天鳥 SS集

雪乃瀬 茸

自分の本当の感情は…

 自分しかいないおなじみの研究室はいつにも増して静かだ。いつもであれば紙に摺れる筆の音が絶えず鳴っていたがここ数日はそんな様子はなく、カチカチと進む時計の針に合わせるように一定のリズムで細い指が机をたたく音しか聞こえてこない。

 心ここにあらず。他人から見れば自分はそんな言葉が似合っている状態であった。


 こんな状態になった原因は数日前。

 同期であり、少し前までは同じ部署で働いていた香宗我部 合々馨こうそかべ りりかからの告白。クリスマスにあるダンスパーティーへの誘いと共に告げられた言葉、あの表情がどうしても頭から離れてくれなかった。

 何時から?そもそもなぜ自分なのか。そんな疑問が浮かんでくるもその回答と彼女からの好意に対する返答は未だに目の前に広げられた祓用の設計図と同じように白紙だ。いつもであればあふれんばかりのアイデアを出してくれる脳みそさえ今回ばかりは無理だと音を上げた様に動いてはくれない。

 無理もない。自分に対して嫌悪を向ける人は居れども好意を向ける人なんて存在するとは思ってもいなかったから。



 ──ああ、本当に気持ちが悪い。

 ──この■■■が……



 思い出したくもない言われてきた言葉が聞こえてきたような気がした。


 多少しか感覚を感じることのできない左手に触れた。ひどく爛れた皮膚の感触が一枚の布越しでも伝わってくる。これと額の傷のせいで今までどれだけ傷つけられてきたか。

 もしかしたらこんなひねくれた自分だ、他にも言われる理由はあったのかもしれない。嫌われる理由も同様に。

 それでも長年言われ続けてきた言葉は深い苦しみの海へと沈める為の重りや人の視線に対する恐怖を植え付けるものとしては十分過ぎた。

 罵りも、ただの自己満足でしかない吐き気のする憐れみも全て無くしたいが為に見せないように隠してきたのだった。そして、表向きでは自分からは他人に対し興味がないと見せるように好きな研究にのみ目を向けて来たのだ。

 

 そう決めて生きてきたのにあの日、綺麗に流されてしまった一筋の涙で心はこんなに乱されてしまった自分。


「他にもいい人がいる。だから諦めてほしい」


 そんな返答が浮かぶも彼女の前に行けば口が動くだけで声には出ないのだろう。その理由だけはわかりきっていた。

 自分自身も心の中では彼女との関係を心地よく思っていたから。例え酷い言い合いだったとしても話している時間は大変有意義なものだった。内心嫌われているんだろうなと思いながらも好きな内容を話し合える良き同僚とも見ていた。

 先ほどの返答はそれらを全て壊してしまう。更に最後に差し伸べられた手を振るい払ってしまうようで、それはひどく恐ろしい事の様な気がした。そうだとしても覚悟も、他の回答も見つからない自分。何とも情けない限りだ。

 相変わらず部屋に時計の針の音は響いている。時間は刻一刻と進み続ける。自分自身が彼女に対して思っていることは……




 12月24日。あの日と同時刻。

 約束の通りホールの前で彼女が来るのを待つ。着慣れぬ服装にいつもとは違い目元が見えるように整えられた前髪が気を落ち着かせてくれない。心臓もひどく音をたてている。必死に落ち着かせようと息を吐いた。

 

 足音が近づいてくる。その方向を見ればドレスを身に包んだ香宗我部が立っていた。前も思ったが恋という効果によるものなのだろうか、少し染まった頬と静かに揺れる月と同じ色をした瞳をこちらに向ける姿は戦場を駆け抜ける戦士とはかけ離れてただの乙女と同じだ。きっと自分の頬の少し染まってしまっているだろうが。

 ほんの数秒だろう、何もお互い言わず見つめ合うような形だったが自分から話を始める。


「香宗我部、この間の問いへの回答……俺がこの場に来たことと『これ』が返答だから」

 彼女にあるものを差し出す。

 真っ赤な一輪の薔薇。

 今回のダンスパーティではこれが躍るパートナーがいるという証になるらしい。それ以外の意味もこもっているが伝わるかはわからない。自分には「好き」や「愛してる」という言葉はまだ恥ずかしく伝えられなかった。

 ただ薔薇を渡すという行為だけでも顔は熱を帯び、とても熱い。普段出すことの無い感情を表すというのはここまでも緊張することなのか、差し出す指の先から中心である心臓までもが燃えているようだ。


 彼女の指先が手に触れた。そのまま薔薇を受け取られ、静かに、涙を湛えた瞳で微笑まれる。


「泣くなよ……」

 嬉し涙なのだというのは頭の中では分かっている。それでも目の前で泣かれるとこの間の事を思い出してしまう。よく泣かせる男になってしまっているようで何とも複雑だ。

「これは…別に……しょうがないでしょ!」

 自分の言葉に慌てたかのような反論が返ってきた。返答の仕方がいつもの勝気な感じに戻っている。その様子に少し安心した。

「落ち着いたらホールの方に行くぞ。踊ったりするんだろ」


 うん、わかった。という返事と共に左手を握られる。いままでであればやめろと振り払っていただろう。それでも今日のこの時は、彼女の温かさが心地よく、不思議と嫌ではなかった。

 

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天鳥 SS集 雪乃瀬 茸 @yukinose-kinoko

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