再生(三)

 二月九日。前の国主[ダイアネ・デウアルト五十五世]の葬儀は執り行われたが、それぞれの事情により、しゅうぎょ使で参加できた者はいなかった(※1)。

 各州の代理者からの献金により、葬儀の形こそは、後世に長々と伝わるであろうと思われるほど、荘厳限りなかったらしいが(※2)、それに、参列者の顔ぶれが伴っていなかった。


 いちばんの問題は、スラザーラ家の当主である公女[ハランシスク・スラザーラ]が参列しなかったことであろう。

 当然、公女自身は欠席を決め込んでいたが、家宰でもあったサレが説得すれば出向いたかもしれなかった。

 しかしながら、鳥籠[宮廷]はサレとの交渉を嫌い、本人にとっては迷惑でしかなかっただろうが、前の家宰であった[オリサン・]クブララどのに話を持って行った。

 だれがどう考えても、もはや肩の荷は下りたと考えていた御老人が、公女を出席させるために動くわけもなく、結局、鳥籠は近北公[ハエルヌン・ブランクーレ]に泣きついた。

 そして、当然の帰結として、近北公からは「家宰のサレに話を通せ」という返事が返って来た。

 一体全体、当時の鳥籠には、愚者しか住みついていなかった。


 サレとしては、近北公から何も言われなかったので、公女が国主の葬儀に参列しようがしまいが、もはやどうでもよいことであった(※3)。

 ただ、鳥籠が頭を下げてきたら、話をきいてやってもよいと考えていたところ、どういうわけか、もはや「終わった」老人がしゃしゃり出て来たので(※4)、一切、参列の件には関わらないことにした。

 結果、ボルーヌ[・スラザーラ]の娘が、公女およびサレに断りなく、公女の名代として、葬儀に出席することになった。しかし、それは、近北公の機嫌を損ねたくなかった鳥籠としては、避けたい事態であったにちがいない。


 公女の欠席およびボルーヌの娘が名代を務めたことは、のちに、東州公[エレーニ・ゴレアーナ]に蒸し返された。

 東州公の難癖に対応している間、サレは近北公から責任を追及されるのではないかと怯えていたが、彼から叱責を受けることはなかったので、その点、深くあんした。


 二月九日の葬儀は、何事もなく終わった。

 部分日食は、てんしょう要諦ようていという本の中で(※5)、公女が書いていたとおり、二日後の二月十一日に生じた。



※1 州馭使で参加できた者はいなかった

 これは誤りで、近西州のウリアセ・タイシェイレは出席している。

 遠西州はゼルベルチ・エンドラが健在であったのならば、ブランクーレの意向により、葬儀への参列をきっかけとして、エンドラのせんしょうあつかいを解いていたであろうが、もはや彼に上京する体力はなかった。

 東南州のタリストン・グブリエラと東部州のゴレアーナは、東南州東管区をめぐる争いを理由に欠席した。両州の州馭使は代理として、それぞれの家宰を上京させたが、両家宰にとって、葬儀への出席は名目に過ぎず、入京の目的は停戦交渉にあった。

 近北州のブランクーレは豪雪への対応を理由に参列を断り、代理として、側近のモルシア・サネを出した。この人選の理由は明白で、彼が、東部州との外交に関わっていたためである。

 遠北州のルファエラ・ペキは、州内の内紛と豪雪に、自身の病気が重なり、上京は不可能であった。また、それらの問題がなくとも、近北州を通過することはむりだったろう。


※2 後世に長々と伝わるであろうと思われるほど、荘厳限りなかったらしいが

 サレは葬儀に出席を許されなかったので、叙述は伝聞の形を取っている。トオドジエ・コルネイアあたりから、様子を聞いたのであろう。

 上の記述は事実であり、デウアルト家全盛期の葬儀と比べても、遜色のない規模で行われた。


※3 もはやどうでもよいことであった

 ブランクーレは、東州公ロナーテ・ハアリウに高い忠誠心を示し、ハアリウ家と対立する権威として、デウアルト家を捉えていた節が見える。

 また、「デウアルトのそう」とうたわれた、アイリウン・サレとルウラ・ハアルクン、とくに後者は、主に対する忠誠心の高さを、後世から称揚されている。

 その彼らと比較して、本回顧録を通じて垣間見えるのは、他者への忠誠心が、サレの行動原理となっている事例の少なさである。

 もちろん、たびたび、ハランシスクに対して忠誠心を見せてはいるが、どこか打算的なものをおぼえざるをえない。なにより、騎士階級の出身として、デウアルト家に仕える身でありながら、国主に対する敬意は皆無に等しかった。

 結局、ノルセン・サレという人物は、お家大事の人間であったということであろう。

 しかし、サレのような価値観は、当時のいくさ人としては平均的なものであり、アイリウンやハアルクンが示した忠誠心の高さこそが、当時としては(そして現在においても)、異常なものであり、だからこそ、賞賛されたと推測することは、うがった物の見方であろうか。

 サレのデウアルト家軽視の姿勢は、父ヘイリプの影響が作用しているのはまちがいないが、それに彼の気質および経験が加わっていたのだろう。そもそも、デウアルト家による七州の統治が堅固であれば、自分が泥水を啜ることもなかったと、考えていたのではなかろうか。


※4 もはや終わった「老人」がしゃしゃり出て来たので

 葬儀が近づくと、宮廷内でも、サレを通じてハランシスクに出席を要請すべしという声が日に日に強くなった。

 そのような状況のなかで、スザレ・マウロが自発的に仲介を買って出て、委細は不明だが、スラザーラ本家と宮廷の仲をさらにこじらせてしまったらしい。


※5 天象要諦という本の中で

 諸外国の書籍および、七州の天文台から送られてきた記録をもとに、ハランシスクは天象要諦を記し、その写本を各地の学者に送っていた。

 その本の中で、日月食の推算にずれが生じていた、デウアルト太陰暦の問題点を指摘する一例として、二月十一日の部分月食について言及がなされていたわけである。

 書くまでもないが、天象要諦の執筆に関して、ハランシスクに政治的な意図は皆無であった。

 純粋に学術的な関心から、デウアルト太陰暦に触れただけであり、本の中で、改暦の必要性については一切触れていない。

 勝手気ままな暮らしをしていたハランシスクにとって、暦は生活にほぼ不要な存在であり、彼女自身は、正確な太陰暦など求めていなかった。

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