渇愛

桜蓮

第1話エピソード1

◆◆◆◆◆


あたしはきっと恵まれた人生を歩んでいると思う。


あの日のことをあたしはいまだに昨日のことのように、はっきりと思い出すことができる。

あたしが小学生の時の話。


その頃、唯一の身内であるお父さんは学校に行くあたしを毎日笑顔で見送ってくれた。

それはあの日もそうだった。


「美織、気をつけて行ってこいよ」

学校に行く準備を整えて、玄関で靴を履いているとお父さんは、上半身はカッターシャツを着ているけど下半身はズボンをまだ履いてなくて靴下だけという、ビックリするぐらい間抜けな格好で見送りに出てきた。

「うん。お父さん、わざわざ『いってらっしゃい』って言いに来てくれるのものすごく嬉しいんだけど……」

「ん? どうした?」

「その恰好はダメだと思うよ」

「ダメ?」

「うん。その恰好で外に出ると100パーセント逮捕されちゃうと思うし、ご近所の人にその姿を見られたらまた変な噂をされちゃうよ」

「そうか?」

「そうだよ。お父さん、顔だけはイケメンなんだからもう少し気を付けた方がいいよ」

「そ……そうか……」

がっくりと肩を落としたお父さんにあたしはいつも言ってる言葉を伝える。

「お父さんは世界一自慢のお父さんなんだから」

これは落ち込むお父さんを励ますための言葉じゃない。

あたしがいつもそう思っている、あたしの本心。

ウチのお父さんは世界でいちばんの最高のお父さん。

あたしはそう思っている。


あたしがそれを伝えると

「……美織……」

お父さんはいつも嬉しそうにクシャっと笑う。

その笑顔があたしは大好きだった。


あたしの家族はお父さんしかいない。

お父さんの家族はあたししかいない。

お父さんとあたしは2人きりの家族。


でもあたしは寂しいと思ったことはない。

だってお父さんがいてくれるから。

あたしの家族はお父さんだけで十分。

お父さんがいてくれれば、他には何もいらない。

だってあたしはお父さんがいてくれれば十分幸せだから。

ずっとそう思っていた。


「あっ、そうだ。今日の夜は西園寺のおじちゃんやおばちゃんも一緒にみんなで晩飯を食いに行くからな」

「えっ? 本当に?」

「ああ、本当だ。この前美織が数学で100点をとったごほうびだ」

「ごほうび?」

「そうだ。ごほうびだ」

「やった!!」

「いいか、美織。今日は俺も18時には帰ってくる。だから学校が終わったら遊びに行ってもいいけど、お前も18時までには帰ってこいよ」

「うん、分かった。ねぇお父さん、ソウタも来るよね?」

「もちろん。ソウタも来るぞ」

「良かった」

あたしはホッとした。

それと同時に今日の夜の予定がより一層楽しみになった。


「美織は本当にソウタの事が好きなんだな」

「好きって言うか、ソウタはあたしの弟みたいな存在だから」

「そうか。美織はずっと弟か妹がほしかったんだよな」

「うん。でもあたしにはソウタがいるから、それでいいんだ」

「そっか。じゃあソウタの事をたくさん可愛がってあげないといけないな」

「うん、あたしソウタのことたくさん可愛がってあげるって決めてるから」

「ああ、それがいい。そうしてやってくれ」

「うん、分かってる」

「美織、そろそろ行かないと遅刻するぞ」

「あっ、本当だ。お父さんもお仕事に行くとき気を付けてね。運転しながらイライラしちゃダメだよ。それから時間はちゃんと守って、忘れないでね」

「ああ、今日は遅れないように気をつけるよ」

「うん。じゃあ、いってきます」

「おう、元気に行ってこい」


これがあたしとお父さんの最後の会話になってしまった。


あたしはその日、一日中ずっとソワソワしていた。

お父さんからの”ごほうび”が嬉しくて、それにものすごく楽しみすぎて授業中も気分が全然落ち着かなかった。


その日あたしは放課後も遊びに行かずまっすぐ家に帰った。

家に着いたのは、15時すぎ。

お父さんが帰ってくるのは18時だから時間はまだかなりあった。


帰ってすぐあたしは特別な日に着るためにお父さんに買ってもらっていたワンピースに着替えた。

お父さんと一緒に買いに行ったワンピース。

お父さんが好きなのを買っていいって言うから、あたしはお父さんが好きなラベンダー色のワンピースを選んだ。


そのワンピースを着て、お父さんが帰ってくるのを待つ。

今、思い返してみても、あの時のあたしは幸せな気持ちしか抱いていなかった。

お父さんが帰ってきたら、きっと目を細めてこう言うに違いない。

「美織、その服よく似合ってるな」って…。

「美織は美人だからどんな服を着ても良く似合う」って…。

お父さんは親バカだったからいつもあたしのことをたくさん褒めてくれる。

だからきっとこのワンピースを着たあたしのこともたくさん褒めてくれるはずだ。

あたしが気恥ずかしくなって「お父さん、もういいよ」そう言ってしまうぐらいに褒めてくれるに違いない。

あたしはそう信じて疑わなかった。

でもお父さんはその日、あたしを褒めてくれることはなかった。

それに約束の時間になってもお父さんは帰って来なかった。

……お父さんったら、また時間に遅れてる。

あたしは時計を見ながら溜息を吐いた。

