第9話 アンコウ扱いされているの!
金属がなめらかに滑る音がする。すぐ近くで音がする。聞き慣れた音は優希を眠りの深淵から押し上げていく。
(なんの、音?)
優希はうっすらと瞼を開ける。どこか身体周りがきつく、手足が動かせない。また平衡感覚が身体向きを横ではなく縦だと知らせてくる。
「んんっ!」
意識を完全に取り戻した時、優希の身体は巻き付いた布団のまま縦に吊されていた。
どうにか頭をもがき動かし視界を確保せんと首を亀のように伸ばす。
そして飛び込んできた光景に絶句した。
「なによ、これ……」
現在地は薄暗くとも間違いなく食堂の調理場。優希は布団に巻かれた格好で吊されている。まるで捌く前のアンコウのように。
「アヤメおばあさん!」
すぐ側で流し前に立つアヤメおばあさんが何かしている。
薄暗い中、目を凝らしてみれば包丁を研いでいた。
何度呼びかけようと、耳が良いはずなのに届かず、どうにか動かした首で周囲に助けを求める。
「すいませ~ん、これ何の冗談なんですか! 降ろしてください!」
呼びかけようと誰も彼もがフラフラと夢遊病者のように食堂内を闊歩している。
ボケるのには早すぎであり、寝ぼけるにも多すぎる。
包丁を研ぐ音が止む。アヤメおばあさんは入れ替えるように手勺を掴めば、ゆっくりと優希へ振り返った。
その割れんばかりの笑顔は目や鼻より流れ出る血で染まっていた。
「う、嘘、何で、どうして、さっきまで普通だったのに!」
衝撃は重く優希は足をばたつかせてパニックを起こす。
もし仮に、万が一にも龍夜がこの場にいたならば、原因を即座に看破していただろう。
誰も彼もが死に至ろうと、死霊になったことさえ自覚していない個体であると。
意識もあり言葉を発しているのも、肉体の記憶から再現しているにすぎぬと。
時間と共に記憶は潰え、死霊としての貪欲な本能が覚醒する。
生者の血肉を貪り喰らう底なしの本能に。
当然のこと、優希に看破できる知識も脱する術もない。
「いや、冷たい!」
アヤメおばあさんは水の張ったバケツから手杓子でくみ取れば、容赦なく優希の頭からぶっかけた。
一度だけではない。何度も何度も、頭の先から布団の中までぐっしょり水浸しになるまで。
「も、もしかして私、アンコウ扱いされているの!」
水濡れと怖気が優希から体温を奪う。
アンコウといえば茨城県大洗町を代表する冬の味覚である。
西のふく(※山口ではフグをふくと呼ぶ)、東のあんこうと呼ばれるほど大変美味であり、骨、アゴ、眼球以外は余すとこなく食べられるほど。
特にあん肝は海のフォアグラと呼ばれ、江戸時代では、五大珍味、三鳥二魚(つる、ひばり、ばん、タイ、アンコウ)に数えられる。
身は淡泊であり、鍋だけなくからあげもお勧めだが、大洗地方では酒の肴として供酢と呼ぶ料理もある。
身、皮、胃、肝臓、卵巣、えら、ヒレとアンコウの七つ道具と呼ぶ各部位を利用した地元で馴染み深い料理である。
深海魚であるアンコウの皮はぬるぬるとしており、身が柔らかい割に大きく、まな板の上では捌きづらい。
そのため大きなフックを口に刺しては体を吊し回しながら捌く、吊し切りが一般的な方法となっている。
吊すことで自重で下に引っ張られ、胴体に張りが出て切りやすくなる。
その際、アンコウの口から水を流し込むことで胴体を膨らませ、強く張りを出して捌く方法がよく用いられていた。
「あ、アヤメおばあさん、やめて、やめてったら!」
まず最初に両側にある大きなヒレを切り落とします。
次にぬるぬるとした皮を剥がします。
特にこの皮がコラーゲンたっぷりで格別だとか。
その次に切るのは口下部を切ればあるエラが現れるので切り落とします。
「ひっ! ふ、フトンの綿が!」
エラなんて普通の魚なら食べられないので捨てますけど、アンコウのエラは希少部位なのです。
腹より取り出すは一番人気の肝。まさにアンコウの
肝臓、心臓、卵巣を順次取り出せば、アンコウは身と骨だけの状態となります。
続いては身。背骨に包丁を入れては身を切り落とします。
「んっ! んんっ!」
フトンの綿という綿は取るに取られ、制服一枚で生地に巻かれた優希が吊されるのみ。
脇の下から汗が流れ、動悸が激しくなる。
足掻き藻掻こうと、調理の刃から逃れられず、今まさに刃先が制服の生地に迫る。
「クッソ、ここもゾンビだらけかよ!」
前触れもなく食堂の扉が倒壊音と共に外から開かれる。
苛立ち宿す男の声と複数の靴音は響き渡る銃声にかき消された。
「痛った!」
薄暗き室内にけたたましい音と閃光が瞬き、優希は唐突にフックのつるし上げから解放される。
床に尻餅ついた衝撃でフトンの拘束が緩んだのを逃さなかったのはもはや本能。
怖気に身を震わせながらも必死の形相で戸棚の中より調理器具をかきだせば空いたスペースに身を押し込ませる。
中に残っていたフライパンや大鍋を引き戸側に押し込み、バリケード代わりにした。
後はもう胎児のように身体を丸め、被弾せぬよう祈るだけだ。
(な、なに、なんなのよ!)
