空想論理学入門:ドッペルゲンガーに関する論理的追及
和泉茉樹
空想論理学入門:ドッペルゲンガーに関する論理的追及
◆
カティラがドアをノックすると「いるよ」と返事があった。
「おはようございまーす」
開かれたドアの向こうは薄暗い。壁どころか窓も潰して本棚が設置されているせいだ。そこからも書籍が溢れて、狭い部屋のそこらじゅうに積まれている。圧迫感はものすごい。
部屋の主人の居場所を主張するような重厚なデスク、はなく、まさに部屋の主である教授はソファにのもたれかかってタバコを吸っていた。そう、部屋の明かりが薄暗いのは、煙が充満しているからだ。
「教授、館内は禁煙ですよ」
「思考を巡らせる効能があると、どこかの大学の研究者が発表した」
「嘘ばっかり」
ソファの後ろを回って、カティラは仲の良い先輩が無理矢理に壁に設置した換気扇を稼働させた。リモコンなどなく、その前時代的な換気扇は紐を引っ張ることで起動する。電源のコードは本棚の上に自然と隠れていた。
少しずつ空気が新鮮なものと置き換わる中で、カティラはソファの教授の横に座り、タブレットで教授宛の電子メールの確認を進めた。これは、というものは無線で接続されているプリンターに印刷させる。
そのはずが、エラーが起こる。ソファを軋ませて立ち上がった彼女に、くわえタバコのモゴモゴした声で教授が事情を伝えた。
「用紙切れだよ。ナトゥールくんに買いに行かせているから、ちょっと待って」
「ナトゥール先輩、卒論がうまくいっていないって聞いてますけど、教授は聞いていますか?」
元の席へ戻りながら、カティラが確認したのに、うーん、と教授は返事を先送りにして、返事の前に紫煙を吐き出した。
じっと見据えられることで、居心地が悪くなったのか、わざとらしく教授が咳払いをして、むせたように咳き込むところへカティラはだめ押しをしようとしたが、いきなりドアが開いた。
当のナトゥールが顔を見せ、カティラに笑みを見せる。
「おはよう、カティラさん。紙を買ってきたよ」
実際、ナトゥールは両手で抱えるようにして箱を抱えている。五百枚のコピー用紙の束が五つまとめられているという表記が箱に見えた。
「ありがとう」なんでもないように教授が返事をする。「一つ、セットしたらあとは置いておいて」
はいはい、と手早く箱を開封し、プリンターに紙をセットするナトゥールの背中から、カティラは非難の視線を教授に向けた。
どうしてこの二人はこんなに呑気なんだろう。教授も先輩を助けるべきだし、先輩も時間がないのならお手伝いさんみたいなことをしている場合じゃないと思うのは、間違いだろうか。
「カティラくん、メール、プリントしておいて」
彼女の視線の厳しさ、まさしく凍てつく視線をものともせず、教授は短くなったタバコを灰皿に押し込んだ。灰皿は吸殻でいっぱいでまさしく押し込んだのだ。
どこかとぼけた表情、寝ぼけたような表情で新しいタバコに火をつけながら、「例の問題をカティラくんも交えて議論してみよう」と教授が言った。
ナトゥールがソファに座る。並びはカティラ、教授、ナトゥールである。
「例の問題って、なんですか?」
タブレットから視線を上げずに、次々とメールを印刷させながらカティラが確認すると、それはね、といったのはナトゥールだった。
「ドッペルゲンガーをいかにして暴くか、だよ」
はあ、とカティラは答えながら、メールを次々と確認していく。
教授とナトゥールが話を始める。
◆
状況は簡単だ。
我々の前にはそっくりに見える同一人物がいる。
とりあえず、同じ身長、同じ体重、同じ顔の作りをしている、ように見える。
◆
除外する項目を整理します。
ナトゥールがそう言うのを、カティラは手を動かしながら聞いた。
「まず、服装の問題。二人は別の服を着ているけど、そこから個人を特定できない、とします。純粋に身体に由来する要素で、見分けるのが原則です」
「で、ナトゥールくんの考えは?」
