セカヴァンの戦い(五)

 セカヴァンでの「勝利」は、青年[スザレ・マウロ]派を勢いづけ、今の大公[マウロ]に我が世の春が訪れたような印象を、みやこびとへ与えた。

 実情は、二万数千の青年派が、三万余の近北軍を追い払うのに成功しただけだったが、徐々にうわさに尾ひれがついていき、少数の青年派が、多勢の近北軍に完勝したという話に変じていった(※1)


 近北州の兵がセカヴァン平原から去って行き、サレの命数も尽きたかに思われた。

 いつ、赤衣党がコステラ=デイラに攻め込んできても、もしくはコステラ=デイラの明け渡しを求められてもおかしくない状況であったが、それをバージェ候[ガーグ・オンデルサン]が救ってくれた。

 候は今の大公に働きかけて、サレによるコステラ=デイラの統治の継続を認めさせた。

 なぜ、候がそのような動きをしたのかについては、理屈としては簡単であった。

 近北公[ハエルヌン・ブランクーレ]と今の大公の間で中立を保ちたい候からすれば、コステラ=デイラの現状を維持することで、近北公に恩を売りたかったのだ。

 当然ながら、候は都のうわさなどには惑わさておらず、セカヴァンのいくさの事実、青年派は「勝った」が多数の兵を失い(※2)、近北州軍は「負けた」が、軍の損傷は回復が可能であったという観点から、両者の戦いがまだ続く、青年派にくみするにはまだ早いと、候は判断したのだろう。

 候のおかげで、コステラ=デイラは表面上、何事もなく新暦九八七年の年末を迎えられた。



※1 多勢の近北軍に完勝したという話に変じていった

 ウストリレ国の記録の中には、青年派五千が、近北軍十万を撃ち破ったと書かれているものもある。


※2 青年派は「勝った」が多数の兵を失い

 この点からも、マウロはガーグ・オンデルサンに譲歩せざるを得なかったのだろう。

 セカヴァンの戦いで兵を失ったマウロは、西南州の統治を維持するうえで、オンデルサンの兵を必要とした。

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