第7話 誘惑される男


 一日何事もなく退屈に過ぎ、定時に上がれるようだ。

 帰り支度をしていると、携帯が鳴った。

 見ると、見知らぬ番号だ。

 いぶかしく思いながら、何か情報提供かもしれないと思い、通話ボタンを押した。

「もしもし」

『捜査第一課の檜山ひやま刑事さんですね?』

 虫酸が走るような男の猫なで声だ。

「そちら、どなた?」

『カシマと申します』

 ありふれた名前だが、思い当たる顔はない。

「なんのご用です?」

『刑事さんにちょっとしたアルバイトをお願いしたくて。なに、刑事さんならどうってことのない、簡単な仕事ですよ』

「あいにくと公務員はバイト禁止なんだよ」

『ばれなきゃかまわんでしょう?』

 電話の男は嫌らしく、くっくと笑った。

「話にならんな。切るぜ」

『お金、入り用なんでしょう?』

 刑事はムッとし、

「うるせえ」

 と、通話を切ろうとした。

『一度こっきり、現場からある物を持ち出して渡してほしいんです』

 檜山は切るのをやめた。犯罪者の逮捕につながるかもしれないと判断したのだ。

「どこの、なんだ?」

『それは直接会って。今日はもう上がりでしょう? 向かいの神社で待ってますよ』

 返事も待たずに電話は切れてしまった。

「舐めやがって」

「なんです?」

 隣りの席の同僚が探りを入れるように訊いてきた。

「さあな。おおかた、刑事マニアの悪戯だろう」

 檜山は立ち上がると、「お疲れ」と、追求を逃れるように出口に向かった。


 署を出て、五車線の道路を渡り、歩道を少し歩くと、一段低くなった土地に、小さな神社があった。なんの神社か、信心のない檜山は知らない。路地のどん詰まりに隠れるようにあって、参拝する者もめったになさそうで、密会にはちょうどよさそうだ。

 歩道からコンクリートの階段を下りていくと、境内の広さには不釣り合いに立派な石灯籠に、寄りかかるように立っている男の姿があった。

 場所がら神職を思わせる上下白いスーツを着た、自分と同じ三十半ばから後半の、小柄な男で、オールバックの黒髪を首の後ろで結んで、尻尾を背に垂らしている。

『ここは稲荷神社だったっけか?』

 狐を連想させる、小狡そうな目つきをしている。

「やあ、来てくださってありがとうございます。お電話した花嶋かしまです」

 男は胸に当てた白いハットと共にお辞儀した。あらかじめ帽子をぬいでいたのは一応神社に礼を表してのことだろうか?

 境内に入ると、檜山は値踏みするようにじろじろ花嶋の全身を眺めた。

「やっぱり会った覚えはねえな。俺の名前と電話番号をどこで知った? あらかじめ言っとくがな、あんまりふざけたことぬかすと、少々痛い目にあってもらうぞ?」

「まあまあ、そう怖い顔しないで。蛇の道は蛇と言うじゃあありませんか。別にね、あなたでなくても、相棒の石岡刑事だってかまわなかったんですがね、ま、あなたの方が容易く話に乗ってくれるだろうと。だからそう怖い顔しないでくださいよ」

 花嶋は飄々とした体でしなを作り、檜山は嫌悪感をあらわにした。

「ま、ビジネスライクに行きますか。三日前に起こった……正確には五日前に起こって三日前に発覚した、青山町の学生の変死事件。あれ、もう自殺ということで決まりなんでしょう?」

 檜山の花嶋を見る目が油断ならないものに変わった。

「部外者に捜査情報は明かせないな」

「死んだのは市内のデザイン系専門学校に通う学生、菊田奏真、二十歳。

 顔面の皮をベリッと剥いだ異様な死体ながら、部屋に外部から何者かが侵入した形跡も、争った形跡もない。周囲や関係者の聞き込みで、菊田は死の数日前から明らかに様子がおかしかったと言う複数の証言を得、隣室の男性が死亡推定時刻に菊田の狂ったような笑い声を聞いている。司法解剖の結果は、死者本人が自ら顔面の皮膚を剝いで、失血によるショック死を迎えた可能性が高い。以上のことをふまえて、遺書は見つかっていないものの、警察では菊田奏真の死を自殺と断定。……でいいですよね?」

