単一にして両極
和泉茉樹
単一にして両極
◆
カーター・ディクスン調査課長宛
翡翠の眠る島まであと一日となりました。
船旅には特に不自由することもなく、健康そのものです。海の真ん中の景色は素晴らしく、果てしなく広がる空と海が様々な色を見せてくれます。
日程は守られており、最初の報告書は一週間後にはまとめられます。
調査員 シズネ・リチャード
◆
海の真ん中というわけでもないのだろうが、とにかく絶海の孤島へ到着した時、俺はやや発熱していて、全身がだるかった。
蒸気船から小舟へ移り、その小舟で仮設の桟橋まで運ばれた。
桟橋で部下のエッタが待っていた。俺は揺れる小舟から、桟橋になんとか飛び移った。
差し出す荷物を受け取り、エッタがこちらに目を細める。
「なんです、そんなに不機嫌そうな顔をして」
「解熱剤はあるかな」
俺の言葉に、エッタは可愛らしい顔に渋面を作る。
「ここは未開拓の島ですよ。まぁ、現地住民が使う解熱剤はあるでしょうけど」
科学どころか薬学もないような場所の解熱剤など、安心して飲めるわけもない。
エッタが船の医者が解熱剤を持っているだろうと指摘したが、俺は首を横に振った。
「医者から薬を貰えば、医者は俺についてどこかに記録し、場合によっては上に報告する。俺はこの仕事に興味がある。外されたくない」
「あなたは言語に並々ならぬ興味を持っていますからね」
「そういうことだ」
桟橋は砂浜に作られていて、倉庫のようなものが少し離れたところに幾棟も並んでいた。
見張りでもないだろうが、腰布一枚の男が四人ほど、すぐそばに座り込んでこちらを見ている。ちなみにエッタはちゃんと文明人らしい服装をしている。さぞかし島では浮いていただろう。
「エッタさん、なんでも、この島のものは文字を持たないとか」
俺は歩きながら話を先へ進めた。エッタが頷く。
「ええ、そうです。そして独自の言語を使います」
「どれくらい解明されている?」
「最低限の日常会話がかろうじて、というぐらいですね」
思わず足を止めてしまった。少し先は進んだエッタがくるりと振り返り、先ほどとは違う、怒気を滲ませた顔を見せる。
「三ヶ月も先に来て成果はそれだけか。そう言いたいんでしょ?」
「まさにね。かなり難しい言語か?」
歩きながら説明します、とエッタは俺の荷物を持ったまま、砂浜を囲む木立の中へ入っていく。下草は短く、人が頻繁に移動しているのがわかる。枝なども張り出しておらず、木々の様子を観察するとかなり前から枝が払われていたようだった。
エッタが言うところでは、この島は現地住民は「カパ」というようだ。島に住むものをエッタが「カパ族」と仮に名付けて、彼らの言語を「カパ語」とやはり仮に名付けている。
彼らは文字を持たない。驚くべきことに、数の概念は〇から五までだという。ゼロという概念はほぼ俺たちと同じで、無、もしくは、空、となっているということだ。
彼らは数字も持たないという。数を勘定するときは、線を引く。一から四までは縦線を一本づつ引いていき、それを横に貫く一本を引いて、それで五になる。問題は彼らはそのまま五を重ねていって、十、十五、二十と数を拡張できそうなものだが、なんでも、人に許されるのは両手の指の数まで、という信仰があるようだ。ちなみに〇はまさしく丸を使う。
実に奇妙だ。
何が数を限定させるかといえば、神、ということになるのだろう、とエッタは説明した。
人間がいるところには、必ず神という概念が付随する。神という見えない存在を、全ての人間が理解するのは、俺には不思議この上ない。
俺は非常に珍しい立場、無宗教の立場で仕事をしている。これは様々な宗教団体からの後ろ盾を得られないが、その代わりに自由を与えてくれる。
例えば、俺は神を冒涜できる。神を定義しないからだ。
あるいは神も俺を定義しないとしても。
エッタの話は、カパ語を習得しようにも、文字がないので実際的な会話から意思疎通を図るしかなく、そのせいでここ数ヶ月、散々な苦労をした、という不幸自慢のような内容に移った。
