第230話 決戦前夜

 敗戦のあとということもあって気を遣ってくれたのか、ヴァナベルたちには会えなかった。それを気にしている間もなく、詰め込むように夕食を食べた僕は、食堂の人たちの厚意で夜食のパンを幾つか持たされてバックヤードでの作業に戻った。


 アイザックとロメオも根気よく僕に付き合ってくれ、一人でやるつもりだったアーケシウスの整備もかなり順調に進めることができた。


 とはいえ、機体整備が終わって寮に戻った頃には、午前零時を回ってしまっていた。いつもならば門扉が閉ざされている時間ではあるのだが、今日だけは特別だとウルおばさんが寮の玄関の明かりを灯して僕たちを待っていてくれたのだった。


「……ただいま」


 既に眠っているはずのホムを起こさないよう気を配りつつ、万一起きていたときのためにそっと声をかける。手早く風呂に入って機械油などの汚れを落とし、こんな使い方は邪道だと思いつつも真なる叡智の書アルス・マグナの風魔法を使ってざっと髪を乾かした。乾燥魔導器ドライヤーの音でホムの眠りを妨げるよりは、ずっといいだろう。


「……マスター?」


 寝間着に着替えて部屋に戻ったところで、薄闇からホムの声がした。


「ああ、ごめん。起こしてしまったかな?」


 心細そうな呼びかけだったのが引っかかりながら、それを指摘せずにいつものように振る舞う。ホムは僕のベッドの方に寝返りを打ち、緩く頭を振るような仕草をした。


「眠ろうと努力はしているのですが、緊張で眠れないのです」


 ああ、激励にきたとはいえ、エステアとメルアのあの余裕を目の当たりにすればどうしても身構えてしまうだろうな。


 二人に全く他意がないことを理解してもなお、傷心のホムには自分にはそれだけの自信も余裕もないと見せつけられたように感じてしまったのかもしれない。


「おいで、ホム」


 ベッドに入りながら、そっとホムに呼びかける。


「はい」


 短い返事ではあったけれど、ホムの声が僅かに明るくなったことがわかった。僕に求められるとき、必要とされるとき、ホムは至上の喜びを感じる。それは僕がホムをそのように作ったからだけれど、でも、そこから自分の幸せというものを見つけてほしいと思った。


 ベッドに入ってきたホムをいつものように抱き締め、頭をそっと撫でてやる。


 ホムの身体から余計な力が抜けて、安心している様子が伝わってきた。こういう素直な反応は、僕も間近で感じていて嬉しい。


「落ち着くかい?」

「はい。でも、そろそろ――」


 遠慮してベッドから抜け出そうとするホムを、僕は抱き締めて引き止めた。


「いいんだよ。今日はこのまま一緒に眠ろう」

「……マスター?」


 ホムが目を瞬き、僕を見つめてくる。


「親子とは、こういうことをするものなんだ。僕も不安なときは、母上にこうしてもらった」


 もっともそれについては今よりずっと幼い頃のことなのだけれど。でも、無償の愛というのを感じたのは託児所に初めて預けられ、不覚にも熱を出してしまったあの夜のことだ。


 夜、ひとりで過ごすときに感じてしまった心細く不安な気持ちは、こうして誰かと抱き締め合うことで、絡まった糸がほぐれるように軽くなる。そして穏やかな眠りを連れてきてくれるのだ。


「……あたたかいです、マスター」


 ホムが僕の身体におずおずと手を回し、抱き締め返そうとしている。僕が言わんとしていることが伝わったようで、僕は頬が緩むのを感じた。


「ホムがしたいようにするといい。アルフェにさんざん抱き締められてきて慣れてるから、眠りを妨げることもないよ。寧ろ昔を思い出して安心して眠れるかもしれない」

「そうなのですか?」


 ホムには僕の記憶を共有している。僕が言っていることが嘘ではないことはすぐにわかるはずだ。それでも、僕が感じた感情というものは知っているだけでは理解し難いのかもしれないな。


「試してみるかい?」


 見上げて問いかけると、ホムは頷いて僕をそっと抱き締めた。はじめは怖々としていたその腕は、僕のぬくもりを求めるように少しずつ強くなった。


「……こうでしょうか?」

「うん。いいね。僕もホムに倣おう」


 ホムがしてくれているように、ぎゅっとホムを抱き締め返す。ホムはそれに身体の力を緩め、安堵の息を吐いた。


「これがマスターが感じていた、幸せというものなのですね」

「そうだよ、ホム」


 僕が応じると、ホムは目を閉じて甘えるように僕の髪に顔を寄せた。



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