崩れ落ちて弾ける
良くも悪くも、炭文字さんのおかげで冷静になれた。貝常くんのことも問題だが、これ以上、無理に探しても見つからないだろう。
三階の穴から落ちた貝常くんは、その真下、二階にも一階にも、結局いなかったのだ。もはや探すべき場所はない。それに、この状態の炭文字さんを連れて歩くのも正直、面倒だ。
ゆえに、やはりまずは、屋上である。屋上からの景色の確認。あわよくば、ヘリなどでの救助を求める。少なくとも現状、助かる見込みは屋上にあると考えれば、炭文字さんを屋上に残し、改めて貝常くんを僕ひとりで探しに行く選択肢もあるだろう。
「分美、テメエ、か弱い女の子をひとりほっぽって、どっか行くってのか?」
僕のプランを話したら、炭文字さんは、やはり怒りというよりは心細いような声で、ちょっとドスを利かせた。ちなみにスカート恐怖症により弱っている彼女のドスは、別段怖くない。むしろ可愛い。
「まあ、それもこれも、とりあえずは屋上についてからだね。僕らと同じ考えを持った誰かが、すでに屋上に集まっている可能性もあるし。それなら炭文字さんも、心細くないだろ?」
「う~ん……」
まだ納得していない様子だったが、炭文字さんは強い否定を示さなかった。とりあえずはこれでいい。まずは屋上へ行くことが先決である。
……ごめん、貝常くん。
*
さて、改めての階段登りである。登って、降りて、また登る。なんだか今日一日で――というかこの数十分でだいぶ階段昇降を繰り返していて、疲れてきた気がするのだけれど、不思議なことに疲労感はなかった。おかしいな。僕の経験上、これくらい動いたら足が痛くなってきてもおかしくはないのだが。
というか、ずっと裸足でいることの方が疲労の要因になっているはずなのだ。階段昇降による太ももやふくらはぎの筋肉疲労よりも、裸足で歩き続けていることによる足裏への痛みの方が、よほど堪えているはずだ。なのに、そちらに関してもまったく、痛みがない。
まあ、普段以上に痛むわけでもなし、むしろ痛まないというのだから、文句を言う気はないが……。
「話を整理すると、炭文字さんも気付いたら学校にいて、その理由も、あるいはこんな服を着ている理由も、心当たりがないんだよね?」
簡単に互いの状況を――情報を交換して、僕はまとめるためにそう言った。
「そうだよ。つーかんなことどうでもいいだろ。それより、さっきのテメエの、あたしについての噂は全部、デマだからな」
どうでもよくはない。というか、前者の方が現状、よほど重要な情報である。
が、確かに彼女の噂についての話もした。僕の知っている、彼女の噂。それらすべては、どうやら嘘であるらしい。彼女の外見や、ジャージを履いているときの態度から、噂がひとり歩きしたというところだろうか?
「ん? そういえば炭文字さん、入学後すぐに、ひと月ほど停学になっていたって聞いてたけど、じゃああれも、デマなの?」
いや、そんなはずはない。他の噂はともかく、そして、理由はどうあれ、彼女は停学にはなっていたはずである。一年次、僕と彼女は別のクラスだったが、彼女のことは知っていた。目付きや態度はともかく、180越えの高身長だ。彼女はだいぶ目立つ生徒に違いなかったし、その姿を入学後ひと月ほど、僕は見かけていない。あとは我が友人である
「あ、いや。停学はほんとだけどさ……」
炭文字さんはばつの悪そうな顔をして、口籠る。
「これもあくまで噂だけれど、入学早々、三年生の番長を倒して、それで停学になったって、僕は聞いていたのだけれど」
「それは違! ……わないかもしれないけど、違くて。なんつーか。その番長が、姉貴たちの敵対組織の末端構成員だかなんだかで、五人くらいであたしを襲ってきたんだ。それをまあ、ちょっと、ノしてやったっつーか……」
「ああ、……うん」
恐怖が蘇る。だいぶ彼女にも慣れて、普通に話せていたのに。僕は恋人繋ぎのその手のひらに、じんわりと汗を滲ませた。
*
そうこうして、とうとう三階まで登ってきた。階段を登り切り、確認する。貝常くんが落ちた穴は、変わらずそこに空いている。二階で天井を確認したけれど、別状なかった。こうなるとこの穴は、もう異次元な存在だと思うしかない。貝常くんは、もう、見つからないのかもしれない。僕は唇を噛み締め、彼を悼んだ。
それでも、いまは気丈に、前へ――上へ進むしかない。貝常くん。君の犠牲は、無駄にはしない!
