第378話 ハーディアとミネルヴァ
来賓室を出ると、外でアルフェとホムが僕を待っていた。
「もう大丈夫なのかい?」
「うん」
問いかけに頷くアルフェは、顔色も良さそうだ。けれど、ホムはともかくとして、アルフェがこんなにも早く魔力切れから回復するなんて、一体どんな点滴を受けたのだろうか。
「その匂いは魔女の秘薬か。配合も優れているな」
「匂いでわかるものなのですか?」
どうやら、マチルダ先生の家に代々伝わる特別な薬草を使ったらしい。匂いを嗅ぎ取ったハーディアが、僕の問いかけに当然だと言いたげな笑みを浮かべた。
「わらわは特別じゃ」
「黒竜神様だもんね」
「わかってきたではないか。ところで、わらわに言いたいことがあるようだが?」
アルフェに微笑みかけたハーディアが、小首を傾げて目を細める。自分の考えていたことを見抜かれたアルフェは目を瞬き、それから言いにくそうに僕とハーディアを見比べた。
「……その……神事にリーフを呼んだのって、もしかして、リーフのエーテルをなくすためだったんですか? リーフが、聖痕がないのに光魔法を使ったから……」
言葉を紡ぐ声が震えている。今にも泣き出しそうな顔で話すアルフェにハーディアは目を丸くし、それからわざとらしいほどの大声を上げてその考えを笑い飛ばした。
「はははっ! さすがにわらわでも、その者が持つエーテルをなくすことはできんな。……のう、リーフ。わらわの授けた鱗の効果は覿面じゃろう?」
「ありがとうございます」
ハーディアに同意を求められ、僕は首から提げていた黒竜鱗のペンダントを取り外す。
このペンダントは首から提げることで効果を発揮する。だから、首から外すと手に持っていたとしても効果が微弱になるのだ。
「えっ!? エーテルが戻った!?」
そのことを知らないアルフェが驚きの声を上げると、ハーディアは楽しげに肩を揺らし、また笑った。
「こやつのエーテルは、魔族に対して目立ち過ぎるからな。今後どこで魔族に狙われないとも限らん。……というわけで、嗅ぎつけられぬよう隠せるようにしたのじゃ」
「そうだったんだ……」
ハーディアが笑いかけてくれるので、幾分か緊張も和らいだらしい。アルフェも明るい顔になると、安堵したようにそっと息を吐いた。
「とはいえ、四六時中つけている必要はないぞ。肌身離さず持ち、必要な時に身に着けるのじゃ。でないと、お前のエーテルを拠り所にしているアルフェに気の毒じゃろうからな」
「なんでもお見通しなんですね。……本当に、ありがとうございます」
ハーディアに僕たちのことを認められたようで嬉しかったのだろう、アルフェの頬が薔薇色に染まっている。
「聖痕も持たずに光結界魔法を展開出来たのは、お前の支えもあったことだろうからな、アルフェ」
「ミネルヴァさん……」
ミネルヴァから思いがけず優しい言葉をかけられ、アルフェの目は潤んだ。
「良い機会だから私から言い添えておこう。ハーディア様がリーフに渡したその黒竜鱗のペンダントは、黒竜神の寵愛を受けた者の証だ。まあ、寵愛といってもお気に入り程度だがな。それ以上の寵愛を受けた者は私のように紋章を刻まれるのだ」
ミネルヴァがそう言いながら額の紋章を示す。それを見上げたハーディアはからかうように目を細めた。
「さりげなく自慢するでないぞ、ミネルヴァ」
「自慢ではありません! 茶化さないでください、ハーディア様」
ああ、短いこの会話からでもハーディアとミネルヴァの関係性が伝わってくる気がするな。この二人は単なる主従の関係というよりは、もっと深いところで繋がっているような気がする。目を合わせる時に瞳が優しい光を宿すのは、僕の見間違いではないだろう。
「とにかく、丁重に扱うことだ。一介の民、しかも子供に対してハーディア様が寵愛の証を御自ら渡すほどお前のことが気に入ったということだ。これは例外中の例外であるぞ」
「そんなに凄いものを……」
ハーディアは気楽に渡してくれたが、それはプレッシャーを感じさせないための配慮だったのかもしれない。ミネルヴァから改めて価値を知らされ――これは神事ではないので雑談としての扱いになるのだろうが、僕は身の引き締まる思いがした。
「……いいか、肝に銘じろ。お前の立場は、今後は黒竜騎士と同列に扱われることとなるだろう。平時まで干渉することはないが、有事は特別だ。お前の身に――あるいは、お前の仲間の身に危険が迫ったとき、黒竜教の信徒たちは必ずやお前の力となることだろう」
「ありがとうございます」
ハーディアとミネルヴァの様々な配慮を僕たちに向けてくれる眼差しに感謝しながら、僕は深々と頭を下げる。
「そう畏まることはない。ミネルヴァとお前たちは同志となったのだからな。そうだろう、ミネルヴァ?」
「ハーディア様がお決めになられたことは絶対ですからね」
神事ではないということもあり、あくまで柔和な態度でミネルヴァが認めた。怖そうな人という印象が強かったが、それはミネルヴァの黒竜将としての一面でしかないのかもしれないな。