タバコの匂いが濃密に漂う中で、ナトゥールが淡々と話す。
「現代的に個人を見分けるのに、指紋が有効な気もしますが、ドッペルゲンガーという存在が、まさか大雑把に外見を真似ただけで、細部にこだわらないわけがない、とします」
「え、待ってください」
思わずカティラはタブレットから顔を上げていた。教授とナトゥールがカティラを、一方は曖昧に、一方は嬉しそうに見つめてくる。
「えっと、ドッペルゲンガーが科学に敗北することがあるんじゃないですか?」
「科学ではなく、僕たちは論理で暴こうということだよ」
タバコの灰を灰皿の吸い殻の上にさらに積もらせながら、教授が応じる。
「例の、空想論理学、って奴ですか。言葉遊びですよ」
反論するカティラに、教授は微笑んでいる。
「それを言ったら数学は、数字で遊んでいるだけだよ。今は目をつむってくれたまえ。それはそうと、カティラくんの指摘はもっともだ。ドッペルゲンガーは科学的には容易に暴けないとする」
そうですか、と真剣な声を漏らして、それきりナトゥールが顎に手を当てて沈黙した。教授は宙を漂う煙を見ているようだ。
そしてカティラは呆れて、元の作業へ戻った。
◆
ドッペルゲンガーは、科学的に暴かれることがない。
目の前にいるAとBは、指紋は全く同一である。欠損があるとしても、それさえも同じである。
虹彩や掌紋も同一。
声を発する時の声紋もやはり同一。
当然、遺伝子を確認しても、全く同じ結果が出る。
◆
そうなると、とナトゥールが小さな声で言う。
「A氏とB氏に昨日、あったことを話させるというのはどうでしょう」
「記憶もまた複製されている、としよう」
え! とカティラは聞くともなく聞いていた言葉に、思わず声を上げてしまった。
また二人の男性が、それぞれに視線を彼女に向ける。それにもややカティラは戸惑った。戸惑いながら、確認してしまった。
「記憶が複製されてしまったら、それこそ完全に同一人物ですよ」
「いや、こういう捻りができる」
特に意味もないだろうが、教授が目の前で何度も円を描くようにタバコを持っている手を動かす。細かな灰がかすかにハラハラと散った。
「例えばA氏とB氏は、捕獲される前日に、同じ料理を食べている。もちろん、記憶が同一であり、感覚が同一である、とすると、感想は同じになる。同じになるが、感想を表現する言葉には個体差が出る。A氏とB氏、どちらかがドッペルゲンガーである以上、複製された以後には別個体となるわけだし」
「言語感覚が同じなら、同じことを言うんじゃないですか?」
ほとんど反射的にカティラが問いを向けると、そうだね、と教授が何度か頷く。
「同じ言葉を選ぶ可能性はある。しかし逆に考えれば、僕たちはA氏とB氏の違いを探しているのだから、何もドッペルゲンガーのいいようにさせる必要はない。攻め方として、A氏とB氏が違う言葉を口にしていく中で、ドッペルゲンガーだという確信が持てればいいわけだ」
都合がいいですね、と反射的にカティラが言うと、ふっと教授が笑みを見せた。
「都合を悪くさせる設定が、きみに作れるかな」
ええ、まあ、とカティラは視線をタブレットに戻したが、視線はその表示を見ていない。
思考の中に彼女も自然と埋没していた。
◆
A氏とB氏は、別々の部屋に、監禁されている。
それぞれはそれぞれに尋問を受けているけれど、お互いに、もう一人が何を質問され、どう答えたかは知ることができない。
質問者は両者を見比べることができる。
◆
「両者が別の部屋にいるなら」
カティラは手元でタブレットを操作し、次々とメールを印刷させながら言葉を口にした。
「同じ質問をぶつけても、違う言葉を返す可能性があるんですよね」
「もちろん」
鷹揚に教授が頷く。
「では、質問者が時に厳しいことを言い、時に優しいことを言う、そういうやり方はどうですか」
「個体差が出るだけじゃないかな」
一度ソファを立ったナトゥールが、プリンターの吐き出した紙の束を手に取りながら応じた。
