エレーニ・ゴレアーナ(二)

 鹿しゅうかんの前で象から降りた東州公[エレーニ・ゴレアーナ]を、公女[ハランシスク・スラザーラ]とサレが出迎えた。


 この日、公女は自ら、目のふちに紅をひこうとしてタレセ・サレに止められたり、常日頃は衣服に無頓着なくせに、「この服装で大丈夫だろうか」とサレにたずねたりと、常とはちがった様子を見せていた。

 衣服などは暑さ寒さをしのげればそれでよいという考えをサレはもっていたが、その日の公女の姿は、だれに見せても恥ずかしくないものに見えたので、思ったままを口にした。

 それに対して公女は、「おまえの言葉はあてにならんからな」と緊張した面持ちで答えた。


 着飾った公女はなかなかのものであったが、とにかく、相手がわるかった。

 象から降りて来た東州公が、公女とサレに近づくと、場が妖艶な空気に包まれた。

 東部州の民などは、東州公の姿態を蜜蜂にたとえていた。実態はそのようなかわいいものではなく、馬をも殺す雀蜂だったが。


 東州公は右目が斜視であった。しかし、それが美貌を損ねることはなく、逆に、霊妙な、犯しがたい雰囲気を彼女に与えていた。

 その斜視で睨まれると、彼女の家臣たちは石と化し、その場から動けなくなるとうわさされていたが、会ってみると、サレにもその意味するところがよくわかった。


 直立不動のままのサレに対して、公女は平気なようであった。

 他人に頭を下げることに慣れていないので、作法こそぎこちないものであったが、めずらしく声をはずませながら、「お従姉ねえさま、お久しぶりです」と東州公に声をかけ、彼女に近づいた。

 すると東州公は、すこし難しい顔をつくったのち、「相変わらずだな」と公女の頬に手をそえた。

 ゴレアーナ家の家長ごときが、気軽にスラザーラ家当主の体に触るなど、不遜な行いではないかとサレは思わないでもなかったが、公女が喜んでいたし、なにより東州公が恐ろしかったので、何も言わなかった。


 東州公が象に顔を向けて、「どうだ、すごいだろう」と涼やかな声で言うと、公女が「はい。とても大きいです」と言いながら、隠し持っていたりんを手に、巨獣へ近づこうとした。

 それをサレは右手で制し、「おけがをなされたらどうするのですか」と公女をたしなめた。

 つづけて、公女へ鼻を近づけていた象をサレがひとにらみすると、獣は怯えたのか、その鼻を下へ垂らした。

「あのようなかわいい瞳をした動物が危険なわけはないだろう」

 そのように公女があながって来たのを、「獣というのは、だいたい、このような目をしているものです」とサレはあしらった。

 ふたりのやりとりを見て、「相変わらずの甘やかしぶりだな」と、東州公が鼻で笑った。


 サレの腕越しに象を観察している公女に向けて、東州公が「欲しいか?」と笑いながら言うと、公女が目を輝かせて、「いただけるのですか?」と応じた。

 公女の反応を受けて、サレが冗談ではないとばかりに東州公へ抗議した。

「このような食費のかかりそうな獣をお譲りいただいても困ります。そもそも公女は、来年、近北州へ下向されます。この生き物は寒さに耐えられるのですか?」

 サレの言に、「主と同じで、冗談の通じない男だ」と、東州公が声を立てて笑った。

「この象は、お母上を亡くされたばかりの幼主[ダイアネ・デウアルト五十六世]さまをなぐさめるための貢ぎ物だよ」

 東州公の説明を聞き、サレは心底安しんそこあんしたのちに、このような生き物を押しつけられる鳥籠[宮廷]に同情した(※1)。


 鹿集館の庭は、公女のおもちゃが占めていたので、象は通りで待たせることにした。たとえ、コステラの模型を置いてなかったとしても、不浄な動物を邸宅内に入れるつもりなど、サレにはなかったが。