……時間をちゃんと守れないところはいつまで経っても直らないんだから。

お父さんが時間を守れないのは、別に珍しいことじゃない。

悪気はないと思うんだけど、1つのことに夢中になると周りや他のことが見えなくなってしまう人だから。

こういうことは決して珍しいことじゃない。


だからあたしは、……またか……ぐらいにしか思ってなかった。

時計の針はどんどん進み21時を少しすぎた時、ようやく玄関のドアが開いた。

……やっとお父さんが帰ってきた。

私は溜息を吐いて立ち上がった。


きっとお父さんは、私にものすごい勢いで謝ってくるに違いない。

お父さんが時間を守らないことに、あたしはもう怒ったりしないのに……。

そんなことを考えながら玄関に向かったあたしは、そこにいた人を見てちょっとビックリした。

「えっ? 西園寺のおばちゃん!?」

「……美織……」

いつもニコニコしているおばちゃんが今日は笑っていなかった。

それを見て私は察した。

「もしかしてお父さんが仕事が忙しいの?」

「……えっ?」

「お父さんはお仕事が忙しくて帰って来れないからそれを西園寺のおばちゃんが伝えに来てくれたんでしょ?」

「……」

「今日、ごほうびにお食事に行くって言ってたけど、お仕事なら仕方ないよね」

「……美織……」

「おばちゃん、お父さんに気にしないでって伝えてくれる? ごほうびの食事はまた今度でいいからって」

ちょっと残念な気持ちはあるけど、別に今日じゃないとダメってこともない。

楽しみは先延ばしになっても、それはそれで幸せな気分を長く味わうことができる。

そう考えてあたしは西園寺のおばちゃんに伝言してもらおうと思ったんだけど、

「……美織……」

おばちゃんはなぜかあたしの名前を何度も呼び抱きしめるばかりで、明らかに様子がおかしかった。

「おばちゃん?」

あたしはどうしておばちゃんがそんなことをするのかがその時は全然分からなかった。

分からなかったけど、あたしを抱きしめているおばちゃんの身体が小刻みに震えていることには気が付いた。

「おばちゃん、どうしたの? 寒いの?」

「……美織」

「なに?」

「お父さんのところに行こう」

「お父さんのところ? それって事務所?……あっ、もしかしてお父さんを事務所に迎えに行って、そのままお食事に行くの?」

「……」

「おばちゃん?」

「……美織、よく聞きな。あんたのお父さんは今、病院にいるんだよ」

「病院? なんでお父さんは病院にいるの?」

「……」

「詳しいことはあとで説明する。今は、お父さんが寂しがってるからすぐに行ってあげよう。ねっ?」

「う……うん。分かった」


あたしは西園寺のおばちゃんに連れられてすぐに病院へと向かった。

病院に向かう車の中はとても静かだった。

いつもは賑やかなおばちゃんも一言も喋らないし、車を運転しているおじさんもずっと黙っている。

子どものあたしにも車内に重苦しい空気が立ち込めていることは分かった。

でもあたしはそんな雰囲気よりも、お父さんのことが心配で仕方がなかった。


病院に着くと西園寺のおじちゃんがいた。

険しい顔で男の人達と話していたおじちゃんは、あたしを見るなりその表情を少しだけ和らげた。

おじちゃんの表情の変化に、ちょっとだけ安心したあたしは

「おじちゃん、お父さんが病院にいるっておばちゃんに聞いたんだけど……。お父さんはケガをしたの? それとも病気なの?」

感じていた不安を一気にぶつけた。

きっとおじちゃんはお父さんのことをあたしに教えてくれるはず……。

そう思っていたから。


だけどおじちゃんはしばらくの間、黙ったままジッとあたしの顔を見つめていた。

「おじちゃん?」

「美織、お父さんに会いに行くか?」

「うん、行く」

あたしは、おじちゃんの質問に迷うことなく頷いた。


するとおじちゃんはあたしに向かって大きな手を差し出してきた。

その手をあたしはギュっと握る。

おじちゃんの大きな手は、とてもあたたかかった。


「あなた」

おばちゃんが戸惑ったようにおじちゃんに声を掛ける。

するとおじちゃんはなにも答えず、おばちゃんを一瞥してから、ゆっくりとした足取りで歩き出す。


そんな状況をあたしは不思議に感じていた。

おじちゃんに連れられてお父さんの元に向かう。

お父さんがいたのは病室じゃなかった。

お線香のにおいが立ち込める、薄暗い部屋にお父さんはいた。

顔に白い布を掛けられたお父さんは、冷たくなっていた。

おじちゃんが白い布を取ると、お父さんは眠っているみたいだった。

「おじちゃん。お父さんは眠ってるの?」

「そうだな。まるで眠っているように見えるよな」


あたしは唯一の家族をこの日失ってしまった。


渇愛1【完】


※この作品は電子書籍版をホームページで販売しています。

こちらの公開版は試し読みとなっております。

電子書籍をご購入の際は渇愛2よりお買い求めください。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

渇愛 桜蓮 @ouren-ouren

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る