「A氏は質問者に威嚇されてから、優しくされる。B氏は優しく問いかけられてから、脅迫される。こうなるとA氏とB氏は乖離していき、まさしく一つの人格を獲得すると思う。そうなっては、ドッペルゲンガーを見破るのは逆に難しい」
ソファに戻ったナトゥールに紙の束を渡され、教授がタバコをくわえたまま、次々と紙を繰っていく。その間、誰も何も言わず、ただ紙が触れ合い、めくられる音だけがした。
「つまり」
ナトゥールがソファに背中を預け、天井を見上げるようにして言葉を口にする。
「質問によってドッペルゲンガーを暴かなければいけないのが僕たちの原則でありながら、質問すればするほど、僕たちはその原則に縛られてしまう、ってことですね」
「しかし質問だけが許されている」
ローテーブルに数枚の紙を放り出し、残った紙の束がナトゥールに戻された。この紙はまた裏に印刷してからやっと捨てることに決めていた。ナトゥールが部屋の隅の箱に紙束を入れた。そしてまた、印刷されたばかりの紙が回収され、教授の手に渡る。
「誘導尋問みたいなことはどうでしょうね。何か、ボロが出るように質問を続ける」
「そう、それは一つの手だ」
教授がタバコをぐっと灰皿にまた突っ込み、新しい一本を手に取るが、すぐには火をつけなかった。片手では紙の束を持ち、それで膝を叩く。
「しかしね、質問者が回答を聞いた時、何が真実であり、何が虚実か、それを判断する材料はどこにある? A氏とB氏はもはやそれぞれが一個の人間で、その言葉は偽装ではなく、真なる言葉であるとすれば、容易には真実の言葉と虚実の言葉を判別はできない」
「確認しますけど」
ナトゥールが髪の毛に手をやりながら質問した。
「質問者は、何らかの手段により、ドッペルゲンガーのアドリブともいうべき発言を、理由なくアドリブと見破れない、ということですね?」
「その通り。ドッペルゲンガーを暴けるのは、そうと明確に分かる事実だけだ」
◆
A氏とB氏には誘導尋問は本質的には通じない。
どのような尋問を行おうとも、それぞれがそれぞれに答え、何が本当のことであり、何が虚言であるかは、容易には判別はつかない。
そのため、誘導が成立しているのか、いないのかさえ、判然としない。
尋問は尋問として成立するが、成果は上がらないらしい。
◆
灰皿を洗ってきます。
そう言ってナトゥールが席を立ったところで、教授は「コーヒーを買ってきてくれよ」と素早く紙幣を取り出した。ポケットから直に出てきたので、しわしわのくちゃくちゃになった紙幣だった。
わざとだろう、演技過剰な動作で捧げ持つようにしてナトゥールが紙幣を受け取り、部屋を出て行こうとする。
「先輩、ドアを開けておいてください、空気が悪いので」
苦笑いしてから、ナトゥールはドアを全開にして出て行った。
「空気が悪いとは、ひどいことを言うじゃないか、カティラくん」
「本当のことですから」
唸り声をあげながら、彼はタバコにやっと火をつけた。ナトゥールがいないからだろう、プリントされた電子メールの紙の束は、ローテーブルに放り出されている。
「そういう揺さぶりは有効かもね。怒りを煽る。とにかく怒りを煽る。どう思う?」
思わぬ反応に、カティラは言葉に詰まったが、たった今、教授が言ったことを想像してみた。
「例えば、罵声を浴びせてみるとか、ですか? それでどうなりますか? A氏なりB氏なりが激昂して、それだけのことじゃないですか?」
「殴りかかってくるかも」
「そんなこと、限界を超えれば、どんな人間も殴りかかってくるかもしれないですよ。今、想定しているのはそういう、限界を試すものなんですから。それにドッペルゲンガーも、人間らしく振舞おうとするか、人間そのものの振る舞いをするわけですから、やっぱり殴りかかってくるんじゃないですか?」
そうかねぇ、と教授はタバコを口へ運ぶ。タバコの先で赤い光が一瞬、チラついた。次には細く煙が吐き出され、しかしドアが開いているので風通しがいい。すぐに薄れて消えた。
