三章 慨世 2
七月九日
その日の朝、いつもの出勤時間にあゆみが来ず、彼女の携帯に電話を入れた時、ああ、もう彼女はいないのだと気付いた。
それでも、オートスケーターの調子が悪いとか、道が混んでいたとか、そういった事情でまだ遅れているだけなのかも、と思い直した。
お節介な彼女の事だ、誰か困っている人を手助けしてあげていて、それで遅れました。なんて事もあるのかも知れない。いや、実際にそんな事は何回かあった。宏親としても別に遅刻を怒るわけでもなく、逆に「ついでに店の宣伝もしてきた」と誇らしげに鼻を鳴らしている彼女がおかしくて、つい笑ってしまったりする。同時に彼女を愛しくも思った。
そんな何気ない日常はもう二度と訪れないと思い知った。あゆみはもう居ない。死んだのだから。
葬式には
それでも精一杯取り
葬儀が終わると、両親から改めて「娘と過ごしてくれてありがとう」と伝えられた。
あゆみはいつも仕事から帰ると、今日あった楽しかったことを両親に嬉々として話していたという。
宏親があゆみの義足の調整を承っていたことも両親は承知していたので、そこで働くことになった事を誇りに思っていたという。
最初は両親共に、こんな無愛想な輩の下で大丈夫かと危惧していたそうだが、働いているうちにあゆみが明るくなっていくのを実感したと教えてくれた。毎日娘の話を聞くのが日課になっていた程だったそうだ。
宏親がいつまで経っても空調やらIOT家電の音声認識を覚えないこと、いつも工房内を散らかして片付けるのが大変だということ、何よりも、宏親と共に働いていることが楽しいということ。
「あゆみは、私達の自慢の娘でした。最後まで一緒に居てくれてありがとう」
父親がそう言ったところで、それまで黙って聞いていた宏親はやっと口を開いた。
「感謝を言うべきは俺の方です。あゆみが居たから俺の仕事も今までやってこれました。客商売を苦手な俺の代わりに引き受けてくれたり、俺一人じゃ出来ない事も何でも手伝ってくれました。行く行くは補佐じゃなくちゃんとした技師にしてあげようって思って……。あゆみはしっかり技術も勉強していました。俺なんかより熱心で、困ってる人を助けたい、自分がそうしてもらったように、今度は自分が他の誰かを助ける番なんだって……」
言葉を紡ぐのに夢中で、頬を伝って溢れる涙を拭う余裕など無かった。それでも言い切るべきだと思った。
「あゆみは、うちの店の……いえ、俺の誇りでした。だから……」
そこまで言うと、両親はありがとう、ありがとうとしきりに頭を下げていた。下げるべきは自分の方なのに。それ以上言葉を紡ぐのは今の宏親には出来なかった。言葉の尻は抑えきれない感情の波によってかき消された。
他の参列客の方へ挨拶に向かった両親の背中を目だけで追い、宏親は唇を噛み締めて一人だけで続きを地面に落とす。
「だから……助けたかった……!」
握りしめた拳が痛むのが自分でも分かる。やり場のない憤りが溜まったまま、宏親はただその場に立ち尽くした。
あゆみを乗せた霊柩車が大きな音を上げて道へ出ていく。宏親たちはそれを見送るだけだった。ここから先の最後の別れは親族のみで執り行われるからだ。
残された宏親は、聡臣と小麦に諭されて自分の店へと戻っていった。その頃には頭上の曇り空が濃くなり、そのうちに強い雨が降り始めた。
「宏ちゃん、大丈夫か?」
入り口の前で立ち尽くした聡臣がそう聞いてくるが、宏親は大丈夫だと答える他無かった。
これ以上他人に迷惑はかけれない。ましてや
大丈夫だと答えたはずだが、しっかりと言葉に出来たかどうかは判然としない。それが聡臣に伝わったのかも分からない。激しく傘を打つ雨の音のせいもあるだろう。
聡臣は、あまり塞ぎ込むなだとかなんとか言って、小麦を
正直な所、あまり一人では居たくなかった。余計に色々と考えてしまうからだ。いつもより一層静かに感じられる店の中を見渡し、記憶の中であゆみを思い描いた。
あゆみがいつも居るはずの受付、頬を膨らませて怒ってみせながらも片付けをしてくれた工房内、訪れた客の相手をする応接室。
どこを見ても、あゆみは居なかった。
応接室のソファにどかっと座り込み、何も考えないように頭の中を空にしようとした。だがそれは逆効果で、時計の音だけが響く何もない空間では、あゆみの死についてしか考えられない。
どう考えても、あゆみは死ぬべき人間ではない。その尊い命を奪った事実は許されることではない。しかもそれは理不尽な、呪いなどという実在するかも分からないものによって行われた。
表向きは自殺だ、宏親自身も目の前であゆみが自分の手で首を掻き切るのを見ている。しかしそれは表面上そう見えるだけで、あの時点であゆみはあゆみでは無くなっていた。
宏親にはすぐにそれが分かった。理屈などではない、本能で感じる違和感という不確かな情報でしかないが、表情、立ち振る舞い、声、どれをとってもあゆみの皮を被った違う人間のようだった。
