第387話 魔族イグニス
冬だというのに肌にまとわりつくような生温い風が抜けた。禍々しく澱んだ空気に濃い血の臭いが混じっている。アルフェがそれとなく施してくれている風魔法がなければ、何度嘔吐したかわからない。防ぎきれない腐臭の濃さは、それだけ僕たちが核心へと近づいている証だろう。
「……マスター」
大きく崩れた
「ここが、
見覚えのある闘技場の床が幾重にも折り重なり、最終沈殿池と同じデモンズアイの血涙で満たされた空間の上に不気味に浮かんでいる。直径160mほどの円形の空間は、異様としか言い表せない空気で満ちている。
「……リーフ、あれ……」
アルフェが震える声を絞り出した先――地下空間の最奥には、白い塚のようなものが築かれている。瓦礫を土台したその上には、十字架のようなオブジェが無造作に刺さっていた。そして、そこには――
「エステア!!」
誰よりも先に気づいたのはホムだった。均整を崩して血涙の池へと大きく傾いだ十字架のオブジェには、エステアが
「ダメ、ホムちゃん!」
僕よりも早く反応したアルフェが声を張り上げる。だが、ホムは振り返ることなく血涙の池を飛び越え、白い塚を駆け上がっていく。その頂上に現れた人影は恐らく目に入っていないだろう。
「ホム、罠だ!」
「来たか、ヒトモドキめ!」
僕の声とイグニスの嘲笑が重なる。
「させない!!」
瞬時に反応したアルフェが、無詠唱で
白い土煙が上がり、辺りを白く濁す粉塵で視界が阻まれる。咄嗟に顔を背けると、飛び散った白い破片が血涙の池に幾つも落ちて浮かんでいるのが見えた。
「骨……」
白い塚の正体が露わになり、アルフェが引き攣った声を上げて絶句する。
「ああ、そのようだ。あれは骨の山に築かれた祭壇か……」
魔族の忌まわしき儀式の予感が脳裏を過る。アルフェが風魔法を駆使して立ち込める粉塵を払うにつれて、その予感は核心に至った。
祭壇の周りには、恐らくデモンズアイの血涙で描かれたと思しき赤い線が幾つも引かれている。遠目でははっきりとは分からないが、魔族が用いる邪法の魔法陣であることは明らかだ。
祭壇を構成しているのは、恐らく無数の魔獣の骨だ。僕とエステアがかつて地下通路に入った時、スライムを見たのは偶然ではなかった。イグニスは、スライムを使って魔獣を狩り、密かにこの場所に邪法のための祭壇を築き上げていたのだ。
使われているものから、この場に必要な『素材』がなんであるかはすぐに理解出来た。生け贄だ。この邪法の魔法陣を行使するためには、生け贄が必要なのだ。
「ホム、戻れ!」
「ですが、エステアが!」
僕と同じ知識を持つホムが、僕と同じ結論に至っていることは想像に難くない。その証拠にホムは僕の命令に、異を唱えている。
「落ち着くんだ、ホム。エステアを生け贄にするつもりなら、もうとっくにやっているはずだ」
エステアが生け贄である可能性は高いが、狡猾なイグニスの企みはそれだけでは終わらない。僕たちが来ることを予測し、敢えて見せつけているこの状況がなんのためなのか、考えなければならない。
「エステアは人質だ。今はイグニスを刺激したくない」
「ハッ! どこまでも冷静でいやがる」
僕の発言に口を挟んだのは、イグニスだった。嘲りの笑みを浮かべてこちらを見下ろしていたイグニスが、忌まわしげに魔獣の頭蓋骨を蹴り落とした。
「イグニス……」
「下がれ、ヒトモドキ。命令を忘れたか?」
忌むように呟くホムに、イグニスが冷笑を浴びせる。ホムンクルスであるホムにとって、僕の命令は絶対なのだと知らしめるような笑みだ。
「…………」
ホムは反論することもせず、イグニスとエステアを注視しながらこちらに戻ってくる。その肩が震えているのに気づかない振りをして、僕はアーケシウスを一歩前に歩ませた。
「なにが目的だ、イグニス?」
「さんざん俺様の邪魔をしておいて、聞きたいことはそれか?」
問いかけにイグニスが、前髪を掻き上げる。見た目では人間となにひとつ変わらないが、彼が魔族であるという確信が僕の中で決定的になった。