 象は東州兵が見張っていたが、こちらからも人を出した方がよかろうとサレは考え、近くにはべっていたオントニア[オルシャンドラ・ダウロン]を呼んだ。

 すると、東州公がオントニアを知っていて、「いまの実入りの三倍を出すから、我が州に来ないか」と、つまらぬ戯言ざれごとを口にした。

 それに対して、オントニアが「七州広しといえでも、わたくしを扱えるのはノルセン・サレだけでございます」と答えたところ、「殊勝なことだ」と東州公が彼を褒めた。

 サレにしてみれば、オントニアは事実を述べただけなので、なにも殊勝な話ではないように思われた。


 館内へ入ることになった際、「ノルセン、遠くから写生をするくらいはいいだろう?」と公女が駄々をこねたので、「危ないからだめです。そういうことは義姉あねうえにやらせてください」とサレは応じた。

 「タレセはけがをしてもいいのか?」と反論してきた公女の言葉を、サレは無視した。


 館に入る道すがら、サレが東州公に恐るおそる近づき、「折り入って、ご相談があるのですが」と口にすると、「改暦の件なら、構わんぞ。すぐに進めろ。百姓どもが待っている」と返事があった。


「改暦の件につき、近北公[ハエルヌン・ブランクーレ]の前で、東州公の協力を求めると口にしておいて、もし、彼女が鳥籠側についたら、後の始末をどうつけるのだ、きみは?」

と執政官[トオドジエ・コルネイア]から脅されていたので、サレはひとまず安心した。

 改暦について、サレから相談を後回しにされた執政官は、改暦に消極的なこともあって、嫌なことのひとつでも言いたかったのだろう。


 東州公にサレが礼を述べようとしたところ、公が歩を進めたまま、次のように言った。

「しかし、もし、わたしが改暦に反対の立場をとり、鳥籠の側に回ったら、おまえはどうするつもりだったのだ。うわさほどの男ではないな、おまえは」

 右の斜視で射すくめられたサレは、心臓が止まるかと思った。

 サレが返答に窮していると、東州公が話をつづけた。

「しかし、まあ、専制君主に仕える身としては、その場しのぎの言葉を吐かねばならぬときもあるだろう。その点は、同情してやるよ……。百騎長、わたしはハエルヌンとはちがって、まだ、鳥籠には道具としての価値があると思っている(※2)。だがな、今回は鳥籠側につかない。なぜだか、わかるか?」

 何も答えないのはまずいので、サレが「民草のためになるからですか?」と応じると、「そうだな。どこかのだれかに言わせると、わたしはハエルヌンほどではないが、民思いの人間らしいからな」と東州公が嫌味を口にした。

 近北公と対峙しているときと同じ汗を背中にかきながら、サレが曖昧な返事をすると、東州公が「しかし、それだけではない」と言った。

「道具は自分の使いやすいように加工しないとな。摂政 [ジヴァ・デウアルト]はもうだめだ。さりとて、反摂政派は話にならん。しかし、どちらの派閥にも属さない者の中には、使える者が少なからずいる。改暦の件は、そのふるい落としになる」

 東州公の言に、「なぜ、そのような話をわたくしに?」とサレが疑問を口にすると、彼女は足を止めた。

「道具を私の扱いやすい形に変えるのに、百騎長に協力してもらおうと思ってな……。借りはしっかりと返してもらうぞ」

 サレが慌てて、「しかし、現在のわたくしは、近北公の家臣のようなもので」と言葉を返すと、東州公は冷めた口調で「その前に、ハランシスクの忠臣だろう?」と言い、つややかな口角をすこしだけ上にあげた。

「そのハランシスクが従姉上と慕う私の願いを、おまえはむげに断るのか。断れないだろう?」

 不敵な笑みを浮かべ続ける女性を前にして、「なんで、私ばかりがこうも」と、サレは自身の運命をのろった。



※1 このような生き物を押しつけられる鳥籠[宮廷]に同情した

 サレが関心を示さなかったため、以下の叙述には出てこないが、この象はみやこびとに愛された。しかしながら、都の冬の寒さに耐えられず、翌年早々に死んだ。


※2 鳥籠には道具としての価値があると思っている

 ブランクーレとゴレアーナは、まつりごとに対する姿勢がよく似ていたが、この時点で大きく異なっていたのが、宮廷に対する評価である。

 ブランクーレが、もはや権力の一勢力とは見なさなくなっていたのに対して、ゴレアーナはそのように捉えていなかった節がある。

 東部州が都から離れていたため、ゴレアーナは宮廷の実像や実力を見誤っていたのかもしれない。

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