それでもカパ族から頭の回転の良さそうな若者を三人選び出し、彼らに俺たちの使う大陸語を教えながら、エッタは彼らからカパ語を教わっているという。とりあえずは効果的だろう。
「文字がないので、大陸文字で適当に当てはめています」
木立を抜けるとそこが集落だった。道は地肌がむき出しだが、真ん中の広場のようなところには石畳が敷かれている。自然石をはめ込んでいるので、どこか芸術的だ。その広場を囲むように建物が並び、道は放射線状に無数にある。一直線ではないから、計算して区画を整備したわけではないのだろう。しかし無計画とも見えない。
「水を引く関係で、集落は作られています」
「水?」
「飲み水です。この集落では、山から水を引いて、全部の建物に引いてあります」
山、というのは集落を囲む木立のその向こうに見える、頂のことか。あの山は船から降りる前から、甲板からよく見えた。かなりの標高がある。島は位置的に蒸し暑い気候だから雪などは降らないのだろうが、場所が場所なら山の上は一年中、雪と氷の世界になってもおかしくない。
ここです、と集落の外れの建物にエッタが入った。もちろん、表札はない。文字がないのだ。
中はあまりにも簡単な作りだった。というより、壁がなくブチ抜きで一間だ。なるほど、水が流れ続けている炊事場は立派だが、そこまでの文明だ。これはエッタが用意したのだろう、網が柱と柱の間に渡されている。その上で寝るのだという。毒虫や蛇などが寄ってくるのを防げる。
「それで、翡翠はどうなっているのかな」
俺は額の汗をぬぐい、上着を脱いで半袖になりながら確認した。
エッタが水を汲んでこちらに差し出してくれる。器は木から掘り出したものだった。これだけでも売り物になりそうだ。
「翡翠の鉱脈があるようですが、カパ族は開発などとは無縁です。ただ、神の住む谷、というような表現をして、普段は立ち入ろうとしません」
「神という概念はこの未開の地にもあるわけだ」
器の水を飲むと、冷えていてうまい。高地から引いているせいだろうか。
「シズネさん、翡翠を彼らから奪うのは、本意ではないですよね?」
何を確認したいのか、エッタが問いかけてくるが、俺は肩をすくめるだけにした。
荷物の中から筆記具を取り出し、最初の報告書のために今、聞いたばかりのことを書き付けた。
◆
カーター・ディクスン調査課長宛
カパ島において発見されたことを報告します。
彼らは外部との交流を持っていない。
どうやら単一の民族であり、全島民が結束している。集落間での揉め事などもない。
非文明的で、単純な仕組みものが多用されている。しかし高地から集落まで水路を作ることはできるなど、奇妙なズレはある。
文字を持たないがために、言葉が発達しているようだが、詳細は調査中。
翡翠に関しては、交渉次第と思われるが、未だに責任者とは会見できず。
こちらは万事順調、心配されることのなきよう。
シズネ・リチャード調査員
◆
俺はエッタが教育している三人の若者と会った。
男が二人と女が一人。男は長身の方がイニャ、太っているのがヤキ、女はウユという名前だった。
この中でも特にウユは大陸語の発音がうまい。もっとも、おかしな訛りはあるが、信用できそうだ。
イニャはまだ未熟で、しかし一番熱心にエッタに教えを乞うている。ヤキは語彙が豊富だが、細かな取り違えを頻繁にするので、読解と訂正に手間がかかる。
「神、老人、のみ」
エッタが三人とやり合うのを見物した後、俺はヤキに翡翠について聞いてみた。その返事が、神、老人、のみ、だ。大陸語である。
俺は頭に叩き込んだカパ語で確認した。
「老人は、長老、ということか」
そうそう、とヤキが満面の笑みを見せる。老人と長老を取り違えているようだが、他は間違っていないはずだ。
長老が翡翠については管理している、ということは前も聞いたが、俺は踏み込んでみる気になった。カパ語で問いかける。
「長老に会えるか?」
急にヤキも真剣な顔になった。カパ語で返事がある。俺のために簡単な、短い言葉だった。
「長老は山にいる。会えない」
「山?」
「高い山。神の山」