「デモンズアイを召喚したのは、やはり君か……」
出来れば信じたくなかったが、最早疑いようがない。イグニスももう隠す気さえないことがはっきりとわかった。
「そのとおりだ。最早隠す必要もない。本来なら昨日の時点でこの美しい地獄と絶望で建国祭に華を添えてやるつもりだったが、貴様らのライブで台無しにされたからな!」
アルフェがさりげなくかけてくれた遠視魔法が、骨で築かれた塚に描かれている赤い線が魔法陣を構成していることを見抜かせてくれる。イグニスが食堂に運び込ませていた絨毯と同じような紋様は、恐らく魔界への転移門を開くための邪法の魔法陣だ
「あの絨毯は、やはり魔族が使う魔法陣だったという訳だ」
「俺様のデュラン家の贅を尽くしたパーティが、何故ヒトモドキの屋台に負ける? ライブに負ける? ……貴様らのせいで、急遽サブプランに移さなければならなかったが、こっちは見てのとおり成功だ」
イグニスが僕の問いかけに過剰に反応する。僕たちも気づいていないうちに、最悪の状況をどうにか切り抜けていたらしい。
時間を稼ぐ必要がある。イグニスが何らかの理由で止めている起動の条件を探り、阻止する方法を見つけなければならない。
「……魔族の襲撃としては、類を見ない規模だろうね。少なくともアルカディア帝国に於いては」
アルフェへと視線を移すと、アルフェは眉を下げて首を横に振っている。イグニスが自分の正体が魔族だと認めてもなお、アルフェの浄眼には、イグニスにはエーテルが通った人間に見えているのだ。
「……どうしてこんなことをした? 君は人間だろう?」
「黙れ!」
怒声と同時に無詠唱の炎が飛んで来たが、アルフェが風魔法で相殺する。空中で爆ぜるように散った炎は、血涙の池に落ち、なんとも名状し難い悪臭を放った。
「その言葉、俺様への侮辱と受け取っていいか?」
衝撃よりも諦めが勝った。イグニス・デュランがどのような人物であったかは、最早僕には知る由もない。目の前の人間は魔族なのだ。
「……君は、魔族なんだね、イグニス」
「はははははっ! 何を今更! この器こそ人間のものだが、宿る魂はこの俺様――魔王ベルゼバブ様に忠誠を誓った誇り高き魔族の戦士のものだ!」
マリーの言っていた通りだ。やはりイグニス・デュランは、魔族に身体を乗っ取られてしまっている。目の前のイグニスの魂は魔族そのものだ。
「じゃあ、元のイグニスさんって……」
「中身のことか? もちろん喰っちまったよ。あれは傑作だったぜ。泣きながらしょんべんちびって、『家に帰らせてくださいとかなんでもします!』とか言って命乞いしやがった。ははっ! 約束通りちゃぁんと身体だけは家に帰してやったぜ! だから今こうしてデュラン家の長男として俺様が君臨してるわけだ! ははははははっ!」
嘲笑が地下空間に輪を成して響いている。耳障りな甲高い笑い声だ。
「そんな……どうして……」
アルフェの震える声に追い打ちを掛けるように、イグニスが邪悪な笑みを浮かべる。
「人間への復讐のために決まっている。ベルゼバブ様をはじめ、俺様たち魔族は人間への恨みを片時も忘れたことはない」
「君を突き動かすのは、三百年前の人魔大戦の恨みか」
「そうだ。それ以外になにがある!?」
イグニスが語気を荒らげ、身を乗り出して僕たちを見下ろす。
「人魔大戦は人間側の勝利だ。勝敗は今更覆るものではない。なのになぜ、今さらこんなことをする?」
「ハッ! そんなこともわからないとは、笑わせるな。魔王ベルゼバブ様に仕える戦士として、俺様は魔族の悲願である人類抹殺を遂行するのみ。人間の器に入るという屈辱を以てしてもなお果たすべきは人間への復讐であり、再侵攻の狼煙だ」
イグニスの目的はわかった。デモンズアイを召喚した理由にも合点が行く。だが、その目的を果たさせるわけにはいかない。
「それだけの手負いの状態で君に利があるとは思えない」