◆
A氏とB氏を挑発することで、怒りを爆発させる方法は通用しない。
A氏はA氏で、B氏はB氏で反応を示し、あるいは気持ちが挫け、あるいは激昂するかもしれない。激昂した果てに暴走するとしても、それはドッペルゲンガーであろうと、人間と大差ないものと思われる。
ドッペルゲンガーは、人間に化ける以上、人間らしく振る舞うのが大前提である。
◆
灰皿を洗ってナトゥールが戻ってきた。
ズボンのポケットから缶コーヒーが三本出てきて、一本が教授に、一本がカティラの手に渡った。よく冷えている。カティラが好む銘柄である。ナトゥール自身も自分の缶コーヒーを手にして、栓を開けた。
「拷問という手段を考えなかったけど、どうでしょうね、教授」
拷問ねぇ、と簡単に言葉にしながら、教授も缶コーヒーの栓を開けて、口へ運ぶ。
「例えば、どんな?」
「そうですね、指を切り落とす、とかですか?」
やめてくださいよ、と思わずカティラは缶コーヒーを開栓する手を止めて口走っていた。
「ドッペルゲンガーだって、指を切り落とされるのは嫌ですよ。さすがに口を割るんじゃないですか」
「いんや」
そう応じたのはナトゥールだった。
「ドッペルゲンガーは最後の最後まで、人間らしく振る舞うだろうから、指を切り落とされるとなれば、泣いて、喚いて、逃げようとするだろうと思う。それは人間の方も同じだよ。やっぱり泣き喚く。両者に見分けはつかない」
「でも、指を落とされるんですよ」
そう念を押すカティラに、教授が何度か頷いた。
「状況を一つ、整理しよう。A氏とB氏は捕縛されていて、監禁されている。何らかの罪状があるかもしれないし、ないかもしれないが、どちらも無事に生き延びるには、自分が人間であること、もしくは、相手がドッペルゲンガーであることが、自明にならない以外に方法はないとする」
「教授が言いたいことは、A氏もB氏も、自分がドッペルゲンガーだ、とは口が裂けても言えない、ということですね。同時に、A氏もB氏も、苦痛を逃れるために自殺的に、自分こそがドッペルゲンガーだ、と口走らない、という設定もあるわけですね」
そうそう、と応じながら、教授がタバコの灰を綺麗になった灰皿に落とす。
◆
A氏とB氏は、自殺を選べない。
どのような暴力的な拷問を受けようと、自分がドッペルゲンガーです、という言葉により死という形で安息を得るという選択肢は選びえないということである。
生き残るためには、何らかの手段で、どちらかが人間で、どちらかがドッペルゲンガーである、ということを明確にしないといけない。
尋問に対する答えと同じく、拷問によって聞き出すことができる情報も、A氏にはA氏、B氏にはB氏の答えがあり、どちらが人間であり、どちらがドッペルゲンガーであるかは、容易には判断不可能である、とするよりない。
◆
教授は膨大な電子メールの中から必要なものを選ぶ作業を続け、カティラはタブレットでメールの選別を続けた。ダイレクトメールなどが意外に多いのである。
ナトゥールはといえば、片手に紙の束を持ち、赤いペンをもう一方の手に唸っているばかりで、一向に手は動かない。この紙の束は、彼自身が用意したもので、自分の文章を添削しているのだ。ただ、頻繁にプリンターの方へ行ったり、教授が無用と判断した用紙を運んだりしていて、集中しているなどとはとても言えない。
「追い詰めるというのはどうでしょうね」
何回目かのメールの回収をして、紙の束を教授に渡しながらナトゥールが言った。
教授はまだ茫洋とした眼差しをしている。
「追い詰めるというのは? 尋問も拷問もダメだよ」
「もっと極端に追い詰めます」
カティラはタブレットに視線を落としたまま、黙って二人の言葉を聞いていた。
「例えば、殺すというのはどうでしょうか」
強烈な言葉に、場が一瞬、静まり返った気がした。