俺は何気なく、木々の向こうを見ようとしたが、座っているせいもあり、聳え立つ峰は見ることができなかった。
そこへ食事を取りに行っていたイニャとウユ、そしてエッタがやってきた。彼らがいないうちに秘密の会話を、と思ったのだ。
俺たちはエッタに当てられている建物の外に長椅子のようなものを出し、そこに腰掛けて話をしていた。室内は薄暗く湿気がこもるので外の方が快適だ。もちろん、日陰を選んでいる。
俺がカパ島に来て三週間が過ぎている。今では文明人らしさもバカバカしくなり、俺も上半身は裸の時が多かった。最初こそ日に焼けて全身が痛んだが、今は色が薄黒くなり、痛みもしない。
この島の主食は木になる人の頭ほどの実をすり潰し、乾燥させて粉を作り、それに水を加えて焼くというものだ。そこに魚の干物や野菜などを載せて包んで食べる。野菜は栽培しているのではなく、島の大半を占める森林地帯の中に自生しているのを取ってくる。俺はその植物も、採集の様子も実際に見た。
カパ島の住民の数は、おおよそ六百名。一つの集落が百人ほどで、集落は六ケ所ある。ただ、集落の間で人が行き来しているので、集落という括り方は意味を持たないと言える。
食事が始まり、片言でイニャが楽しそうに言った。
「ヤキ、ウユ、楽しい」
楽しい、とは何のことだろう。
俺が不思議に思っていると、イニャがちょっと表情を陰らせ、
「俺、楽しい」
と続けて言った。
エッタが笑いながら、「いつか楽しくなる」と比較的流暢なカパ語で言ったが、何故か、イニャだけではなく、ヤキとウユも表情を曇らせた。エッタが慌てて、「問題ない」と繰り返すと、三人とも明るさを取り戻した。
逃げでもないだろうが、エッタは料理について質問し、魚の獲り方を聞き始めた。
俺は手元で薄い生地で野菜を包みつつ、先ほどの違和感について考えていた。
楽しい、とイニャは言った。
しかし、「ヤキ、ウユ、楽しい」と言ってから、「俺、楽しい」と口にした。
自然な言葉なら、「ヤキ、ウユ、俺、楽しい」と言ってもいいし、「俺たち、楽しい」でも「みんな、楽しい」でもいい。
なぜ、二人と自分を分けたのだろう?
「魚、嬉しい」
ヤキが言いながら、手元で魚の干物をつまむと、イユがちょっと怒ったように、
「魚、嬉しい」
とヤキの肩を叩いた。ヤキ自身が笑い出し、イユがそっぽを向き、エッタは困惑しているが表情にそれを出さないようにしているのがわかる。イニャはそんなエッタの様子を観察している雰囲気だ。
魚、嬉しい。
彼らの言語に詳しくない俺やエッタのために、大陸語の単語を選び出して表現してくれている、ということだろう。
魚、嬉しい。
魚を食べられることが嬉しい、という意味だろうか。
もっと考えれば、魚は人間に食べられることを嬉しいと感じているはずだ、という思想だろうか。
俺とカパ族の間には、まだ言語の壁が高くそびえている。意思疎通ができるようで、どうしても不完全だ。
イニャがエッタに「俺、悲しい、エッタ、厳しい」と大陸語で言っている。エッタは「優しいつもり」と微笑み、そうするとイニャも笑う。
俺にもああいう愛想の良さが必要なのかもしれない。
食事が終わり、また学習の時間が始まった。
◆
カーター・ディクスン調査課長宛
カパ島には変化なし。
言語の習得は順調です。彼らに文字を教えることは難航しています。そもそも文字や記号を今まで書いていないので、文字を持つことの意義から伝えなくてはいけません。
翡翠の鉱脈については依然、不明。しかし翡翠の玉を見せてもらうことはできました。間違いなく鉱脈はあると思われる、というのが今、言えることです。
現地住民は極めて温厚。
気候も暑いですが、慣れれば何も問題はありません。
シズネ・リチャード調査員
◆
カパ島には四季というものがなく、一年は雨季と乾季に分けられるだけだ。
島で生活を始めて四ヶ月が過ぎ、雨季がやってきた。
そんな中で、俺はヤキに真剣な顔で打ち明けられた。
「俺、ウユ、好きだ」
