三巻(八九五年六月~八九六年六月)

第一章

蜃気楼(一)

 新暦八九五年晩春六月。

 老執政[スザレ・マウロ]は塩賊の大掃討に成功したことを足掛かりに、西南州内におけるコイア・ノテの乱後のごたごたを概ね収め、鳥籠[宮廷]の影響力を一定程度排し、権力の基盤を確立していた。

 都を中心に、西南州の治安は目に見えて回復され、大公[ムゲリ・スラザーラ]の操り人形に過ぎないと目されていた老執政は、みやこびとから、彼らのあるじのひとりとして認められた。


 もちろん、だれかが権力を握れば、それに反発する者たちが現れるのは政治の常である。

 老執政に対しては、その側近たちと折り合いがつかずに薔薇園[執政府]内で主流派から外れた刑部監殿[トオドジエ・コルネイア]、鳥籠[宮廷]の中では摂政[ジヴァ・デウアルト]、西南州西部で独自の勢力を築いていたバージェ候[ガーグ・オンデルサン]が主な政敵であった。

 そして、本来ならば両者の間で中立的な立場を確保したかったサレも、バージェ候に引きずられる形で、老執政の政敵たちの末端に加わることになってしまった。


 その老執政の政敵たちを驚愕させたのが、東南州の[タリストン・]グブリエラとの同盟であった。

 たがいに不戦を誓っただけならば、それぞれの州内の安定を狙っただけなので、驚くのに値しなかったが、彼らの同盟の目的は不戦を越えていた。


 老執政とグブリエラは合同して、近西州のケイカ・ノテ(※1)を擁するロアナルデ・バアニとラール・レコ(※2)に追い詰められていた、反ノテ派を救うための西征を志向した。

 その目的は、州内で自分と敵対する勢力に対して、自らの権威を高めるだけではなく、大公のあだを討つことで、その後継者たらんと欲するものであった。


 これは、その後のけいをみれば、実に愚かな選択であった。

 せっかく同盟を結ぶことでお互いの州内における権力基盤を強固なものにできたのだから、近西州の反ノテ派からの助力を求める要請などは無視して、その力をまずは州内の対立勢力に用いるべきであった。

 老執政とグブリエラは、事を進める順番を間違えた。そのために、政敵たちを州内から駆逐するのに失敗した。

 なぜ、ふたりは選択を誤ったのか。それは、近北公[ハエルヌン・ブランクーレ]が看破したとおり、彼らが理想主義者だったからだろう。

 ふたりは大公の意思を継ぎ、七州の統一を目指した。

 とくに老執政は執着した。それが彼の身の破滅、近北公との徹底的な対立を生んだ。


 他州がコイア・ノテの乱後の混乱から抜けきれぬ中で(※3)、南部州が先んじて安定を取り戻せるぎょうこうに巡り合えたのに、それを台無しにしたのは、老執政とグブリエラ、ふたりの愚か者のせいであった。



※1 ケイカ・ノテ

 コイア・ノテの嫡孫。新暦八九五年の時点では、元服をすませていない少年であった。


※2 ラール・レコ

 コイア・ノテの側近。名家の出。ノテの死後はバアニを軍事・政務の両面でよく支え、ともにケイカの州馭使擁立に奔走した。


※3 他州がコイア・ノテの乱後の混乱から抜けきれぬ中で

 八九五年六月時点の各州の状況は以下のとおり。


・東部州

 東部州はムゲリ・スラザーラに制圧されたのち、重臣のボンテ・ゴレアーナに統治がゆだねられた土地であった。

 下級騎士の家に生まれたボンテは人心掌握術に長け、旧勢力をうまく抱き込んでいたが、コイア・ノテの乱直後に病死し、これを見て旧勢力は蜂起した。

 それに対して、ボンテの後を襲った長女エレーニは、庶兄ゾオジと女婿オアンデルスンの二将を差し向けて鎮圧すると、その後、旧勢力に対して徹底的な弾圧を行うことに時間と労力を割いていた。

 エレーニの解決しなければならない問題は旧勢力の駆逐だけではなく、自治権拡大を訴えて、いくさも辞さない態度を示していた、東部の重要拠点ハアティムへの対応も求められていたので、州外の事柄に関与する余力はなかった。

 ハアティムには、七州全ての需要を賄えるほどの銅鉱が存在し、エレーニとしては確実に抑えておく必要があり、彼女自身は彼の地の自治権拡大を認める腹積もりであったが、女婿オアンデルスンを中心に反発する動きが根強かった。

 結果的に、東部州の内紛は長引くが、それはエレーニが旧勢力の徹底的な排除、言い換えれば自身の独裁権の確立を目指したためであった。

 コイア・ノテの乱後、東部州と東南州は、途中まで同じ工程を歩んだ。スラザーラの死により、彼が短期間に作り上げた体制の脆さが露呈し、重臣だった父の後を継いだ若き州馭使と旧勢力が争い、前者が優位に立った、ところまでである。

 しかし、その後、両者は別の道を歩んだ。

 優位に立った後も、東部州のエレーニが旧勢力への締め付けを緩めず、それを最優先課題として取り組んだのに対して、東南州のグブリエラは旧勢力の弾圧を中途半端にすまし、領外のホアラ、ついで近西州に目を向けてしまった。


・近西州

 ケイカ・ノテを擁するバアニとレコが反ノテ派(主にスラザーラ征服以前の旧勢力で構成)を追い詰めていたが、コイア・ノテの乱で負った傷は癒えておらず、慢性的な兵力不足に陥っていた。

 また、州内の治安の悪化がいちじるしく、とくに地方は統治不能に陥っていた。

 コイア・ノテの乱後、州馭使は、マウロが旧勢力に属する貴族を任命していたが、ノテ派、反ノテ派ともに受け入れず、近西州を追われて、執政府に待機していた。

 統治者不在の混沌とした状況が、マウロとグブリエラに、野心を芽生えさせたと考えられる。


・遠西州

 遠西州は西征軍を追い払い、表面上は、ゼルベルチ・エンドラによる我が世の春が続いていた。

 しかしながら、ゼルベルチの高齢化にともない、州内ではその後継者を巡る争いがしずかに進展していた。

 そのような状況に加えて、ゼルベルチの性向もあり、近西州の状況を静観するのみで、領土的な野心は示さなかった。


・遠北州

 遠北州は、前州馭使フファエラ・ペキから長子ルファエラへの代替わりが、近北州のブランクーレの妨害もあり、うまく行っていなかった。


・近北州

 近北州は、州馭使ブランクーレが、近北州と遠北州の州境にある、軍事上の重要拠点サルテン要塞を落とさない限り、州外には関わらないことを内外に明言し、病的なまでに徹底した反ブランクーレ派のあぶり出しへ、その精力をそそいでいた。

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