屋根無し地蔵

三浦周

屋根無し地蔵

 祖父は地蔵の前を通るといつもその話をした。




 小さい木造りの祠に住まう地蔵菩薩には、いつも握り飯が二つ供えられていた。田舎のうちではいつも米だけが余るんだ。いや、別に人間様の食べる真っ白なお米じゃないよ。

 古古古米ってやつ、何年も備蓄しておいて臭くて茶色くなった不味い米さ。

 それを村の端っこに住んでいる、ぼろい着物の婆様ばあさまが朝に起きて、炊いて供えるんだって。それから、桶に汲んだ冷たい水で何度も何度も拭き布を絞って、屋根や地蔵をピカピカにする。

 僕は「律儀なもんだ」と、早起きするたび、そう言っていた。


 由来を聞いたことがある。

 麦稈真田ばっかんさなだを片手間に、うちの爺様じいさまが悲しそうな顔をして教えてくれた。


「可哀想な子供じゃ、坊は飯に困ったことなどないだろうが、昔はひもじい子が山ほどおった。おまえよりも小さい子供が、握り飯を二つおくれ、握り飯を二つおくれとそこらを歩いて回って、最後に死んだのがあの祠だぁ」


 夕暮れ時の赤蜻蛉あかとんぼの羽を僕が千切って遊んだ時すら、曖昧に笑う爺様が本当に悲しそうにそう言ったのだ。だから僕は爺様とあの通りを歩きたくはなかったし、仕方がなくて通る時はいつも急いでるふりをして、早歩きで爺様を急かした。


 そんな村であるものだから、僕はこの村が嫌いだったのだ。

 

 元はといえば、こんなところに引っ越すこととなったのは母の不貞がその原因だった。父は土方の大将だったから朝から晩まで家にいなかったし、帰ってくれば酒の匂いを振りまいて、それを咎める母をぶったりすることもあった。


 僕はそんな父に惚れた母を馬鹿だと思ったし、馬鹿な母は結局、似たようなチンピラ上がりの若い男と姿を消した。


 そうして、僕は父方の爺様に預けられ、こんな小汚い村にぼんやりと住んでいる。


 とはいえ、学校もいじめっ子もいないこの場所はきっと僕にはお似合いであったのだろう。村の若い衆ですら、僕よりもうんと年上で何をしたって可愛がられた。だから、僕は天狗になっていたのかもしれない。


 その日は、雨の降り荒む夏の入りだった。


 僕は爺様のお使いで二つ隣の田山のおじさのところへ向かっていた。蝙蝠傘をざっとさして、その反対の手に持つ袋には十年前に死んだ祖母の付け下げ。嫁に行った娘の祝いにうちから着物を贈るのだという。


(こんな古臭いの貰っても困るだろうに)


 二つ隣と言ったって、田んぼの続く田舎の二つ隣はずっとずっと遠いのだ。それに土に混じった雨の粒が泥を作って気持ちが悪い。僕はその日、誕生日に父が寄越した革の長靴を履いていたから、苛立ちもひとしおだった。


「おお、石川の坊か。寒かろう、入れ入れ」


「失礼します、うちの者から結納の祝いとのことです」


 彼に少し濡れた着物を渡すと、招かれるままに茶の間に座らされた。田山のおじさんは渡された着物を大事そうにしまうと、上機嫌に大福を皿に出して僕の前に置く。


「あまいど、好きじゃろう」


 僕は一礼し、「ありがとうございます、いただきます」と言って大福にかぶりつく。それを見る田山のおじさんはどうしてか、すっかり嬉しそうだった。


「おまえの親父は悪ガキでな、昔は随分と泣かされたもんだ。それに比べて坊は偉いな」


 坊は偉い、それがこの村の大人の口癖だ。僕はその度に「とんでもないです」って言いはするけれど、良い気分になって媚びるように子供のふりをした。


 薄寒い畳の感触を確かめながら、僕は彼の話に適当に相槌をうった。僕の父が小さい頃はどうだったとか、嫁に行った娘の旦那が立派な仕事に就いているとか。

 そんな話ばかりするものだから、自然とあくびが出そうになる。僕はそれを必死に堪えて彼が満足するのを待ちわびた。


 雨の音が聞こえた。


「雨脚が強うなってきた。いかんな、坊はもう帰ったほうがいいかもしれん」


 気づけば、雨音の勢いが来た時よりも強くなっている。地面をさんざ打ちつける雨は家の中にも響いて、玄関の方からざらざらした冷気が漏れてきたように思えた。


「そろそろ行きます、爺様も待っているので」


「気をつけての、お礼は今度伺うと石川の爺様に伝えておくれ」


 嵐の予兆の雨雲のような、黒い黒い空がある。僕は慎重に水溜りを避け、裏道へと駆け出した。来た道の途中には地面の中央に窪みがあって、それに水が溜まってしまう。だから、今頃もっと大きくなって、父から貰った革の長靴を汚してしまうと考えたからだ。