ちょうど雨が土砂降りで、長椅子を軒下に入れ、片方ではイニャとウユがエッタを挟んで何か話していたが、あまりの雨音に何も聞こえない。こちらの声も聞こえていないだろう。
俺はヤキを見て、笑って見せた。
「ウユに伝えればいい」
「そのつもり。決意、決めたかった」
大陸語でそう言うヤキは、嬉しそうだった。
その翌日、やはり雨が降っている中で、俺はイニャと話をすることになった。
「ヤキとウユ、俺、好きだ」
どうやらイニャはヤキの決意と意志を尊重するらしい。
今まで、あまり聞いたことはなかったが、この三人は年齢も近いし、幼馴染という奴かもしれない。
「シズネ、好きな相手、いるか」
いつまでも上達しない雑な発音のイニャの大陸語は、聞き取りづらいが、意味不明でもない。
「好きな相手ね」
思わず笑ったのは、俺にも幼馴染がいて、しかしイニャたちのように仲良しこよしで成長できなかった、ということを思い出したからだ。
俺の笑みの理由を測りかねたのは、イニャが確認するように言う。
「シズネ、エッタのこと、好きか」
これはまた、大胆な質問じゃないか。
「エッタのことは嫌いではないな。優秀だし、頼りになる」
そこまで一息に言ったのは、何故だろう。しかも大陸語で。イニャは俺の口調が早すぎて、聞き取れていないという顔をしている。
やれやれ。
俺はイニャを見て「好きだな」とだけ答えた。
瞬間、イニャの顔に何かが走った。口元が明らかに強張り、目の光り方が変わった。
「俺は、お前、好きだ」
低い声は唸り声と言ってもいい。
何かおかしな風に伝わったと判断して、言葉を重ねようとしたが、イニャは席を立ち、雨の中を駆け出していった。そのまま、すぐに雨のベールの向こうに消えてしまった。
様子に気づいたエッタがこちらへやってくる。
「何を言ったんですか」
「いや、わからない。勘違いだと思うが」
そう、イニャは何かを勘違いした。
しかし、何を?
◆
カーター・ディクスン調査課長宛
カパ島では奇妙な事態が起こっています。
ちぐはぐで、非常に、なんというか、原始的です。
彼らの言語には、奇妙な二重性があります。
◆
そのことを指摘したのはエッタだった。
二人きりで建物の中で着替えていた。当然、二人の間には仕切りを作り、お互いの姿は見えない。俺たちは文明人なのだ。
着替えている理由は、これからヤキとイユの結婚式のようなものがあるからで、それに出席するためにカパ族の正装らしい民族衣装を身につけることにしていた。
帯を巻きながら、俺はエッタの言葉に耳をすませる。
「イニャが、自分はあなたのことが好きだ、しかしイユも好きだ、だから、ヤキを好きになってしまうのは仕方ない、と言うんです」
「ただの語彙の混乱だろう。イニャはお前が好きで、しかしイユも好みで、イユを好きになるヤキの気持ちもわかる、ということじゃないか?」
「しかし、「好き」という言葉は共通しているんですよ。仕方がない、という表現も落ち着かないというか……」
それはそうだが、相手はこちらとはまるで違う言語を使っている。まだ大陸語とのすり合わせも不完全で、不自由さがあるのは避けようがない。そのあたりの食い違いが、イニャの言葉を意味不明にしているんじゃないかと、俺は思っていた。
支度が終わり、俺たちは並んで広場へ向かった。まだエッタは不可解そうだった。
「彼らに文字を教えていると、何かの折に、正反対の単語を使います」
「正反対の単語?」
「そうです。例えばですね、彼らは「死ぬ」という単語を「生きる」という単語と取り違えます」
「おいおい、ちゃんと教えているのか?」
「教えていますよ。でも逆もあります。彼らは「生きる」を「死ぬ」と表現するんです」
思考の中で何かが引っかかった。
正反対の単語を、取り違える。生きると死ぬは、全く違うと自明だ。文字に不慣れであるがゆえに、間違えるのか。いや、こういう文字を教える現場では、教えられる方がわからなければ、下手なことは書かない。大抵は、と付け加えなければいけないが、人は失敗を恐れるものだ。
分からない単語を、適当に書くものもいるが、大抵は書かない。
では、本気で「生きる」を「死ぬ」と書いた?
