看板
こんなに朝早くから出歩くことなんてなかったけれど、人も馬車も結構動いているものだ。
そんなことを考えながら、私は”とある看板”を探して町を彷徨っていた。
あの看板を、私は見たことがなかった。でも、間違いなくこの町のどこかにあるはずだ。
「すみません、ナイフとフォークがお皿の上で交差しているような看板を見たことはありませんか?」
通りすがりの男に聞いてみる。
「看板? さあ、知らないな」
「そうですか。ありがとうございました」
食堂の看板だと思って男を中心に聞いて回るが、まるで手応えがない。
「すみません、ナイフとフォークが……」
「ごめんなさい、急いでるの」
女性にも声を掛けてみるが、取り合ってもくれなかった
朝の通勤時間帯。誰もがどこかに向かって急いでいる。声を掛けられて、迷惑そうな顔をする人がたくさんいた。
それでも、私は止めるわけにいかなかった。
絶対にあの看板を見付けなければならないのだ。
私はとにかく歩き回った。
私はひたすら聞きまくった。
だけど。
もうすぐ昼になるというのに、手掛かりは何一つなかった。
挫けそうになる心に鞭打って、私は顔を上げる。鉛のように重い足を叩いて、私は歩き出す。
だけど、ちょっと限界かもしれない。頭がクラクラしてきた。
私は、街灯の支柱に体を預けて目を閉じた。
その時。
「お前、こんなところで何してるんだ?」
目の前で声がした。
「……アーロン?」
目を開いた私の前に、ヤクザ殿がいた。
「店の扉に、臨時休業なんて張り紙がしてあった。定休日以外にお前が店を閉めるなんて、今までなかったはずだ」
ヤクザ殿が、私の顔を覗き込む。
「一体、何があったんだ?」
真剣なその顔を、私はじっと見つめた。その顔を見て、なぜだか急に泣きたくなった。
私は、思わずヤクザ殿の腕を掴む。
「看板を探しているの」
「看板?」
首を傾げるヤクザ殿に、私が看板の特徴を伝える。
「その看板を見付けたいの。絶対に見付けなくちゃいけないの」
まさに藁にもすがる思いだった。
私をじっと見つめていたヤクザ殿が、震えている私の足を見て言う。
「お前、朝食は食べたのか?」
「え? 食べてないけど……」
「飲み物は飲んだのか?」
「飲んで、ない」
答えを聞いて、ヤクザ殿が大きくため息をついた。
「飲まず食わずで半日歩き回れば、動けなくなるのは当然だ」
そういうと、私の手を掴んで歩き出す。
「まずは何か食え。じゃなきゃ、看板探しもできやしない」
驚く私の手を引いて、ヤクザ殿は近くの食堂に入っていく。そして、テーブルに無理矢理私を座らせると、メニューを広げて言った。
「何でもいいから腹に入れろ。そして、ここで少し休んでろ。俺がその看板を探してくる」
「え?」
目を丸くする私を見向きもせずに、ヤクザ殿は店を出て行った。
「何なのよ」
呆然としていた私は、隣のテーブルから漂ういい匂いで我に返る。途端にお腹がきゅぅと鳴った。
とりあえず、私は何か食べることにした。
ご飯を食べ終えてお茶を飲むと、体も頭もシャキッとした。ヤクザ殿の言う通り、どうやらエネルギー切れだったらしい。
「さて、どうしようかしら」
カップをコトリと置いて、私は考える。
ヤクザ殿はここで休んでいろと言ったが、いつまでも店にはいられない。店の女将さんが、食べ終わったなら出て行けとばかりに私を睨んでいる。お昼時に長居する客は、たしかに迷惑だろう。
私は、とりあえず店を出ることにした。
精算を済ませ、店の前に立って待つ。すると、いくらも待たないうちにヤクザ殿がやってきた。
「見付けたぞ」
「ほんと!?」
身を乗り出す私に、ヤクザ殿が言った。
「ここから四ブロック先の通りに、それっぽい看板があった。一緒に来て確かめてくれ」
「分かったわ」
前を歩き出したヤクザ殿について、私も歩き出した。
ヤクザ殿には感謝だ。後で何かお礼をしなくちゃいけない。でも、それを考えるのは後回し。
その看板を見付けたとして、その後どうすればいいのか、じつはあまり考えていなかった。とにかく看板を見付ける。そして、そこで起きる出来事をどうにかして防ぐ。
考えながら歩いていると、前から声がした。
「あの看板を見付けて、お前は何をするつもりなんだ?」
ヤクザ殿が聞いてきた。
「今、それを考えてるところ」
私の答えに、ヤクザ殿は驚いたようだ。
「お前、バカなのか?」
「うるさい!」
私は背中にパンチを食らわした。
ちょっとよろけたものの、ヤクザ殿はそのまま歩き続ける。そして、意外なほど真剣な声で言った。
「俺に、何かできることはあるか?」
今度は私が驚いた。
大きな背中を目を見開いて見つめる。
考えてみれば、ヤクザ殿には看板を探す理由を話していない。それなのに、黙って看板を探してくれて、その上さらなる協力まで申し出てくれている。
「どうしてそんなに、私のことを気にしてくれるの?」
私が聞くと、ヤクザ殿は、妙な間を空けてから答えた。
「……ショバ代をもらっているからだ」
そんなはずはない。いくら私だって、ショバ代の意味くらい分かる。
「それが理由じゃないわよね?」
私の声に、背中が黙った。
いったいどうして……
その時。
「あの看板だ」
ヤクザ殿が、通りを挟んだ向こうを指さした。
私が指の先を見る。
「あれよ!」
思わず私は叫んでいた。
間違いない。”昨日の夜”私が見た看板だ。看板の掛かっている壁の色も、店の入り口も窓の形も、私の記憶の通りだった。
そこは、やっぱり食堂だった。窓越しに男たちが食事をしているのが見える。
私は周囲を見回した。
人通りは結構多い。そして、通りには馬車も走っている。
私の記憶は、その出来事の前後のごく短い時間だけしかない。だから、因果関係がよく分からなかった。
どうしたら……
ワンワンワン!
突然、激しい犬の鳴き声が聞こえた。
直後。
ヒヒーン!
荷馬車の馬が、驚いて竿立ちになる。
「こらっ、落ち着け!」
御者台の男が焦って声を掛けるが、馬にその声は届かなかった。
パニックを起こした馬が、猛スピードで走り始める。
「逃げろ-!」
周りの人たちが慌てて逃げていく。
その混乱の中、私は一歩も動けずにいた。
あの馬車!
私が目を見開く。
次の瞬間、看板の店の扉が大きく開いた。
「こら、待ちなさい!」
女性の声と同時に、男の子が店から飛び出してくる。
男の子は、そのまま通りへと駆け出していった。
そこに、暴走した馬車がやってきた。
「きゃあ!」
悲鳴が響き渡る。
追い掛けてきた母親の目の前で、馬が男の子を弾き飛ばした。
男の子が地面に転がる。
地面が、真っ赤な血で染まっていった。
「子供がはねられたぞ!」
大人たちが男の子に駆け寄っていく。
「誰か医者を!」
叫ぶ男の後ろで、母親がガタガタと震えていた。
大人たちに囲まれた男の子は、ピクリとも動かなかった。
防げなかった。
やはりそれは起きてしまった。
私は泣いた。
驚くヤクザ殿の前で、私はただただ泣き続けた。
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