「甘く見るなよ。俺様は魔王に選ばれた精鋭で、この作戦の中核を担う存在だ。だが、忌々しい
イグニスが怒りを露わにしながら、十字架に
「……君がどれだけ計画的に今回のことを準備していたかは、よくわかった。だけど、もう終わりだ。これ以上好き勝手にはさせない」
「虫ケラどもに邪魔されようとも、俺様の崇高な計画は必ず実現させる。まだだ、まだ、まだ、まだ! 終わってはいないぞ!!」
アーケシウスを血涙の池へと進める。下等魔族が湧いてくるほどの邪力はもうここにはない。今、僕たちが倒さなければならないのは、イグニスただ一人だ。
「本物のイグニスの魂を喰って成り代わり、学園に入り込んで生徒を生け贄にしようとした……そういう計画を立てていたんだろう。だが、君はエステアに負けた」
「なんとでも言え。そのエステアも今日で終わりだ。こいつを破滅に追い込み、復讐に巻き込むことで我が悲願は漸く叶うのだからなぁ!」
イグニスが骨の山を蹴り、アーケシウスの上に頭骨を降らせる。アルフェが的確に風魔法で払ってくれるので、僕は冷静なままでいられる。
「……その邪悪な祭壇もどきは転移門か」
「貴様に俺様の惨めさがわかるか。デュラン家の富を以てしてなお、手に入れることのできなかったものを、この女にかすめ取られた屈辱が!!」
イグニスが僕たちに見せつけるように、エステアの髪を強く掴んで持ち上げる。
「エステア!」
ホムの悲鳴のような声が響き渡り、イグニスが勝ち誇ったような笑みを浮かべたその刹那、意識を取り戻したエステアが僅かに身じろぎした。
「……ホム……」
微かな声だが、その声は僕にもはっきりと聞こえた。
「リーフ、エステアさんが……」
「しぶといヤツめ。大人しく眠っていればいいものを……」
イグニスが荒々しくエステアの身体を蹴る。エステアは低く呻いてがくりと頭を下げた。
「……いや、寧ろ好都合か……。これだけの屈辱を与えてくれた奴等を前に、ただ魔界に戻るのはつまらん。手土産が必要だ」
イグニスが再びエステアの髪を掴んで顔を上げさせ、強引に僕たちの方を向かせる。
「貴様らを殺し、その死体を
「……マスター……」
両の拳を強く握り締めたホムが、アーケシウスの上に飛び乗る。
イグニスが魔族とはいえ、三対一で戦闘用ではないにしても
「……僕たちは負けない。手負いの君に勝ち目はない。諦めて投降――」
「貴様、誰に向かって言っている!?」
意を決した僕の発言に、イグニスが怒りを露わにし、赤黒く渦巻く炎を仕向ける。
「はぁあああああっ!」
苛烈な渦を巻き襲いかかる炎をホムが
「あぁあああああああっ!! 調子に乗るなよ! ヒトモドキどもがぁあああああぁっ!!!」
叫びと共にどこからともなく具現した無数の炎がイグニスの身体を持ち上げていく。巨大な火球が骨の塚に禍々しく浮かび上がり、エステアを捕らえている十字架の回りにも火が移る。
「エステア!!」
飛び出したホムにイグニスの無詠唱の火炎弾が雨のように降る。ホムは咄嗟に身体を丸め、骨で築かれた斜面を転げていく。
「はははははは、ははははっ! 逃げても無駄だ! 貴様らは惨殺してもなお足りんぞ!!」
禍々しい炎の珠に、両腕を広げたイグニスが呑み込まれていく。その身体は炎が膨らむにつれ、人間の姿から獣の姿へと変化し始めた。
四メートルはあろうかという火柱が立ち上り、白い骨を焦がしていく。地涙の池が沸々と沸き立ち、アルフェが防護魔法を駆使して僕たちを守っていなければ、ひとたまりもない威力だ。
炎の中のイグニスは人の姿を捨て、魔族の姿に完全に成り代わった。大きく裂けたような口から迸るのは、人魔大戦を彷彿とさせる魔族の咆吼だ。
「あれが、イグニスの本当の姿……」
その姿を、僕は知っている。あれは人魔大戦の頃に見た――
炎を操る凶悪の魔族『獄炎獣イフリート』だ。
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