生きる、という概念がわからないはずがない。死ぬ、という概念もだ。
広場に着いた。日が暮れかかり、盛大に篝火が燃やされ、人が集まっていた。みな、腰布一枚などではなく、きっちりとした服を着ている。文明の程度に不相応に見える服装。空気にはざわめきと一緒に、料理が作られている匂いも乗ってくる。
俺とエッタは並んでしばらく、その光景を見ていた。
やがて一層、華美な服装をしたヤキとイユがやってくる。二人は広場の中央へ進み出て、特等席についた。
どこからか子豚の丸焼きが運ばれてくる。そこから最初に切り出されたものは、ヤキとイユの前に置かれる。酒らしい液体も差し出された。
「結婚式って、いいものですね」
正確にはカパ族は結婚式などという単語ではなく、契り、という意味に取れる言葉で表現する。
式はつつがなく終わり、俺とエッタもカパ族に混ざって食事をし、酒を飲み、笑いあった。
◆
カパ島では、二つの正反対の言葉が、一つになることがあります。
これは実に奇妙ですが、現実のある側面ではあるのかもしれません。
◆
家に戻り、エッタは素早く着替えて、自分の寝床である網の上に寝そべって、静かな寝息を立て始めた。
俺は窓際で月明かりを頼りに、報告書を書いていた。
生きると死ぬを取り違える。
そのことを考えると、ペンを走らせていた手が止まってしまう。
やっぱり、何かがおかしい。
何か、俺は勘違いしている。
それは突然だった。
悲鳴が上がり、それは夜の中で長く響いた。
聞き覚えのある声、あれは、イユの声じゃないか?
足音がいくつも響き始める。エッタも目を覚まして、俺の後ろへやってきた。
「何かありましたか?」
彼女は俺の頭越しに窓の外を見ているようだ。
次の事態は、背後で外へ通じる扉が吹っ飛ぶ音から始まった。
振り返ると、誰かが立っている。服は正装のままで、黒いシミが見えた。
その手で何かが鈍く光った。
刃物。
俺は反射的に机の隅に置いていた拳銃に手を伸ばした。
「イニャ!」
エッタが叫ぶ時、もうイニャは中に駆け込んでくるところだ。
刃物。突き込まれる。
俺はエッタを突き飛ばし、拳銃の銃口をイニャに向けた。
雷鳴のような銃声。
血飛沫が飛び、イニャが跳ね飛ばされたように転倒する。
座り込んでいるエッタの無事を確認し、俺はイニャの手からこぼれた粗末な刃物を壁際へ蹴り飛ばし、銃口を向け直した。奴が起き上がろうとするのを、足で踏みつける。
「何が目的だ?」
俺の言葉に、イニャがカパ語で喚く。
救え! 俺を救え! 俺を助けろ!
