セカヴァンの戦い(四)

 十一月一日の早朝からはじまったセカヴァン平原でのいくさは、昼過ぎには終わった。数に劣る青年[スザレ・マウロ]派が勝った(※1)。

 その一報を聞いたとき、思わずサレは、自らの首を掻き斬ろうとしたが、オントニア[オルシャンドラ・ダウロン]に止められた。


 バージェ候[ガーグ・オンデルサン]の牽制を受けていた(※2)、緑衣党と赤衣党は、いくさ中、大橋を挟んで対峙するだけで、刃は交えなかった(※3)。

 青年派の勝利の一報が入ると、緑衣党はコステラ=デイラの防備を固め、次に起きる事態に備えた。



※1 数に劣る青年[スザレ・マウロ]派が勝った

 セカヴァンの戦いにおける、近北州側の指揮は、ハエルヌン・ブランクーレの寵臣であった、西管区長ザケ・ラミが執り、北管区長クルロサ・ルイセが中央、東管区長ルウラ・ハアルクンが右翼を担った。

 ラミは中央と左右の軍に、兵を均等に割り振り、兵力差を利用して、青年[マウロ]派の軍を圧倒し、包囲殲滅による完勝を目指した。それはブランクーレの望むところでもあった。

 それに対してマウロは、両翼を厚くして、左右の戦いで近北州軍と均衡状態を作り出している間に、中央へ配置した、少数だが、虎の子である最精鋭の古参兵を自ら陣頭指揮して、近北州軍の中央軍にぶつけた。

 ここで、ラミの取るべきであった戦法としては、いくさ慣れしており、マウロへの忠誠心も高かった代わりに、老兵の多かった青年派の中央軍を、むり攻めすることなく、いなしつづけて、その疲労を待つべきであった。

 しかし、大軍の指揮が初めてであったラミは、当初想定した兵力の優位さを利用した、速攻による包囲殲滅にこだわりすぎた。それに、近北州軍の中央を指揮していたルイセの不手際が大きく作用して、青年派中央軍の勢いに乗じた猛攻に押し切られてしまい、寡兵による中央突破を許してしまった。

 近北州軍から見て左翼の戦いも、いくさに不慣れなはずの義勇軍の活躍があり、青年派優勢に進み、近北州軍の左翼の中には、見苦しく敗走する者すら出る始末であった。

 近北州軍では、ただ、右翼のハアルクンのみが見事な働きを見せていたが、中央軍の混乱に巻き込まれ、その支援に兵を割きつつ、勢いに乗る敵兵をいなすだけで精一杯な状態に陥ってしまった。

 また、もう一策としては、技量的に問題のある義勇兵が両翼に配置されていたのだから、近北州軍において、精鋭が集まっていたハアルクンの右翼に攻撃の主軸を置いていれば、負けることはなかったと考えられる。これについては、多くの史家が言及している。

 以上、用兵の観点から、近北州軍の敗因を述べてきたが、数で勝る近北州軍が負けた最大の要因は、二つの不足、司令官としてのラミの能力と将たちの連携にあった。

 それについては、サレ宛ての書状にて、近北州で戦況を見守っていたウベラ・ガスムンが、端的に表現している。

「南下軍はとう(ハアルクン)に任せて、ハエルヌンたちは、私と一緒に近北州で戦勝を願っていればよかったのだ。へたに西せい(ラミ)やほく(ルイセ)に武功を積ませようとしたから、あのような結果になった。とくに、ハエルヌンが妙に張り切っていたのでいくさに行くのを止めはしなかったが、何かしらの理由をつけて、スグレサに留めておくべきであった」

 用兵上の問題点に加えて、いや、それ以上に、近北州軍にとって問題だったのは、ブランクーレの最高指揮官としての判断にあった。

 全軍の用兵はラミに委ねられていたが、戦闘継続の可否の判断を下したのはブランクーレであった。そして、多くの史家が言及しているように、セカヴァンの戦いにおけるブランクーレの撤退の判断は早すぎた。

