気持ち悪い

エリー.ファー

気持ち悪い

 知りたくない情報が多い世の中で、川を歩く。魚は背中から透き通っていき、そのまま星になった。

 あぁ、宇宙だった。

 無知なまま歩き続けるのは、幾分か苦痛を取り除くのに役立つ手段と言える。

 謙虚ではない。前向きなのだ。

 事故が起きたこの川で、誰も救われないまま死を待っている。

 抗えばいいのだ。そうすれば生きている感覚がする。

 次から次へとやってくる水滴は群れを成す以外の生き方を知らないのだ。

 私の体はすぐに濡れてしまう。川に入って一時間くらいは、綺麗に乾いていたというのに。

 嫌になる。

 川がそのまま付いてくる気がする。こうあれば、あとは時間の問題だ。陸地に上がるべきタイミングだけ気にしておけばいい。

 服は乾いている。水分はすべて綺麗に飛んだようである。

 老人があたりを見回しながらこちらへ近づいてくる。

「あの、このあたりに川があったと思うのですが」

 私が川を引き連れて歩いていることが伝わると面倒である。無視をするべきか、嘘をついてでも話をするべきか。

 悩みたいが、時間がかかるのは最も避けなければならない。

「川は捨てられてしまったようですね」

「誰が捨てたのですか」

「えぇと、このあたりに住んでいる方のようです」

「なんでまた。歴史のある川だったのに」

「危険だからですよ。子供たちが近づいたら危ないじゃないですか」

「言っている意味は分かりますが、なんというか」

「まぁ、川がなくなる理由なんてそんなものですよ。川に何か用事でもあったのですか」

「昔、孫が流されたのです」

 私は老人の目を見つめて生唾を飲み込んだ。どのような会話がこれから展開されていくのか全く分からないのに、緊張だけはしていた。

「お孫さんは助かったのですか」

「だめでした。体中傷だらけで」

「それは、それは」

「でも、死体が見つからないなんてこともありますから。良かった方かもしれません」

「お孫さんは川で遊んでいて流されたんですか」

「よく分かりません。事故なのか事件なのかもはっきりしなくて」

「そうですか」

「亡くなってすぐの頃は、孫の写真を持ち歩いていたんですけどね。もう、やめちゃいました。なんというか、薄れてきたというか」

「心の重荷にしてはいけないですからね」

「ううん、どうなんでしょうねえ。写真を意識していないとどこかに忘れてしまうんです。忘れようとしてたんじゃないんです。忘れちゃうんです。不意に孫のことが頭から消えるんです」

「心の傷が癒えてきている。と考えてもいいのではありませんか」

「心の傷なんて最初からなかったのかもしれません」

 老人は息を長く吐き、ゆっくりと目を瞑った。

「孫の死をきっかけに引っ越しをして、この町から遠ざかりもう九年経ちました。久しぶりに来たら川は捨てられていて、跡形もない」

「でも、記憶には残っているのでしょう」

「じきにそれも忘れてしまいますよ。私が死ねばそれまでです」

「私が記憶しました」

「あなたが」

「えぇ、そうです。だから、ここにもう川は必要ありません」

「ふふ。有難う御座います。ご面倒をおかけいたします」

「いえいえ、私にできることはこれくらいしかありませんから」

 それからほどなくして、老人は去っていった。

 十二月二日。

 東京の物語である。

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