崩落の章
閑話(五月)
ゴールデンウィーク明けの五月。この日は新クラス初の席替えがあった。去年も月一ペースだったから、今年もそうなのだろう。というか、きっとたいていの学校でそうなのだろうと思う。知らんけど。
だが、問題はそんなことではなく、この状況だ。席替えといえば、意中の相手と近くの席――あわよくば隣の席になり、文字通りの急接近! が、狙える一大イベントだが、逆に、苦手なクラスメイトとも否が応にも最低限のコミュニケーションを取らなければならなくなる、恐怖のイベントでもある。
で、今回に限って、僕にとってこの席替えは、後者だった。
僕の新しい席は、黒板に向かって、左から二列目の、最後尾。初期席順では出席番号12番の生徒が座っていた位置だ。相も変わらず一番後ろというのはラッキーだが、問題は、その周囲である。具体的には、お隣さんである。
「おういおいおい……。ついにお別れのときかー。新しい席になっても、遊びに行くからな」
とか泣き真似をしていた元隣人も、僕の新隣人を知るや否や、
「あー、新しい席でも達者でな! もう二度と会うこともないだろうけど!」
と、手のひらを返すほどである。まあ、気持ちは解る。
「んだよ?」
「いいえ」
僕の新しいお隣さん。ちなみに右隣。初期に18番のクラスメイトが座っていたそこには、クラスの問題児、どころか、学校中にその名を轟かす不良生徒、
*
まだ、席を移動しきっていない生徒も多い。最後尾は動きやすい。ゆえに、僕たちはいち早く新しい席につき、まだ多くが移動途中なクラスの喧騒の中、ただただ複雑な心境で、黙って座っていた。
どうしよう。僕、無意味に殴られるんじゃないだろうか? いやほんと、あまりに突拍子もない空想だが、そんな空想すら現実になりそうな威圧感である。彼女が誰かを殴ったり、悪事を働いているのを見たことはないが、噂は数々聞いているのだ。
恐喝。脅迫。暴力。そんなものは朝飯前で、中学のときには、学校中の窓ガラスを割って回ったとか。夜な夜な、盗んだバイクで走り出してたとか。そもそもこの歳でレディースの総長をしているとか。極めつけは一年のとき、というか、高校入学後すぐに、三年のクラスに単身殴り込み、番長とやらを討ち取ったとか。どうやらそれで一か月の停学を喰らったらしいけれど、理由の方はともかく、少なくとも停学自体は真実だと、僕も知っている。
180を越える長身で、目つきが鋭く口も悪い。だからこそ、そんな噂が独り歩きしているだけで、本当はいい人、みたいな、よくあるシチュを期待してはいるけれど、仮にそうでも、そのことを知るまでは、僕は彼女に怯えることになる。
そして、その願望も望み薄なのではないだろうか? 普通に怖えよ。ちょっと見ただけでドスの利いた声で凄まれるし。そもそもチラ見だったのに普通に気付かれたし。やはり喧嘩が強いというだけあって、他人の挙動を見破る術に長けているのだろうか?
というか、沈黙が辛い。いや、学校とは勉学に励む場所、静かにしているのは普通なのだけれど、クラスがいまだ喧噪の中にいるというのにひとり緊張して、黙り込んでいるのが辛い。つーかなんで左隣が
などと思っていたら、クラスのざわめきを刺すように、ひときわでかい声が上がった。
「センセー! 俺、めっちゃ目いいから、前の席ゆずるわ!」
瞬間の、静寂。クラス中を黙らせる迫力が、そこにはあった。
クラスのもうひとりのヤンキー、
*
と、勢い余って『ヤンキー』などと表現してしまったが、別段彼は悪いやつではない。と、思う。僕とはまったく違うタイプの人間で、接点もないから、こちらもやはり噂や、このひと月クラスを眺めた感想でしかないのだが。
ただ、彼も体格がよく、声も、態度もでかいから、威圧感が強い。正直に僕の主観的意見だけを述べるなら、『怖い』、『関わりたくない』、である。
しかし、今回に限っては助け舟だ。僕は思った。ここで彼に席を譲れば、正当に僕は、この席を逃れられる。さようなら、和ヶ倉さん! 安らかに眠り続けてくれ!
そう思って手と、声を上げかけた、そのとき。
「ごちゃごちゃうっせーんだよ! 貝常、テメエ! 男なら決まった席順に文句垂れてんじゃねえぞ!」
隣の席で、男子みたいに低く、それでいて貝常くん以上に大声で、声が上がった。見ると、スカートの下にジャージを履いた、その長い脚を、炭文字さんは自分の机に叩きつけた不遜な態度で、喝を叫んだらしかった。
僕は、上げかけた手を、即座に降ろす。いや、それ以前に、その威圧に、反射的に降ろしている。
貝常くんなど及びもつかないほどの、圧倒的な制圧力。クラスは静まるどころか、恐怖に慄いている。
「……な、なんだよ。冗談だよ、冗談。あっはは。炭文字さん、そんな怒んなくてもいいじゃんか」
あの貝常くんをもってして、このしどろもどろだ。やはり炭文字さんは怖え。僕はこのひと月、生きて過ごせるのだろうか?
再度、戦慄する。していると、もうひとつ、静まったクラスに澄んだ声が響いた。
「先生。言いそびれてしまっておりました。私、視力が悪いので、貝常くんと席を交換してもよろしいでしょうか」
溌剌とした、声。それは、以前の僕の席に新たに移動したばかりの、今年の我が校の生徒会副会長。真面目で正義感の強い完全無欠の女子、
「あ、ああ、いいぞ。よかったな、これで、万事解決だ」
あっはっはっは。と、気怠げな担任には珍しく、笑いが上がった。だいぶ乾いた笑いだったけれど。
「あと、炭文字さん」
担任の笑いに引っ張られ、クラスに喧騒が戻り始めた。が、しかし、白木さんの次の言葉に、またも沈黙が、クラスを駆け巡る。
「机に脚を乗せるのは感心しません。それと、そのジャージも、校則違反です」
一触即発。触らぬ神に祟りなし。彼女ほどの優秀な女子が、その四字熟語やことわざを、知らないはずはないのだが。
クラスに再度訪れた沈黙は、恐怖は恐怖でも、やや違う種類のそれだった。
ちっ、と、小さく響いた舌打ちに、クラス中が怯える。
「……あとで脱ぐよ」
しかし、続く言葉は、意外と素直で、教室は安堵に包まれた。……うん。僕以外の、教室中に、ね。
だからさ、僕はこれからひと月、本当に生きていけるの?
*
本日の日記は書くことが多い。しかしながら、よく続いているな、今年の僕。こんなにえらいのだから、もう少しいいことが起きてもいいはずである。
ところであれから、一度も彼女とは話せていない。当然といえば当然である。僕と彼女の接点は、ただ幼稚園からの幼馴染という――いや、馴染んではいないのだけれど――ただそれだけであるのだから。
「……話しかけてみようか」
どうせできもしない願望を、口にする。それから、僕は背後をうかがった。誰も、来ていない。お約束の両親突撃イベントは発生しなかったようである、本当に、よかった。
そう、安堵して、ノートを閉じる。二重底にした引き出しの底へ、しっかと隠し――しまい、照明を消す。
こうして僕は今夜も、眠りについた。明日からの学校生活に、慄きながら。
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