第45話 愛する者に捧ぐ
敵は音もなく忍び寄っていた。白壁を背に三方を囲む猿楽の面を付けた者たちを見て、短槍を握り絞めながら甚左は死を覚悟した。
表情の見えない数十の面に対し、胸の内は恐怖に支配されてるはずの明日海が、甚左の後ろで叫ぶこともなくじっと耐えていた。鷹と志野は楽器を置いて、闘う姿勢を見せている。闘う術を知らない紫朗でさえ、明日海を庇って盾に成ろうとしていた。
「俺が全力で皆に
甚左はそう言って、持てる全ての武気を短槍に注ぎ始めた。それは甚左の命をこの一戦にかけるという決意の表れだった。
「明日海、こんなときにすまん。俺はお前が好きだ。お前の為に命を賭けられることを、心から嬉しく思っている。もしここで死んだら気持ちを伝えられないから、今言っておこうと思った。だから返事はいらん」
甚左は明日海に初めて思いを伝えて、死に臨んでいるというのに、すっきりした顔に変わった。戦人にとって、生き残ると言うことは全てに優先する目的であるが、今の甚左はその絶対則を超越した。
命より大事な者を守る。そう決めたことで迷いが消え、心の中が静かに成った。それはとてつもない集中力を生み、五感を研ぎすまし、武気の総量をかってないほどに押し上げる。
攻撃は三方から同時に来た。正面と左右の前衛に立つ敵が、一斉に謡を謳い音波弾を放った。甚左は全身から放出した武気で、明日海たちを覆うぶ厚い壁を作り、音波弾を跳ね返した。謡を謳った三人の敵が、自分の音波弾を浴びて地に伏せる。
敵の中に微かな動揺が走り、それは大きな波紋に成って広がっていく。その様子を見て、観世は確かに手強い集団だが戦人ではないと、甚左は確信した。
戦人なら自信を持った攻撃がうまくいかなくても、こんな風に士気を落としたりしない。戦は士気が全てだ。士気が下がれば、常日頃鍛錬した実力が発揮できず、練り上げた武気も衰える。
「どうした。裏観世の力はこんなもんか」
甚左が挑発すると、目の前の裏観世の者たちの動揺はさらに大きく成った。自分の力を信じぬまま、正面に立つ三人の敵が逆上して斬りかかってきた。普通であれば一人でも手に負えぬぐらい鋭い斬撃であったが、僅かな迷いが三人の連携を微妙に狂わし、甚左につけいる隙を与えた。
短槍が三度宙を舞った。斬りかかった三人の動きが止まり、そのままゆっくりと崩れ落ちる。
「さあ、どんどん来い。全て返り討ちにしてやる」
甚左が完全に相手を飲んで、気合いで押している。数で圧倒する観世がじりじりと押されていた。
たった四尺程度前を行く梨音の背中を見失いそうになる。門に向かって進み始めた瞬間から、強烈な黒雪の武気が嵐のように前に立ち塞がり、砂埃をあげて後ろに押し戻そうとするので、まともに目を開けて進むことができない。不思議なことに歩みを止めて立ち止まると、嵐はピタリと止んで何事もないかのように視界が確保される。しかし、また進み始めると、強烈な嵐が襲ってくる。
前を進む梨音も同じ状況らしく、走ることもできずに、一歩一歩門に向かって進んでいる。碧も一緒に進んでいるはずだが、気配を感じるだけで姿を認識することができない。
もっとも、梨音が通常より武気を広げて、後ろの太郎や碧に当たる黒雪の武気を減らしてくれているので、なんとか前に進むことができる。一人だけだったら前に進めずに立ち止まっていたことだろう。
門まで僅か二町足らずの距離がやけに長く感じる。早く仲間のところに戻らなければと、焦る気持ちが自身の武気の乱れを生み、余分な体力を消耗させる。歯を食いしばって、雑念をふり捨てて進むことだけに集中しようとする。
後ろにいる碧の武気が背中に伝わってきた。それは管のようにしっかりと太郎につながり、武気を送り込んでくれている。
そうか――太郎は碧の意図を理解した。先頭を進む梨音が武気を傘のように広げて、後ろを進む太郎たちが進みやすいようにしてくれている。だが、梨音一人の武気では傘が阻む力にも限界があり、太郎や碧も武気を前に集めながら進まなければならない。
それならいっそのこと、二人の武気をまとめて梨音に送り、三人の武気を合成して傘を作れば、効率よく進めるはずだと碧は伝えようとしている。
太郎は碧が送り続けている武気を、自身の武気と合わせて、梨音に向かって武気の管を伸ばした。それは闘いで武気を放つよりも、もっと繊細な操作を必要とする。武気の力を相手にぶつけて傷つけるのではなく、武気で相手を包むような絵を心に思い浮かべながら管を作らねばならない。武気を医療に活用する研究をしている碧は、その点では巧みだった。しっかりとつながった碧の管を感じることによって、太郎もうまく梨音とつながることができた。