「殺す、といって、殺してしまっては、意味がないよ。これはドッペルゲンガーを見破るのが目的の議論で、ドッペルゲンガーを駆除するのとは少し違う」
ソファに腰を下ろしたナトゥールが手元で赤いペンをくるくると弄び始めた。
「例えば、死刑にする、と宣告するんです。もちろん、実際に殺すわけではない」
「それは尋問と同じだろうと思うけど?」
「いえ、ギリギリまで進めるんです。監禁している部屋から出して、絞首台でも、電気椅子でも、とにかく、もう自分は殺される、と思わずにはいられないところまで、持って行きます」
ふむん、と教授が頷き、この日、初めて目に輝きが浮かんだ。
「自分が死んでしまう、と思わせるわけか。それで?」
「人間はおそらく、理由があろうとなかろうと、自分の命が奪われるのが確実になれば、諦めるものです。いえ、違いますね。諦めない人間もいるでしょうけど、問題は、ドッペルゲンガーがどう考えるかです」
手の動きを止め、ナトゥールが赤いペンを指揮棒のように小さく振った。
「ドッペルゲンガーは、いざとなれば、A氏とB氏という、同一の外見の一人物でいる必要はありません」
「ははぁ。つまり、ドッペルゲンガーは、別人になれるが故に、人間にはない発想が現実味を帯びる、ということか」
さすがにカティラは顔を上げずにはいられなかった。
二人が何を話しているか、さっぱりわからなかったからだ。
「どういうことですか? 人間にはない発想って、なんです?」
「それはね」
ニヤニヤと笑いながら、教授がタバコをつまんだ手を、文字を書くように動かした。
「別人になる、ってことだよ」
「え? なんですか?」
「だからね、A氏とかB氏とかではない、C氏になればいいわけだ。そうなるとD氏も発生するがね」
「いや、全くわかりません」
「人間は、自分は自分、という絶対的な原則に縛られる。だから、お前は死ぬ、と言われれば、死にたくないと思ってもどうしようもない。しかしドッペルゲンガーは、仮に、自分が化けている人間が死ぬとなれば、さっさとまた別人に化けることで生き延びられる、と考えるかもしれない」
何も言えないでいるカティラをそっちのけにして、二人の男性は言葉を交わしている。
「ドッペルゲンガーは人間以上に死ぬことに怯えるか、というのは微妙なところだけど、自分というものが、絶対的な個ではないことから、ナトゥールくんが言う通り、最後の選択肢として、化け直す、というのはあるかもしれない」
「死刑台に連れて行く途中で、A氏なりB氏なりをC氏と二人きりにさせるしかありませんが、しかしそれはそれでドッペルゲンガーからすれば、絶望的ですね。これの危険性を下げる要素として、やはり服装ですよ、教授。きっとドッペルゲンガーは服装も複製できるんです。そうに違いありません」
にわかにやり取りが激しくなった二人に、思わずカティラはため息を吐いていた。
ドッペルゲンガーを極端に追い詰めるためにはなるほど、死刑台に送る前に死刑台を見せるというような圧迫が有効ではあるだろう。
あとは考える時間も与えたい。質問もされず、そもそも誰もやってこないひとりきりの時間を用意する。考えれば考えるほど、人間は諦めるかもしれないが、ドッペルゲンガーが生き延びる手段を模索し始める。何せ、いざとなれば他人になれる。その事実が、なんとか新しい他人に化ける機会はないか、というところに執着させる。
巧妙と言うか、小狡い誘導だった。
カティラはメールボックスの未読メールを全てチェックし終わり、タブレットをスリープさせた。まだ教授とナトゥールは話を続けている。
そんな二人を見ながら缶コーヒーを飲み干し、カティラは意味もなく換気扇の方を見た。
こんな話に必死にならないで、卒業論文や、自分の研究に熱中すればいいのに。
ふと視界にある本棚で、興味深い背表紙が目に入った。
聞いたことのない著者名の上にタイトルがある。
「論理で真実を暴く方法」