「おまえ、どうやってそれを……」

(ま、その程度、マスコミでも簡単に調べられるか)

 檜山は必要以上に熱くならないよう自制した。

「で、それがどうした?」

「あなたに持ち出していただきたいのはですね」

 花嶋は邪魔な帽子を頭に載せて、両手を使って円を作った。

「壁にこれくらいの丸い鏡が掛かっていたでしょう? それが欲しいんです」

 檜山は容易に思い出すことが出来た。血の海に横たわった、顔面が真っ赤に爆ぜた男の死体。足下に捨てられた顔面の皮膚。果物ナイフが転がり、それを使って切れ目を入れて、皮膚を剥ぎ取る時に見ていたと思われるのが、窓から直角の壁に掛けられた、黒い枠の丸い鏡だった。

 両手で、ちょうどこのくらいの大きさの……

 檜山は思わずせり上がってくる寒気を無表情に押さえつけた。

「現場から押収はしてないんでしょう?」

「証拠品の持ち出しなんて出来るか」

「ですから。自殺と決まって事件性はなし。じきに現場の封鎖も解かれるでしょう? しかしそうなりますとご遺族が遺品の整理等に入るでしょうから、その中間を狙いましてね、こっそり、頂戴して来てほしいんです。ね? 刑事さんなら簡単でしょう?」

「やるかよ。おい、その鏡がなんだってんだ?」

「それは刑事さんの知る必要のないこと……、はいはい、言いますよ。そういうマニアがいるんですよ、猟奇的な事件の起こった現場の、記念品みたいなのを集めてる。いい金になるんですよ」

「おまえはその現場泥棒の常習犯というわけか?」

「取りあえず二十万、お渡しします」

 花嶋が懐から出した札入れから、ひい、ふう、みい、と数えて差し出した札束に、檜山は思わずつばを飲み込んだ。

「お金っていいもんですよねえ? どんなお金もお金はお金ってところが便利でいい。その鏡をお持ちくださったら、後三十万、お渡しします」

 どうぞ?と手を伸ばされ、檜山は受け取った。二十万……大金と言うほどでもないが、ずいぶん助かる。手元を見ながら考える。こいつは犯罪者で、何か隠してるに違いない。しかし、今ここで摘発するよりも、本丸の証拠を得てから逮捕すればいい……

「じゃ、上手くやってください? こっちも面倒はごめんですんでね。なあに、優秀なあなたならやれますよ。急がなくてかまわないですが、でもくれぐれもタイミングを逃さずに。ではまた、その頃、ご連絡いたします」

 花嶋はひょいと帽子を持ち上げて、軽い足取りで小路を歩いていった。

「くそっ……」

 確かに二十万、数えると、檜山は懐にしまった。

 鏡を持ってくれば、後三十万円もらえる。

 自殺に間違いない。驚天動地のトンデモトリックによる殺人だった……なんて事はあるわけない。

 あんな鏡一枚がなんだって言うんだ? 現場で表うら確認して、何も問題無しで、現場保存優先で押収もされなかったんだ、そんな鏡一枚持ち出したところでなんの問題もないはずだ……

 鏡一枚で五十万円。

 あんな物にいったいどうしてそんな価値があるんだ?

 猟奇事件マニア?

 確かに、顔の皮を剥ぐのを映していた鏡だ、そんなマニアなら狂喜乱舞して欲しがるかもしれないが……

「くそっ、くそったれめ!」

 檜山刑事は己自身に悪態をついた。

 それが警察官にあるまじき犯罪であるのは明白だが、彼の心は決まってしまっていた。

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