……あれ、僕って人の――知っている人の死に対して、こんなに淡白な人間だったのか? いや、身近な人の死に面した経験が圧倒的にないから、比べることができないけれど。
「改めて、気を付けよう、炭文字さん。そこら中に穴が空いているかもしれないし、もしかしたら、急に足元が崩れるかもしれない」
僕が言うと、恋人繋ぎの彼女の腕に、ぎゅっと力が籠った。こうやって手を繋いで進むのも、ひとつの手かもしれない。片方が足を踏み外しても、引き上げることができるかもしれないし。……逆に助けようとして、引き上げる側が引きずり落とされる可能性もあるから、リスクも増えるわけだけれども。
それでも、誰かを助けられず、自分ひとりが生き残るくらいなら、僕は一緒に死にたい。それくらいには、身近な人を大切には思えた。
だから僕も、彼女の手を、少しだけ強く、握り返す。
「……分美」
神妙な声で、炭文字さんは言った。だから僕は、顔を上げる。ずっと下を気にして俯いていた、顔を。
「これ、登んの?」
彼女が指差す。先は、四階へ続く、階段。
そこには、足の踏み場の方が少ない、というほどに、穴が無数に空いていた。
*
どういう理屈かは知らないが、その階段はいちおう、
穴と穴は繋がり、さらなる大穴となり、階段の床はもはや、飛び石のほどにしか存在しない。まるで、この校舎のようだ。校舎外の地面はすべて崩れ落ち、校舎だけが大穴の中、浮いているような。その縮図が、この階段に表れている。
「だったら、あの、飛び石くらいにしかない階段の床も、たぶん乗ることはできるんだろうな……」
言うだけは言ってみる。しかし、落ちればどことも知れない、きっと異世界に沈むであろうこの穴たちの上を、跳んで渡っていく自信も、つもりもなかった。
「い、行く気か?」
「まさか。……別の階段を使おう」
だから炭文字さんの言葉に、僕は即答する。こうなっている以上、別の階段を使うしかない。いつ床が抜けるか解らない現状、できるだけ最短ルートで屋上を目指したかったが、この回り道は仕方ないだろう。
しかし、そう思って引いた彼女の手は、離れた。見ると、その場にうずくまってしまっている。
「もうやだ。……怖い。帰りたい」
会った当初のように大声で喚いたりこそしないものの、炭文字さんは静かに、泣き始めた。泣きたい気持ちは僕も同じだったけれど、彼女がこうなっているのだから、僕が泣くわけにもいかない。
「炭文字さん……」
うずくまった彼女の肩に手を置き、僕もしゃがみこむ。
「僕も怖い。帰りたいよ。……でも、そのために、僕らは屋上へ進まなきゃならない。ここでじっとしてても、危険なだけだ」
炭文字さんは顔を上げた。普段なら見上げなければならない炭文字さんの顔を、僕は見下ろす。潤んで、ぐしゃぐしゃで、それでいて綺麗な、彼女の顔。
その美しさに、僕はつい、息を飲んだ。そしてガラにもなく格好つけたセリフを、口走るのだ。
「大丈夫。なにがあっても、きっと、僕が守るから」
そう言って、微笑んでみる。いまくらいはちょっと、自分格好いいとか思ったことは内緒だ。
*
パリッ……と、僕の体を震わせる音が、かすかに聞こえた。
「炭文字さん!」
僕は、まだ決心しかねている彼女の手を掴み、引いた。だがしかし、その勢いよりもよほど強く、僕は後退する。
後ろへ、彼女を、引いて……?
引いて……いない!
僕はひとりで、すごい勢いで後ろへ飛んでいる。なんで? これは、僕の力だけでは到達できないほどの勢いだ。なにが起きている? よく見ろ。なにが――。
炭文字さんが、少しだけ優しく、微笑んでいる……? 突き、飛ばされた? なんで? 裏切り? 僕を突き飛ばして、穴に落とす……違う!
くそっ! 珍しく僕が彼女を見下ろしていて、珍しく彼女は顔を上げていた。だから、気付かなかった!
体が後退して、視野が広がって、ようやく、気付く。
崩れるのは下じゃない……
足元に穴が空く。それが下の階層から見ると、天井に穴などなかった。だから、思い付きもしなかった!
まさか
「分美……あたし――」
彼女がなにかを言いかける。やめろ! そこに落ちるな! そこにはまだ、炭文字さんが――!!
「炭文字さん!!」
僕は、手を伸ばす。だが、僕の手の長さなどでは足りないほどに、僕はとうに、後退して――させられて、いた!
天井から降る瓦礫に――あるいはそれ以外の物体に、炭文字さんが、その最期の言葉とともに、潰されていくのを、僕は、永遠のように感じながら、見た。
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