もういちど、閑話(七月)


 まあ、どうせ井奈さんとの情報交換に時間は使ってしまったのだから、もうちょうど正午になることだし、和ヶ倉さんを起こしてやることにした。どちらにしても教室には荷物を置きっぱなしだ。それを回収するついでである。


「つーわけで、ごはん行こうよ、アサヒくん」


 などとお誘いくださった井奈さんは、「校門で待ってるから、早くねー」と、先に行ってしまった。まったくもってなにがどう「つーわけ」なのかは解らなかったけれど。そんな彼女に「あれ、荷物は?」と、手ぶらだった点に不信感を覚え、問うと、「起き勉―」となにごともなく答えが返ってくる。……明日もテストなのだけれど、勉強しなくていいのか? そう思えど、もう問い質せる距離ではなかった。まあ、他人のことなど知ったことではない。むしろ明日こそ僕の苦手な英語のテストである。井奈さんと食事に行くくらいはいいとしても、帰ったらしっかり勉強をしなければならない。


「やれやれ――」

 と、僕は辟易しながらとりあえず、トイレに入った。井奈さんに付き合うのは、正直、ちょっと疲れる。それでも彼女との情報交換は有益だ。それに、やはりこんな現状、秘密を共有できる相手がいるのは心強い。疲れるとはいえ、決して嫌悪するほどの相手でもないのだし。


 そういう倦怠と、明日のテスト、あるいはそんな状況でも、いつあの夢のゲームがまた行われるか解らないという、若干の恐怖や、少しの期待。もっともっとゲームをクリアして、あの、声の主についての情報を得なければならない。言葉が交わせるなら――正確にはあのとき、言葉は一方的にしか響いてこなかったが――あの『神』のごとき存在も、僕たちと同じ人間であるとも考えられる。ただの人間が超常の力でもってあのゲームを開催しているとも。だったら、その当人に到達するのも、決して不可能ではない……かもしれない。

 その『神』に、現状、一方的だろうとコンタクトが取れたのが、あのゲームクリア時のみ。そしてあのとき――一度目のゲームクリア時に、『神』はこう言った。『一度目のクリア』、『レベル1へ到達』。これは、井奈さんのクリア時にも同じような単語が使われていたと、確認している。そしてその言い回しは、があることを示唆しているとも、とれる。であれば、またゲームをクリアすれば、あの『神』の声が聞けるのだろう。そして、クリアごとにレベルが上がり、『夢の記憶の持ち帰り』のような、特別な能力が得られる。そうやってゲームを進めていけば、やがてあの『神』にも到達しうる。……僕はゲームをさしてやらないけれど、そういうものではないだろうか? あんなふうに、ラスボス感を出している存在はどうせ、最後には倒されるのがオチだ。そのための主人公に、僕がなれるかどうかは……きっと、僕次第なのだろう。


「――――っ」


 うん? なんだ? つらつらと考え事をしてトイレに入ったのだけれど、その奥にある個室から、なんだか囁くような――無理に堪えているような声が、聞こえた。


        *


「あ……っ――――」


 どこか、甲高い、声。ゆえに僕は瞬間、トイレにおける男女の別を間違えたのかと思ってしまった。しかし、すでに僕は用を足していた。男子トイレにしかありえない、小便器に向かって。つまり、入り間違えたわけでは、決してない。


「ぅんん――っ!」


 であるのに、その声は――ほんのかすかにしか漏れてはこないけれど、、どう聞いても、女性のもののように聞こえてしまう。いや、そもそも声が漏れていること自体、怪訝でしかない。どれだけ踏ん張っているのだろう?


「だめ……んっ――――!!」


 ……どころじゃない。少しの間、現実逃避をしかけていたけれど、これは間違いなく、女子の声である。そう解ってみると、この立地が気になった。特段に気にせず、目についたトイレに入ってみたけれど、思い返せばここは、特別教室ばかりが立ち並ぶ、辺境のトイレだ。特別に校内の環境に詳しいわけではないけれど、普通に考えて、このトイレは利用頻度が少ないのだろう。つまり、人気がない。

 だったら、そういうこと・・・・・・に使われる可能性も、比較的高い。……そういうこと・・・・・・が現実で行われるなんて事自体を、僕は信じがたかったけれども、それでも、行われるとしたらこういう立地の場所なのだろう。


「ううんっ」


 咳払いをしておく。特段の警戒なくこのトイレに入った僕だ。すでに個室にいる誰かには僕の存在は知られているだろうが、改めて。そうすると個室から漏れる嬌声は、顕著に少し、小さくなった。


 どうして僕が気まずい気持ちにならなければいけないのか解らないが、とりあえずとっとと用を足して出よう。そう思う。僕は、僕がトイレを退出することを示すように、大袈裟に靴音を鳴らし、勢いよく蛇口を捻り、手を洗って廊下へ出た。強めに、トイレの扉を閉めて。


        *


 変な場面に遭遇してしまった。そう思う。というより、これも偏見だけれど、いちおうは進学校であるこの高校で、あんなことが行われているとは……少し、がっかりした。まあ、人間の三大欲求のひとつだ。そこに偏差値など関係はないのだろうけれど。


