない時間で、俺にとって穂花との距離を縮めた優しい時間だった。


 だけどその時間はもう戻ってこない。戻す事はできない。

 穂花を救う。それだけが今の俺にとっての全てだった。

 だからこれで良かったんだ。こうするしかなかったんだ。俺は自分に言い聞かせるように声には出さずにつぶやく。


「ねぇ、お兄ちゃん。もしかして泣いてるの?」


 背中からかけられた声に、思わず自分の顔に手をやっていた。

 その手が涙で濡れるまで、気がついていなかった。自分が涙をこぼしていた事に。

 泣いているつもりはなかった。だけどこぼしてしまっていた涙に、慌てて顔をぬぐう。これ以上、妹に格好悪いところは見せられなかった。


「そんな訳あるわけないだろ。ちょっと目にゴミが入っただけだ」


 苦しい言い訳。

 だけど結依はこれ以上、俺に言葉をかけてこなかった。

 ただ俺のベッドのふちに座って、何も言わずにそこにいただけだった。

 背中越しで見えないから、結依がどんな表情をしているかはわからない。へたれで泣き虫な兄をもって、呆れているのかもしれない。


「お兄ちゃん。ボク、何でも協力するからね。何があってもボクはお兄ちゃんの味方だから」


 何を思ったのか、結依は優しい声で俺に告げるともう一度俺の頭をなでていた。さっきよりもずっと丁寧な手つきだった。

 妹にまで気を使わせてみっともねぇと思うが、こぼれだしていた涙は止まらなかった。止めようとしてもあふれ出して、いつまでも流れ続けていた。


 妹の前で格好悪いと思うけれど、俺はそれでも涙を止められなかった。ただ穂花に背を向けたまま、だだこらえきれなくなった気持ちをあふれ出していた。


 結依はこれ以上は何も言わずそのままに部屋から出て行く。たぶん一人にしてくれているのだろう。


 いまこぼれている涙が何に対してのものかわからなかった。

 穂花に嫌われてしまったかもしれないからか。これで穂花を助けられるかもしれない安堵の心ゆえか。それとも無くしてしまった時間を悔やんでいるからか。


 だけどたぶん涙をこぼしていたのは、この時の事だけではなかっただろう。繰り返してきた穂花を救うための時間。穂花を何度も失ってきた記憶。穂花を救うために払う犠牲。その全てが俺の上に重くのしかかってきて、もうここに貯めきれなくなったのだろう。


 何度も何度も何度も穂花を失ってきた。穂花を救えるなら、他の事なんてなんてことはない。それなのに俺の心の中には数々の想いが浮かんでは消えて、自分でも何を思っているのかわからなかった。


 願わくばこの選択が穂花を救ってほしい。

 もういちどこの時間を繰り返したくない。

 だけどもしもこの選択が間違いだったとしたら、俺はまた時間を巻き戻すのだろう。

 何度でも何度でも。たとえ俺の心が壊れてしまったとしても。

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