そんなことを叫んでいる。意味がわからない。
やがて恐る恐るといった様子で、集落の男たちがやってきて、イニャを拘束するとどこかへ運んでいった。
混乱と興奮の中で、思考を落ち着かせるために建物の外へ出て、俺とエッタは並んで長椅子に腰掛けた。
「なんだったんでしょう。理由が、わかりません」
エッタはまだ動揺していた。俺も平静には程遠いが、動悸の激しさの割に思考は冷静だった。
まずイユの悲鳴が聞こえた。何かが起こったのだ。そのことを理解すると、この巨大なパズルは完成しそうだ。
様子を見に行こう、と俺は立ち上がった。エッタは無言で俺についてきた。一人になるのが不安なんだろう。
それから俺たちが知ったのは、イニャによってイユが殺された、ということだった。
エッタは呆然としていたが、俺は腑に落ちた、というところだ。
そう、イニャは、イユのことが好きで、ヤキのことが好きで、エッタのことが好きだった。
そして俺がエッタを好きだと勘違いした。
全ては「好き」という単語に収束する。
その単語には、二重性があるのだ。
◆
カパ語には、一つの言葉に二つの意味を、それも正反対の意味を与える場面が散見されます。
例えば、彼らは「死ぬ」ことを「生きる」と混同します。死は生であり、生は死である、ということです。
確認されたところでは、「自由」は「支配」であり、「支配」は「自由」だったりするのです。詳しく調べれば、より多くが判明するでしょう。
私たちが遭遇した事態では、「愛」が「殺意」と混同されていました。
誰かを愛することは、誰かを殺すことだと、カパ島の人々は解釈しています。殺人には相応の罰がありますが、彼らからすれば、誰かを愛し抜くことも、どこかに罰と近いものがある、という解釈なのでしょう。
文明の発達や進歩とは違う要素により、この混同が発生していると思われます。彼らは複雑な要素の中に、裏返しになるものを見出し、そのペアは、実は同じものではないか、と考えているようです。
理解していただけるとも思えませんが、いずれ、詳細な報告を上げられると思います。
調査員 シズネ・リチャード
◆
「魚は嬉しい、っていう表現こそが、カパ語の肝なんですね」
長椅子に座っている俺の横で、エッタが顔をしかめる。
ヤキとイユがふざけあっていた時のことを言っているのだ。
あの時にも、カパ語による混同が表出していた。
ヤキはきっと、ふざけて、魚は人に食われて嬉しいだろう、と言ったのだ。
それに対してイユは、魚は人に食べられるのはかわいそう、と応じたと思われる。
カパ族にとって、嬉しいと苦しい、あるいは悲しいは、対義語ではなく、同義語なのだ。
俺の前でイニャがわめいていた言葉も、救いでも助けでもなく、殺せ、と喚いていたことになる。
「このカパ語の不自然な混同、二重性は、文字を教えることでいずれ解消されるだろうが、もっとも、その時にはカパ語を使うものはいなくなって、大陸語で喋っているかもしれないな」
「私たちの仕事は、まずカパ語を記録して、まとめる、ってことになりますね」
そうだなと言いながら、俺は水の入った器を口元へ運んだ。水がやはり美味い。
俺はイニャがどうなったのかは、知らない。しかしいつだったか、イニャは俺にエッタが好きかを確認してきた。俺は何も考えずに、好きだ、と答えたはずだ。
その「好き」をイニャはどう解釈したのだろう。
そこに俺たちを襲撃した理由がある気もする。
イニャはエッタに恋していて、俺がエッタに殺意を抱いていると判断して、俺を排除しようとした、エッタを救おうとしたのか。
そういう説明など無用な、衝動、本能的なものだったか。
当然、イユを奪ったヤキを始末した後、ついでに俺たちを襲っただけ、という可能性もある。
言葉が全てを説明できるわけではないし、人間やその思考には言葉に置き換えられないものが、膨大にある。
「とにかく、ここは学者どもには格好の研究対象になるな」
「私は学者じゃないですし、シズネさんのように学者志望だったこともありません。ただの調査員見習いです」
「そうかい」
俺は器の中身を飲み干した。
エッタがため息を吐く。
言葉の混同を見抜けないことを嘆くような息の吐き方。そういうことを俺は読み取れるのに、カパ族の心は読み取れなかった。
後味が悪いったらない。
通りをカパ族の若者が歩いてくる。新しい生徒たちだ。嬉しそうに彼らは笑いあっている。
彼らはその状態を、なんと表現するのだろう?
日差しがギラギラと、全てを焼いている中で、俺は取り止めもなく考えた。
◆
カーター・ディクスン調査課長宛
カパ族に関しては進展あり。
翡翠についてもめどが立ちそうです。
次こそは会社にとって有意義な報告ができそうです。
調査員 シズネ・リチャード
(了)
単一にして両極 和泉茉樹 @idumimaki
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