第60話 決意の芽
60話 決意の芽
「じゃあ、私はそろそろ仕事に行くとしよう。太一、急に押しかけて本当にすまなかったな」
翌朝、十時。三十分前に一人起床した太一に起こされ、急いで支度をしたすみれはスーツに着替えて玄関に立っていた。
「全くだ。次からは来る前日くらいまでには連絡入れてくれよ?」
「お、もう来るなとは言わないんだな」
「……まあ、幽霊さんが姉ちゃんのこと気に入ったみたいだし」
初めはすみれに何をされるのかと怯え、震えていた幽霊も今では寂しそうな顔をして見送りに来ている。お風呂の中、脱衣所、深夜の台所前で二人がどのような会話をして親睦を深めたのかは太一の知るところでは無いが、少なくとも幽霊がすみれに懐いたことはすぐに分かった。
「すみれさん、もう行っちゃうんですか……?」
「ああ。すまないな、この後はお昼から仕事だ。取引先に媚を売って私の売り上げ成績を増やすカモにしなければならない」
「いやカモって……」
よしよし、と幽霊の頭を撫でるすみれの発言に昔から変わっていないという感覚を覚えながら、太一は小さく息を吐く。
すみれの売り上げ成績。どうせ聞くまでもなくその数値は驚くべきもの。昔からその天才っぷりを見せつけられてきた太一には、そのことはよく分かっていた。取引先の人は多分……いや、ほぼ確実にすみれで言うところの「カモ」になってしまうことだろう。
「そうだ、太一。最後にお前には一つ伝えておきたいことがあってな」
「なんだよ。絶対ロクなことじゃないだろ」
「ふふっ、まあそう言うな。ほら、耳を貸せ」
「ったく……」
猛烈に嫌な予感がしながらも、太一は逆に逆らった方が面倒になることを知っているため簡単に言うことを聞く。そうして言われるがままに貸した耳にすみれはそっと口を近づけ、言った。
「幽霊ちゃんとのこと、私は応援しているからな。この家での挙式、楽しみにしている」
「っ!?」
挙式。すなわち、結婚式のことだ。この家での、というのは幽霊がここから出られないことを知っているからこその発言だろう。
この家に来てすぐの頃は太一から幽霊を奪い取らんばかりの勢いだった彼女の予想外の言葉に、太一は簡単に見て取れるほどの動揺を見せた。
「すみれさん? 一体太一さんに何を?」
「内緒だっ。幽霊ちゃん、私はしばらく仕事でここには来れないだろうけど、出来るだけ早く戻ってくる。だから────」
次は幽霊に、と。無防備な小さい耳に手を当て、そこに口を近づけたすみれは小さな声で、太一にした時と同じように耳打ちをする。
「私が戻ってくるまでに、思い出話を溜めておいてくれ。たーっぷり、聞かせてもらうからなっ」
「はぅっ!?」
「姉ちゃん、幽霊さんに何を!?」
「あはは、二人は本当に似たもの同士だな。まだまだ子供で可愛がり甲斐があるよ」
長い髪を靡かせ、凛とした雰囲気で小さく微笑む彼女に、二人は目を奪われる。でもすぐに自分を吸い込まんばかりに深く、澄んだ瞳と目が合わさった瞬間に気恥ずかしさで目を逸らした。
「じゃあな、二人とも。達者でやるんだぞ」
午前十時五分。こうして二人にとっての台風の目は家を去り、地味な住宅街の曲がり角の先へと消えていった。
一人の少女に、″決意の芽″を残して。
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