銃声は鳴り止まない。鳴り止まぬ中、優希は自問を繰り返す。
(救援なの! でも銃とか映画じゃないし! まるでゾンビが出ると分かっていたような!)
島に銃を持つのは警察官だけ。猟友会などいやしない。
銃声が止む。止むも次いで男たちの怒声が響く。
必死に目をつむる優希だが会話はイヤでも耳に入ってくる。
「くっそ、頭撃っても死なないゾンビとか話が違うじゃないか!」
「ここは二階だぜ! ならゾンビどもを下に落として弾を節約しろ!」
「なら、俺たちが引きつけるから今のうちに冷蔵庫から食料を確保しな!」
「言われなくてもそうするっての!」
「他のチームの奴ら、どこいるんだ。連絡してくれっての」
「島田さんだってそうだよ。ホント、どこ行ったんだんだ。美味い仕事持ちかけといて連絡してこねえなんて、連絡にうるさいあの人らしくねえ」
「さてね、あの人、この島のでっかい家で一仕事あるとか言ってたし」
「別のでっかい家から回収したハードディスク、島田さん、絶対に必要だから自分に手渡すようにとかきつく言っといて連絡なしなんて酷いぜ!」
「あの人しか、この帳から脱出する手段知らないのに!」
「離せよ、くそばばあ、ああ、畜生が、噛まれた!」
「噛まれた程度でギャーギャー言うなよ。ゾンビ化の原因はウィルスじゃねえんだ。死んだらゾンビ化する呪いみたいなもんだから、死なない限りゾンビ化しないって島田さんが言ってただろう」
窓ガラスの割れる音と鈍い打音が幾重にも響く中、否応に聞こえてくる男たちの会話。
(でっかい家? 帳? ハードディスク? ゾンビ化する呪い?)
男たちは何かを知っている。島民として、生きている人間として今すぐ飛び出し接触すべきか逡巡する。
二の足踏む理由は、男たちの声音に軽薄さがあり、いまいち信用に至らぬ匂いがあるからだ。
(まるで一方的にデートをセッティングしてくる白狼みたい)
打音は潰え、次いで冷蔵庫を漁る音が響き出す。
「おうおう、食堂だけに食い物に水とてんこ盛りだ!」
「やっぱ、ここに来て大当たりだったな」
「できるだけ干物とか日持ちが効くものを選べ、刺身とか食えたもんじゃねえぞ」
「生ものでも薫製にすればいいだろう」
「薫製にする手間暇があると思うな」
優希が隠れる戸棚に気配が迫る。
男たちの足音が嫌にも心臓の鼓動を加速させる。
恐怖のあまり叫びそうになるも歯を食いしばって耐える。
開けるな、開けるなと念じるも戸棚は外から開かれた。
「おいおい、そこは鍋とか入れる棚だろう」
「案外、隠しアイテムあるかもしれないぜ」
戸棚は開かれ、外気が入り込む。
優希の瞳孔は開き、怖気が汗と共に流れ落ちる。
もし見つかれば引きずり出され、ゾンビとして殺されるか、あるいは女であるのを理由に――
そこから先は考えたくないと喉を振るわせ、目を強く瞑った。
ただ祈った。祈るしかなかった。
――気づかないで。
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