「……和ヶ倉さん?」

 僕は自らの席に、一度座り、荷物を纏めてから、後ろの席の彼女に声をかけた。和ヶ倉さんは今日も幸せそうに眠っている。


「もうお昼だけど!」

 声を張り上げてみる。まだ数人残って勉強などをしているクラスメイトの、とても静かな喧噪に、紛れる程度の弱い叫びだ。


「すぴー。……あと三年……」

 こいつは卒業まで――いや、それ以上に、眠り続けるつもりらしい。


「和ヶ倉さんっ!」

 さきほどの――妙な場面に遭遇してしまった鬱憤を晴らすようにも、僕は強めに、声を張る。それでも、いちおうは女子だ。その体に触れて、揺り起すには、僕のごとき童貞には荷が重い。ゆえに、せめて彼女の耳元に顔を近付けての叫びである。アホ面から発せられる女子の匂いが強くなった。だから、どぎまぎする。


「ホレイショー、おまえもか」

「……それはたぶん、ブルータスだな」


 なにがどうなってハムレットが関わってきたのかは、皆目見当がつかない。いったいどんな夢を見ているというのか。

 ともあれ、目覚めない和ヶ倉さんに嘆息し、僕はもう、諦めた。別段彼女を起こさなきゃならない義理もない。うん……もう、帰ろう。そう思って僕は、荷物を抱えた。


「そんなんじゃダメだぜ、分美」


 ふと、教室の後ろにある出入口――僕たちの席からほど近い――に、やつはいた。開いた扉に寄りかかり、無駄に気障なポーズで。


 僕の嫌いな、輝野かがの赤久あかひさが。


 彼は寄りかかった姿勢から、つかつかとこちらに歩み寄り、自然な動作で、和ヶ倉さんの丸まった背に片手を添えた。どこかいやらしい手つきだった。……あくまで公平を期すために言い直すなら、これは、僕の主観でしかない、けれども。

 それから、輝野は彼女の耳元に顔を寄せ、僕にも聞こえないくらいの囁き声で、なにごとかを紡いでいた。その距離は、僕が顔を寄せるよりよほど近くに。むしろ、触れているのではないか――口付けでもしているのではないかというほどの、至近距離だった。


「ふがっ――! ね、寝付きはいい方ですっ!」


 よだれを撒き散らすほどの勢いで、和ヶ倉さんは起床した。ていうかよだれを撒き散らしていた。僕にもかかった。言っておくが僕の業界ではこれはご褒美とは呼ばない。


「もうお昼だぜ、舞葉まいはちゃん」

 チャオ。と、えせイタリア人は笑顔で、和ヶ倉さんに手を振った。


「……おー、輝野くん。……ふむ、お昼。……あ、わたし、ごはん食って寝なきゃ!」

 んじゃ。と、颯爽と彼女は手ぶらで、なにごともなかったかのように教室を出て行った。口から垂れたよだれを、拭わないままに。


「なっ?」

 にかっと、輝野は僕に笑顔を向けた。


「あ、うん」

 仕方がないから僕も、おそらく引き攣っていたのだろう笑顔を、作ってみせる。


 ここで僕も、とっとと帰ってしまえばいいとも考えたが、それではなんだか、輝野を避けているみたいで悪印象だ。僕は彼を嫌っているけれど、それでも、敵を作りたいわけではない。嫌いだからこそ、波風は立てたくなかった。


「いったい――」

 だから、和ヶ倉さんをどうやって起こしたのか。それを問おうと、口を開く。その瞬間。


「赤くーん?」

 教室の外。さきほど輝野が入ってきた、出入口から顔を出し、やけにスカートの短い女子生徒が、不機嫌そうな顔で、輝野を呼んでいた。


「悪い、分美。俺も帰るわ」

 だから、輝野は、彼女に応える。……これも被害妄想かも知れないけれど、帰り際、どこか見下されたように、僕は感じてしまった。


        *


 井奈さんと昼食をご一緒して、僕は帰宅した。それから少しだらけてから、翌日のための勉強を開始する。……苦手な英語がメインとはいえ、やけに、手が進まなかった。


 あの、女子生徒、誰だっけな? 最後に輝野を迎えに来た女子が、なんとなく気になった。そうして気にしてみるに、すぐに思い出す。というか、記憶に残っていない方が、うちのクラスの一員としてはおかしな話だ。


 黒見原くろみはら麗音れいね。我がクラスの出席番号――12番。そう、クラス表を見て確認する。うちのクラスにおけるカーストトップのグループ。出席番号25番、花巻はなまきじょうさんがリーダー――のような立ち位置にいる、そのグループの、まあ、はたから見る限り、No.2のような存在の、女子である。あの様子だと、彼女は輝野と付き合っているのだろうか? いや、あの輝野のことだ。ただチャラチャラと、いろんな女子と遊んでいるだけかもしれない。

 と、なんとなく彼女、黒見原麗音さんを気にしてしまったのは、決して、彼女に気があるからではない。まあ、目立つグループにいて、その筆頭格の女子だから、身嗜みもおしゃれで、顔立ちもいいのは認めるが。ああいうギャルギャルした女子は、なんだか僕は苦手だった。僕はもっとこう、おっとりした、加賀殻かがからさんのような――って、それはいい。

 ただ、なぜ黒見原さんを気にしてしまうのかは、ともすれば解らない。なんだか、既視感というか、直近でどこかで、接点があったような気が……なんとなくするのだけれど。……しかし、僕のごとき最底辺の男子と、ほぼトップの彼女と、どんな接点があったのかは、考えても考えても、思い付かなかった。


 そうこう、なんだかもやもやとして進まない勉強を、適当なところで切り上げ、僕は日課になっている日記をつけて、眠ることにした。


 まだ、もやもやは消えない。そして、夏も始まっている。じめじめして、なんだか空寒くて、気色の悪い――どうにも寝付きの悪い、夜だった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る