急に全身を阻む黒雪の武気が弱まった。梨音の武気の傘がより大きく強くなり、後ろに突き抜ける黒雪の武気を大きく減らしたからだ。前進する速度も上がってゆく。
頼むから持ちこたえてくれと、太郎は祈りながら武気を送り続けた。
甚左は肩で息をしながら、鉛が入ったように重くなった身体に鞭打ちながら、必死で闘っていた。周囲に張った武気の幕を少しでも弱めれば、敵の音波弾が明日海たちに襲いかかる。自身の全身も武気で強化しないと、肉薄してくる敵の斬撃を跳ね返すことができない。
普段の数倍の武気を使いながらの闘いは、甚左の体力を急速に奪ってゆく。命の灯火が後僅かで尽きることを甚左は自覚していた。それでも闘志を奮い立たせて甚左は闘う。
そんな甚左の背中を見ながら、明日海は涙が流れ落ちるのを止めることができなかった。鷹と志野も甚左の武気をくぐり抜けて迫る敵の刃を跳ね返し続けて、そろそろ体力的な限界が見えてきた。このままでは三人が倒れて全滅してしまう。
それなのに明日海は祈ることしかできない。五人が無事にこの窮地を切り抜ける――それだけを願って祈り続けた。
「あっ」
思わず悲鳴に近い声が、明日海の口から漏れた。甚左の左腕に髪毛針が刺さり、甚左の動きが止まったからだ。好機とばかり左右から迫る敵の凶刃が、甚左に届きそうになる。
うおおおおお――甚左はうなり声をあげて、右手の短槍で右の敵を切り伏せ、左の敵の脾腹に左足の蹴りを入れた。直後に甚左の右膝が地面につく。背中を丸めて肩で息をする甚左に、敵の刃が降り注ぐ。甚左はすぐに立ち上がって、この敵も斬り落とした。この迎撃の間に甚左の武気の幕が途切れたのを見て、敵が音波弾を放つ。それすらも甚左はすぐに武気の幕を張り直して、明日海たちの身を守った。
既に倒した敵は三十人近くに及んでいる。甚左の全身は返り血を浴び続けて、どす黒い赤に染まっていた。再び甚左が片膝をつき、それを見た敵の凶刃が迫る。短槍でなんとか受け止めたが、既に跳ね返す力が残って無いのか、甚左の顔面に向かって敵の刃が迫る。
癋見悪尉の面を付けた敵が、再び甚左に髪毛針を撃とうとしている。明日海がもう無理だと諦めかけたとき、癋見悪尉の面が割れ、続けて胸から血が噴き出すのを見た。それを見て怯んだ敵を、最後の力を振り絞った甚左が跳ね返す。
明日海が左を向くと、門の近くにカマイタチを放った梨音が立っていた。続いて、明日海たちを守るように氷の壁が敵との間を分断する。梨音が走りよりながら、刀をきらめかせ、残敵を掃討した。いつも以上にその太刀筋は鋭かった。
助かった。明日海の張りつめた気持ちが、ゆっくりと生を確保した安心感で緩んでいく。
「甚左さん。私たち助かったんです」
明日海が甚左に声をかけると、返事はなかった。先ほどまでせわしなく動いていた肩が微動だにしてないことに気づく。
「甚左さん」
再び明日海が声をかけるが、甚左から返事は帰ってこない。
太郎が甚左の前に駆け寄ってきて、立ちすくんだ。おかしいと思って甚左の前に回り込むと、目を見開いたまま瞬きもしない。
碧が近寄ってきて甚左の脈をとる。すぐに碧は太郎の顔を見て、首を横に振った。
「うそ……」
明日海はもう言葉が出ない。
甚左は立ったまま前を見てこと切れていた。
碧の見立てでは、甚左は武気を使いすぎて、胸の中に巣くった赤天狗の武気を抑えることができなくなり、心臓が止まったということだった。
甚左がいつ死んだのかは分からないが、敵の返り血を浴びて赤く染まった死に顔は、どこか誇らしげにも見えた。きっと梨音の助勢が間に合ったのを見て、安心して逝ったのではないかと、明日海は思った。
太郎が甚左の遺体を丁寧に地面に寝かせた。
「甚左には悪いが、すぐに戻らなければならない。今康光殿と健と春瑠が戦っているが、観世黒雪の力は強大で、苦戦しているはずだ」
「俺たちはどうすればいい?」
すぐに戻ろうとする太郎たちに、碧に手当されている鷹が訊いた。
ここで待っていてくれと言いかけて、太郎は何か思いついたのか、言葉を止めた。
しばらく思案したのち、太郎は言った。
「危険だけど、一緒に来てくれないか。みんなの力が必要なんだ」
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