今、この小部屋で行われている議論とは違うだろうけど、似たようなことを考える人がいるのだ、とカティラは次には一瞬の強い興味をあっさりと失っていた。
やり取りされていた言葉は理論というより、ただの屁理屈か、最初に教授が言ったように、言葉遊びだ。
あるいは言葉遊びが意味を持つ場面もあるのだろうけど、卒業論文を提出しなければ卒業はできないし、論文を書かなければ学会で認められることもない。
もっとも言葉遊びの一つも出来ずに、極端な力を持った文章を書くことなど不可能かもしれない。
◆
ドッペルゲンガーを見破るには、命の危険にさらし、選択肢を奪うことが有効と思われる。
すでに化けている人間の命運が尽きていると錯覚させることができれば、ドッペルゲンガーはその、人間とはやや異なる生存本能的な発想により、さらに別人に化けることを模索するはずである。
これにより、A氏とB氏のどちらか、人間である方は、極端な絶望にさらされるものの、生き延びることが可能になる。
もっとも、今度は、全く同一人物にしか見えないC氏とD氏が出現するが、この同一人物が出現する場面は、A氏とB氏を誘導する側に大きな主導権があり、監視すること、観察すること、計測すること、全てが可能であろうと思われる。
仮にC氏とD氏の出現時にドッペルゲンガーを把握できないとすれば、もう一度、A氏とB氏に対して行った手法を行えばいいと思われる。
◆
面白い議論だった。
教授がそう言ってから、さっとナトゥールの方に手を差し出した。
パッとナトゥールの顔が明るくなり、彼は自分の手元の紙の束を教授に渡した。タバコをくわえて空いた手も差し出し、その手には赤いペンが手渡された。
カティラは腕時計を確認した。そろそろ講義の時間だ。
教授の助手のようなことをするのは、アルバイトだ。本来なら本当の助手がいるし、その助手こそがカティラの指導教官のような立場なのだ。しかしその助手は海外へ研修に行っている。研修の間の教授の世話がアルバイトの内容だった。
入学した当時からカティラが教授の研究室に入り浸っていたこともあり、任された役目だったけれど、退屈なのか、面白いのか、判然としないのだった。
「教授、時間ですので、失礼します」
ああ、うん、と教授は心ここに在らずで答え、ナトゥールは無言で頷いて、すぐに教授の様子に集中し始めた。
それでは、とカティラがソファから立ち上がるのに、やっぱり二人ともまともに挨拶しなかった。ちょっとだけ腹を立てつつ、いつものことなので無視して、カティラは部屋を出ようとした。
それに気づいたのは、偶然だった。
考えるともなく、考えていたのだ。
「仮にですけど」
彼女の言葉に、何故か二人ともが弾かれたように顔を上げた。
「A氏もB氏も、死刑を受け入れちゃったら、どうするんですか?」
沈黙。耳が痛くなりそうなほどの、完全な沈黙だった。
「そりゃ」
教授が赤いペンの先を漂わせながら、中空を見て、黙り込んだ。
「死体が二つで、ドッペルゲンガーがどっちかはわかっても、人間も死んじゃいますよね?」
カティラが追い打ちをかけると、教授が急にナトゥールの方を見た。
「これはダメかもしれないね」
紙の束が彼の手元に戻り、ナトゥールが肩を落として、首を振った。
カティラは今度こそ部屋を出て行った。ドアは換気のために開けっ放しにしておいた。
廊下へ出てみると、空気の新鮮さがはっきりわかった。
こういう、爽快な結論が出ない議論なんて、不毛だな。
そんなことを考えながらも、カティラは何か答えがないか、歩きながらやはり思考を巡らせるのだった。
◆
ドッペルゲンガーを暴くために人命を危険に晒すことは許されない。
◆
ドッペルゲンガーを論理的に暴く手法は、検討の余地があるが、不毛である。
(了)
空想論理学入門:ドッペルゲンガーに関する論理的追及 和泉茉樹 @idumimaki
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