それはいつもあゆみを見ていた宏親だからこそ感じ取れるもので、彼女の一挙手一投足が全く違う人間のそれだった。
先日の夜の記憶を追う。
あの時歩いていたあゆみの歩き方、そこからもう違っていた。あゆみはどこか子供じみた歩幅でぴょこんと歩く。地面を蹴っては歩かない。
雪国の人間が、滑らないように地面を真上からしっかり踏みしめてから次の一歩を出す。そんな挙動で歩く。
しかしあの時のあゆみは、義足を付けていない人間の滑らかな動きだった。当然あゆみはリンクスで義足を操っているため、生身の身体を動かすのと遜色ない動きが可能なのだが、リンクスを導入する以前から義足生活だったので、その歩き方が癖になっていた。
歩き方だけでなく、その目線、仕草、声、全てがあゆみではなく……彼女よりもう少し年上の妖艶な女性をどこか彷彿とさせる雰囲気を纏っていた。
その様子は、彼女に何かが憑依しているとしか言いようのないものだった。あれが、世間で騒がれているさやかの呪いのせいなのであれば。
あの時あゆみの中に居たのは、さやかなのだろうか。
その時突如、来店を告げるインターホンが鳴った。聡臣か小麦が何か忘れ物でもしたのだろうかと宏親は玄関へと向かう。
「大切な人との再開を望みますか?」
果たして現れたその人物は、聡臣でも小麦でもなく、見知らぬ二人組だった。
真っ白い衣装に分厚い紙の本のようなものを抱え、先程からピクリとも動かない表情筋を笑顔のままにしてこちらを見つめてくる。男女の二人組だった。
最初に声をかけてきた女の方が間髪入れずに、「大切な人を亡くした悲しみ、痛いほどよく分かります」と続けて喋ってきた。
宏親は状況が飲み込めなかった。何と返せば良いのかも分からなかったが、先程までは悲しみに暮れているだけだった心のなかに、違うものが芽生え始めたのだけは分かった。
しばらく黙ったままで居ると、男の方が一歩前に出てきた。
「始めまして。私は
「知るかよ」
いくらか理解が追いついてきたので、返事をする気力が戻ってきた。平岡と名乗った胡散臭そうな二枚目の男を睨みつけ、そう言い放つ。
知らぬとは言ったが、実のところ前に聞いたことがあった。怪しい新興宗教だと。
「何の用だ?」
「我々伊邪那美の声は、救済を目的としています。悲しい別れを経た後でも、黄泉の国へ旅立つ事で再会が出来ます。死者は
平岡はそう言って、抱えた紙の本を差し出し、目の前で広げてみせた。中にはスマートフォンのような何かの
「リンクスで読み取って下されば、あなたも、大切な人もそれで救われるのです。どうぞ」
沸々と怒りが先程よりも強く湧き上がる。
こいつらは、人の死を食い物にする意地汚い奴らだ。人の弱みや優しさにつけ込んで、弱者からの搾取をして肥えた連中だ。詳しくはこの団体の事を知らなかったが、宏親はそうに違いないと信じた。そして、あゆみの死をも利用しようとしている。それだけで宏親の逆鱗に触れるには充分な理由だった。
同時に気味悪くも思った。何故こんな早い段階であゆみの死を知られている? そう思うと背筋に寒気が走る。言葉に出来ないが、漠然と存在する疑念が、目の前に立つ男を余計に胡散臭く感じさせた。
宏親は黙って両耳の裏を見せてリンクスを装着していないことを強調する。それから返事も待たずに乱暴に玄関を閉め、わざと大きい音を出して施錠してやった。しばらく見えない先にいる二人をドア越しに睨みつけていたが、足音が遠のく気配がしてから部屋へと戻った。
応接室まで戻ると、宏親は大声で言葉にならない叫びを上げた。そのまま勢いに任せ、応接室にあるカフェテーブルを力の限り蹴り上げる。
けたたましい音を立ててテーブルはひっくり返り、上に置いてあった小物ごと部屋の隅へと吹っ飛んでいった。
しかしそれで溜まりきった鬱憤が晴れるわけもなく、そのまま激情に身を任せて部屋の中のものを手当り次第蹴散らしていった。
部屋の中が大惨事を迎える頃、息を切らしながら幾らか落ち着いた宏親は、ある思いを誓った。
このおかしな現象はいずれ解明される。自分なんかより優秀な人間たちが既に真実を追っているからだ。
オカルトに強く、その因果関係を洗える小麦に、妻の事となると何が何でも我武者羅に突っ走る聡臣、そして朱音に至っては本業が探偵であるし、先日は遂にさやかの正体まで辿り着いたと聞いた。
ならば、この一連の怪現象の正体、
あんな気持ちの悪い連中が
助けることも出来ず何の力にもなってやれなかったあゆみへの、せめてもの弔いがそうする事なのではないかと、宏親は改めて自分に言い聞かせ、そして、さやかの呪いの根絶を心から強く願った。
これ以上、誰も犠牲の無いように、強く、強く願った。
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