蜃気楼(二)

 六月初旬。

 サレは摂政[ジヴァ・デウアルト(※1)]の側近である[オルネステ・]モドゥラ侍従を尋ねて、鳥籠[てんきゅう]に参内した。

 訪問の目的は、なんえい府尉ふい任官の口添えをしてくれたバージェ候[ガーグ・オンデルサン]からの勧めで、摂政に任官のお礼言上をするためであった。

 とは言え、国叔(国の叔父)の尊号を持つ摂政と、南衛府尉にすぎないサレでは身分が違いすぎるので、直接、礼を言上することなどありえず、その側近である侍従に庭先であいさつをし、お礼の品を渡すものだと彼は思い込んでいた。

 しかし、その予想は外れ、侍従に先導されて、鳥籠の北東にある一室に通された。


 豪華にあつらえられた室内では、男が美男美女に囲まれて酒を飲んでいた。顔を見たことはなかったが、その男が摂政であることはすぐにわかった。

 サレが任官のお礼を述べようとしたが、それを摂政が手を横に振って遮ったので、お礼の品をとなりにいた女官に無言で渡した。

 その様子をながめていた摂政は、サレを近くに招いて坐らせると、自ら彼の盃を満たした。それからしばらくの間、摂政は雑談を重ねながら、その大きな黒目で、サレを値踏みした。サレも摂政の挙措から、今回の会合の目的を探ろうとした。


 雑談が一段落すると、摂政がけだるげに右手を挙げた。すると、それまでにこやかなにほほ笑んでいた男女は真顔になり、すみやかに部屋から退出していった。その間も、サレの一挙手一投足を見逃すまいと、うりざね顔の大きな黒い眼がサレを圧迫しつづけていた。


 広い部屋には、サレと摂政、それに若い女官がひとり残った。

 室内が静寂に包まれるなか、摂政が脇息にもたれながら、サレに下問した。

「ヌコラシ[・グブリエラ]の息子が、薔薇園[執政府]に対して、東南州州馭使の正式な任官を願い出て来たそうだ。近々、コステラ=ボランクに来るかもしれん。そうなったら、南衛府尉はどうする?」

 「いや、どうするもなにも」とだけしか答えられないサレに対して、摂政は言葉をつづけた。

「都中のだれもが知っている話だが、タリストン・グブリエラの父親と私は、各々の立場的にも性格的にもまったく合わなかった。……その息子はどうだろうか。私は奴の子というだけで虫酸が走るが」

「臣に国淑様のご心中は測りかねますが、ただ……」

「ただ?」

「東南公は、お父上の名前を使って、州内の旧勢力を弾圧しました。ということは、普通に考えれば、公のお立場として、旧勢力を保護されている国叔様と、親しくするわけにはいかないのではないでしょうか?」

「なるほど。それが、市井の裏側にも通じているという南衛府尉の回答か」

 摂政が注いだ酒杯を女官が盆に載せ、サレの前に置いた。

 サレは酒の色を確かめてから、一気に飲み干すと、摂政は含み笑いをした。

「そのように勢いよく飲めば、また、思いもよらぬことを口走るのではないか?」

 それに対してサレは、「私は酒に酔ったことがありませんので、そのようなことをご心配いただかなくても‥‥‥」と返答した。

「なるほど。そういうことか。なかなかの国士だな」

「酒に酔ったことはありませんが、己の若さに酔ったことはありました」

「いまでも十分若いではないか。うらやましいことだ」


 しばらくの沈黙ののち、言葉を継いだのは摂政であった。

「……ヌコラシの息子のな、東南公の任官願い。私は反対するつもりだ。私が反対するということは、国主もご反対なされるということだ」

 サレは困惑の表情を見せ、「それは……」と言いかけた。

「そうなるとだ。ヌコラシの息子は、公女[ハランシク・スラザーラ]殿に話を持って行くだろう。スラザーラ家の承認だけでも十分な権威付けになる。しかし、すると、あの子は自分で判断ができないから、今なら南衛府尉に任せようとするだろう。さて、どうする?」

「……公女様、現在のスラザーラ家の権威がどれほどのものか、お確かめになられるおつもりですか?」

「もちろん、その意味合いもある」

「……困りましたな。実際にそういう事態になっていなければ、何ともお答えのしようのないご下問です」

「正直なところ、どうなのだ。ヌコラシの息子に奪われたホアラな、取り戻す気はあるのか?」

「……戻りたい気持ちがないわけではありませんが。いまの境遇を捨ててまでとは思いません」

「……それが本心か。そうだったら、私は少し困るな」

 サレが侍女のほうを一瞥いちべつすると、摂政が「この女は大丈夫だ」と強調した。

「ホアラはわが父ヘイリプが代官として大公[ムゲリ・スラザーラ]様よりお預かりした土地ですから、私にその継承権があるかと問われれば、なるほど、理屈の上では東南公の言い分も理解できる部分はあります。父や兄にはわるいですが、私にはそれほどホアラに執着はありません。ただし……」

「何だ?」

「タリストン・グブリエラへの借りは、いつか返さねばならないと思ってはいます。……私もいくさ人ですので」

「そうか。……ところで、初めて会って、私のことをどう思った。市井の者は私のことを妖怪などと呼んでいるそうだが?」

 摂政の問いに「その通りだと思いました」とサレが答えると、女官が彼を凝視したのち、嬌声をあげた。

「正直、お味方にはなりたくありませんが、それ以上に、敵には……。すべてのお指図には従えませんが、それが公女様のためになるのならば、何事もご下命くださればと思います」

「七州の状況を見るに、公女殿のもとで政治的な中立を求めるのは難しいぞ。一番の不確定要素は近北公[ハエルヌン・ブランクーレ]だ。私から言わせれば、近北公こそが本物の妖怪だ。彼が動けば、公女殿のしたにいて、政争から逃れることは難しいぞ?」

「……大変申し訳ありませんが、おっしゃりたいことがわかりかねます」

「彼女を南衛府尉が守ってやれ、ということだ。政治的に無能力なあの子をな」

「なぜですか?」

「なぜ? 私があの子のことを嫌いではないからだ。南衛府尉から見ても、困った妹のようなものだろう?」

「それは恐れ多い話です。あちらのほうは、私を困った弟だと思われているようですが……」

 サレの言に摂政が一笑いした。

 そして、それが面会の終わりの合図であった。



※1 ジヴァ・デウアルト

 ダイアネ・デウアルト五十五世の女婿であるジヴァは、ムゲリ・スラザーラを陰から支え、その覇業を成し遂げさせた人物。

 東南州の上流騎士階級の出で、権力はあれど権威の足りないムゲリを助けたのが、権力はなけれども権威をもつジヴァであった。

 ジヴァの働きで、ムゲリは国主の勅令を盾に他州への介入を可能とし、ジヴァは傾きかけていたデウアルト家をムゲリの財力で立て直した。そして、それと同時にデウアルト家内での自分の地位を盤石なものとした。

 ムゲリに対してジヴァが成し遂げた最大の功績は、ムゲリと比肩する名声を得ていたスザレ・マウロを懐柔し、大公の同盟者、後には彼の家臣にしたことであった。

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