 裏道ってのは坂道通り、石階段を登ったところ。あの地蔵がある道だった。


 歩いていると傘が軋んで、身体ごと吹っ飛びそうになる。どうやら風も出てきたようだ。僕は握ったその手に力を込めて持ってかれないように必死だった。


 揺れる傘から滴が垂れる。露先から落ちる水が足を濡らしそうで、僕は嫌気がさしてきた。


 今思えば、それはお釈迦様の涙だったのかもしれない。


 ぐちゃ。


(なにか踏んだ)


 足元には、白い粒の塊。途端、僕は足を上げると靴底の溝に米がびっしり纏わりついていた。それにしたって濡れて汚れた米粒はどうしてあんなに気持ちが悪いのか、まるで虫の卵みたいじゃあないか。


 僕はそれらを落とす為に地面に靴を擦り付ける。けれど、表面の米は落とせたけれど、溝の中に澱粉質でんぷんしつが擦り込まれていくだけだった。


 その時僕はこんなところにどうして米がと思いはしたが、ハッと横を見て合点がいった。


「屋根付き地蔵の握り飯かよ」


 風で転んだ握り飯はスズメにも食われず、土に塗れた《まみれた》ということだった。あの家の婆様も雨の日まで供えなくても良いだろうに、そのせいで気に入っていた靴がぐちゃぐちゃだ。


 雨が、僕の汚れた靴を濡らしている──


 それはまるで見窄らしくて、爺様や田山のおじさんや、他の村人が履いている靴とおんなじに見えた。そう、感じた。


 その瞬間に僕の怒りが露わになった。


「ああああああああっっ──」


 雨に構わず傘を閉じると小さい屋根付き地蔵の祠を狙って、めったうちにしたのだ。


 木切れが飛んで、地蔵に傘の先の泥が跳ね飛んだ。傘の骨が嫌な音を立ててへし曲がり、薄い板の屋根に風穴が空いていく。


 きっと父と僕とはとても似ていて、怒りを外に出さないと我慢ならない性質だったのだ。父は母を殴ったし、僕は物に当たることがあった。その間、僕も父も頭に血が昇って何にも考えることが出来ないようで、熱された鉄の如く激しい怒りはそうでもしないと収まらなかったのだ。

 父と僕との唯一の違いは殴る相手が生きているかどうかというただそれだけのことだった。


 もうすぐ夏だというはずなのに、酷く雨が冷たかった。


 僕はようやく冷静さを取り戻すと、自らが起こした惨状を目の当たりにした。案外、脆かったのだろう。屋根付き地蔵の祠は完全に壊れてしまっていたのだ。

 濡れそぼった地蔵の石頭が、湿ったことで黒くなる。その様を見て僕は、胸いっぱいの不気味さと罪悪感で走り出した。


 家に帰ると爺様は、ずぶ濡れの僕を手ぬぐいを持って出迎えてくれた。傘を壊したと告げると、それでも僕の髪の毛を拭きながら「すまんの、すまんの、わしがいけば良かった。坊は悪くないからな」と言うだけだった。

 風のせいだと思ったのだろう。傘は物置の奥に捨てられて、その日のうちに僕は熱を出して寝込んだ。




 それから二日後のことだった。あのぼろ切れ継ぎ接ぎの婆様が、わあわあと悲鳴を上げながら、僕の家へと訪れた。


「ああ、トメさんや。そんなに慌ててどうしたんだい」


「お地蔵様のお屋根が壊された、お地蔵様のお屋根が壊されたのだ」


 爺様は宥めるように、彼女と接した。婆様は目尻にある深く刻まれた皺から涙を溢れさせ、悔しそうにも悲しそうにも思える声で、只、お地蔵様の屋根が壊されたと繰り返すのみだ。


 僕はそれを後ろの戸から覗き見て、胸の奥にある罪悪感を震わせていた。また同時に自分がやった悪事がばれまいかとも恐怖していたのである。


 婆様が爺様へ言う。


「石川の坊だ、あの坊がやったに違いない」


 僕の体がびくりと跳ねた、恐怖心が無限に湧き出して、ガタガタとする体を押さえつけるように両手で肩を抱き締めて、聞き耳を立てて息を殺すしか他はなかった。


「あれは知らんと言っただろう。それにトメさんや、うちの倅はもう何年も前に出ていって、今はもう大工をやっとる。そうだ、あいつが次来た時、直してもらうよう頼んでみるからの」