 用兵および指揮者の連携の問題で劣勢を強いられていたが、まだ兵数では勝っており、中央突破を図った青年派の中央軍と、ハアルクンと対峙していた左翼は、多数の死傷者を出していた。

 その状況下で、ブランクーレが撤退の判断をせずに踏みとどまっていれば、勝負はまだ分からなかったと考える史家が多数である。

 そのブランクーレが、敗北につながる撤退の決断を下した理由は、主に二点が考えられる。

一、ブランクーレの性向

 近北州内で英主であろうとしたブランクーレは、州民である兵の損失を恐れるきらいがあり、彼の指揮したいくさを分析した結果をみると、撤退の判断が早すぎると考えうるものが多い。

二、両軍の士気

 郷土を守るために戦う青年派兵士の士気が高かったのに対して、多くの者が、故郷を離れてまで戦う理由を見いだせないでいた、近北州兵士の士気は盛り上がりに欠けていた。

 ブランクーレが戦況を見て、撤退を判断し、近北州軍は「敗北」したわけだが、ハアルクンは、敗走する近北州軍に追撃をかけてこない青年派の様子をみて、即時の再戦による勝利の可能性があると考え、ブランクーレに上申した。

 もしも、この上申が通っていれば、青年派に勝つもしくは引き分けに終わる可能性も十分にあったと考えられるが、ブランクーレはハアルクンの言に従わなかった。この段階において、セカヴァンの戦いの勝者と敗者が決定した。

 話をまとめると、戦いの勝敗の要因は、青年派兵士の奮闘も大きかったが、それ以上に近北州軍の自滅、とくにブランクーレのいくさに対する姿勢に、その原因が求められるだろう。

 なお、いくさ中の判断もさることながら、戦後の処置においても、ブランクーレの対応には疑問が残る。

 歴史上の先人たちがそうしてきたように、戦況的には、勝利もしくは引き分けを宣言してもよかったところを、戦後訪れた青年派の使者に対して、自らの敗北を認めるような発言をし、外交を担当していたガスムンを憤慨させている。

 ブランクーレ自身が、青年派とのいくさに乗り気ではなかったために、上で述べてきたような行動を取ったのであろうか。

 それならば、いくさを避ければよかったようにも思えるが、彼の宿痾とも言える、近北州に対する過剰なまでの防衛本能から、勢い余って南下をし、セカヴァンの戦いを引き起こしたまではいいが、勝利に対する執念がわかずに、避けられた可能性の高い敗北を喫したか。

 敗北の一因となったルイセの指揮を、「部下が殺されてみなければわからないこともある」と、妙な擁護をしたかと思えば、右翼で奮迅の働きを見せたポウラ・サウゾに対して、「猪突猛進で味方の隊伍を崩した」と非難したりと、セカヴァンにおけるブランクーレの言動は、一軍の将として目に余るものがあった。


※2 バージェ候[ガーグ・オンデルサン]の牽制を受けていた

 マウロはセカヴァンに向かう際、オンデルサンに、都と「塩の道」の警固を指示した。この依頼は、中立にこだわるオンデルサンの立場を損ねなかったため、彼は喜んで引き受けた。

 その一環として、オンデルサンが緑衣党と赤衣党との抗争を認めなかったので、両党はその指示に従った。

 なお、マウロも、ハランシスク・スラザーラの権威を恐れてか、コステラ=デイラへの攻撃を控えるように、モウリシア・カストへ自制をもとめた。

 それに対してカストは、「喉に刺さった骨を抜き去る、千載一遇の機会を失った」と憤慨こそしたが、マウロの決定に逆らうまねはしなかった。


※3 刃は交えなかった

 和睦を破ること自体は何とも思わなかったであろうサレが、セカヴァン平原のいくさにあわせて挙兵しなかった理由は、人質として青年派に預けていたボドレ・ハラグの存在が大きい。彼の半身とも言えたハラグを、万が一にも失うわけにはいかなかったのだろう。

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