「……というわけだ、何か困ったことがあれば竜都ドラバニアに来るといい。出来る限り力を貸そう」
ミネルヴァが微笑んで手を差し出したので、敬意を込めて両手で握り返した。
「ありがとうございます。もしもの時は、頼らせてください」
僕の発言にミネルヴァは優しく頷く。こうして味方になるという意思を、神事という手順を踏んでから丁寧に伝えてくれたことが嬉しかった。今見せてくれているこの姿が、きっと素の彼女たちなのだろう。
「さて、神事も終わったことであるから、菓子でも頂くとするか」
僕とミネルヴァのやりとりを見守っていたハーディアが、両手を上に上げて伸びをしながら声を上げる。
「さっきさんざん捧げ物を召し上がったばかりではありませんか」
「足りなければまた貰えると聞いたぞ。特にあのサクサクとした軽い食感のクッキーとやらはやみつきになる味じゃ。甘すぎないのもいいし、綿飴と交互に食べるのも至高じゃ」
ハーディアがにんまりと笑って、宙に指先でクッキーのかたちを描く。話を聞いていたアルフェが思い出したようにポケットを探った。
「それって、リーフのレシピで作ったクリーパー粉のクッキーだよね。確か……」
そう良いながら取り出したクッキーを見て、アルフェが悲しげに眉を寄せる。だが、ハーディアはそれに気づいていないのか嬉しそうにアルフェの手のひらに手を伸ばした。
「おお、それじゃそれじゃ」
「でも……」
アルフェがおずおずと差し出したクッキーは、袋の中で割れて粉々になってしまっている。あの激しい戦闘の後だ、こうなっていても仕方がない。
「わらわはそれで構わぬ」
にんまりと悪戯っぽい笑みを見せたハーディアが、袋を開け、粉々になったクッキーを左の手のひらに落とす。そこにさっと右手を翳すと、クッキーは元の形に戻った。
「ほほう。ハート型か。良い趣味だな」
ハート型のクッキーを摘まみ上げたハーディアが、美味しそうに頬張る。
「ハーディアちゃん、凄い……」
「また、ハーディア様に『ちゃん』などと……」
驚きと喜びで目を輝かせるアルフェに、ミネルヴァが苦笑を漏らす。ハーディアはゆっくりとクッキーを咀嚼しながら、ミネルヴァの腕を肘で小突いた。
「神事でもないのにいちいち堅苦しいことを言うでない。魔族どもの邪魔が入らなければ、わらわはこの建国祭をもう少し楽しめたのじゃからな」
「ハーディア様、御身は黒竜教の御神体なのですよ。もっと威厳というものを大事にしてください」
いつものお説教が始まったとばかりに、ハーディアは耳に小指の指を突っ込んでわざとらしく視線を逸らしている。
「偉そうに振る舞うのは若い頃にやり飽きたのじゃ。わらわはもっと自由に、民というものを知り、自らの守るべき者を見極めたいと思っておるのじゃぞ」
「ダメです。今回は無理矢理神事ということで、黒竜騎士団が事後処理を担うわけですが、兎に角大変なのですよ。ご自由に振る舞うのも大概にしてくださいませ」
ミネルヴァがかつかつと靴音を鳴らしてハーディアの正面に回り込むと、ハーディアは観念したように耳を塞いでいた指を下ろし、ミネルヴァを見上げた。
「はぁ……。わかったわかった。あまり怒ると眉間の皺が増えるぞ、ミネルヴァ」
そう言うと同時に宙に浮き上がったハーディアが、ミネルヴァのおでこをつんとつつく。その瞬間、ミネルヴァの顔色が変わった。
「ハーディア様、あなたという御方は……」
耳まで真っ赤にしたミネルヴァが、困ったように眉を下げ、溜息を吐く。
「こんなことで誤魔化しても通じませんよ。一刻も早く神殿に戻って頂かなくては」
怒るに怒れなくなったのだろう、ミネルヴァの声が幾分か柔らかなものに変化している。
「そんなに慌てんでも良いではないか。わらわは、この危機を乗り越えた勇敢な生徒たちとの交流をだな……」
「もう充分です。講堂前の広場から竜都へ飛びますよ」
ハーディアの言葉を遮り、ミネルヴァがハーディアの前に傅く。ハーディアは嫌そうに爪先を鳴らして腕組みをしていたが、やがて諦めたようにミネルヴァの肩に手を置いた。
「……ホムちゃん」
「知らせて参ります」
二人の様子を見ていたアルフェが、ホムに合図する。ホムは頷くと、ハーディアとミネルヴァに中座を告げる会釈をし、足早に教室の方へと向かって行った。
「なにかあるのかい?」
僕の問いかけにアルフェが楽しげな笑みを浮かべる。
「まだ秘密。こういうのって、サプライズにした方が嬉しいと思うから」
アルフェの配慮を感じ取ったのか、ハーディアもミネルヴァも問いかけを向けては来ない。アルフェが楽しげにしているのを見る限り、きっとハーディアとミネルヴァを喜ばせるなにかを考えているに違いない。そこまでは想像出来たけれど、あまり深くは考えないでおこう。その方が、きっと新鮮な気持ちを味わえるはずだから。
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