 きっと、坊というのは父のことなのだろう。


 婆様がそんなふうに父を呼んでいたというそれだけだと理解しても懐疑心は消え去らなかった。だから、僕は彼女の、その真実の勘違いを祈る。そして、誰も彼女を信じないことを祈った。


「あの坊がやったんじゃ、あの坊が、あの坊が」


「知らんと言ったら知らんのだ、さぁさぁ、今日は帰っておくれ。うちの孫が寝込んで大変なんだ」


 玄関の扉がぎいぎい閉じる音がする。僕は目をぎゅっと瞑ったまんま、その音が過ぎ去るのを待った。


 どうしてか、帰り際に婆様がこちらの方を向いたような気がした。


 僕は急いで、自室の布団に潜り込むとわざとらしく、こほんこほんと咳払いをする。爺様はそれを聞きつけたのか、こちらへ向かって駆けつけてくれた。


「坊、どうした、ぶり返したのか」


「そうみたい、急に頭が痛くなって、もう今すぐに潰れそうなんだ」


「可哀想に、坊は今日も寝ていなさい」


 僕は、婆様に怯えてずっと家から出なくなった。爺様は僕の仮病を信じてくれたのか孫が大事で嘘を許してくれたのかはわからない。それでも僕が布団の中で見る夢はいつもあの屋根付き地蔵と、目が血走った婆様のことだけだった。


 お粥を作ってくれる爺様に、僕はふと、あの婆様のことを聞いた。


「この前、訪ねてきた婆様は一体、何のようだったの?」


「ああ、坊にも聞こえていたのか。なんでもお地蔵様のお屋根が壊されていたそうだ。可哀想な人でな、昔に死んだお兄さんとあのお地蔵様を重ねているんだ」


「前に聞いたお話で、あそこで死んだのはそのお兄さんだったの?」


「いーや、それとは別さ。地蔵は昔からあそこにあって、あの婆様が勝手にそう思ってるだけじゃ。少しおかしい人なんだ」


 僕はそれでも尚、病気のふりを続けた。それは婆様の話を聞いても、己の中の何もかもが、全然変わることがなかったからだ。


 そうして、あの日から丁度二週間後のことだった。


 僕の不調を聞きつけた父がトラックをぶん回して自らが生まれ育った村に戻ってきたのだ。


「おい、親父、どういうことだ。病気だと? こんなところに預けたからだ」


「おお、戻ったか。雨の日にお使いにやったわしが悪いのだ。すまなんだ、本当にすまなんだ」


「うるせえ、もうおいておけるか。連れ帰るからな」


 布団の中にも聞こえるほどに父の粗暴な声がする、床板を必要以上に強く踏む足音もした。僕はやっと助けが来たと思い、涙を拭いて飛び起きた。


「おい、帰るぞ。支度しろ」


「父さん、父さん、僕は、僕は」


 文房具やらを鞄に急いで詰め込んで、僕は毛布のまま、父のトラックにいそいそと乗り込んだ。爺様は悲しそうな顔をしていたけれど、僕は見向きもしなかった。


 トラックは乱暴なエンジン音で田舎の道を突き進む。嫌いだった村の土を削って、けたたましい馬力が僕をこの場所から連れ去ってくれるのだ。


(もう、ここにいなくていいんだ)


 けれども、僕には拭い切れない懸念があった。婆様に対して、可哀想と思う気持ちがほんの少しだけあったのである。


 父の機嫌を損ねぬように、僕は掠れそうになる声を必死に堪えて、かさついた唇をようやく開いた。


「父さん、お願いがあるんだ」


「なんだ、言ってみろ」


「お地蔵様のお屋根を直してほしいんだ、あの、裏道のお地蔵様の。壊れてしまっていたようで、村の婆様が悲しんでたから。父さんなら、出来るでしょう?」


 父はそれを聞くと、タバコをつけて腹の底から大笑いした。


「あのババァ、まだ生きてんのか。いいさ、そんなもん気にすんな。あれは俺が昔ぶっ壊してやったんだ、おまえもやったのか? 流石俺の息子だな」


 僕はそれっきり下を向くと、父の嬉しそうな口調だけを聞いていた。革の長靴はすっかり綺麗になっていて、多分爺様が磨いてくれたのだろう。米粒ひとつ付いてはいなかった。


 これから僕は多分大工になって、それからお嫁さんをもらうのだろう。その後もきっと、全部が全部おんなじなのだ。


 自分を賢いと思っていた子供は、もう村のどこにもいなかった。


 走り去るトラックのサイドミラーには、古ぼけた村と気狂いの婆様の家だけが写っていた。

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