保健室の麗子先生っ!
藤沢るうさ
第壱話 気合入れろよ月曜日
気を引き締めたい週の始まりである月曜日の朝。
職員の朝礼が終わり保健室に戻ったばかりのタイミングで、なんともやる気のないパタパタという足音が遠くから聞こえてくるとドアの前で止まった。
「ん?」
ここの主である
――鼻炎センサー反応なし!
麗子の経験上、《足音からして女子》《保健室へ来ることに慣れている生徒》という人物像が浮かび、すぐさまそちらに目を向けた。
――3A、
「麗子先生~、生理痛でお腹いた~い」
扉を開けるよりも先に、向こう側から甘えるように助けを求める松本陽菜の声がした。
――ビンゴ!
ある意味、職業病だと自覚している。
陽菜は誰が見てもギャル系というやつを意識している女子生徒で、学校の中では目立つ存在でもあった。
「生理痛って、もう……。あのね、そういうデリケートなことは大きな声で言わない。それに、『お腹いた~い』じゃなくて、『おはようございます』が先でしょ」
「は~い。おはようございます」
返事は一応しているが、実際のところ雑音でも聞き流すような顔さえしていた。
「挨拶は基本中の基本。その挨拶もちゃんと出来ないようじゃ将来困るのは自分だよ。常識のない人間だって思われるんだからね」
麗子が普段の生活の中でもっとも大切にしている『挨拶』と『礼儀』は、大嫌いだった母親にいつも口うるさく言われていたことだったが、今になれば感謝しなくてはいけないと思っている部分でもあった。
「っていうか、麗子先生また鼻声。風邪引いたの? 顔色悪いよ」
麗子の顔色が変わり背筋が凍りついていた。
「あー、今日は風邪かもね」
「今日」の部分を強調して言う。
「で、すごく痛いの?」
陽菜のペースに流されないよう少し突き放した言い方で話を切り替え、授業をサボりたくてここに来たのかを確かめるために、さりげなく会話の中でさぐりを入れてゆく。
「うん。すっごく痛い。だからベッドで横になってもいい?」
そう言いながらさっさとベッドに腰かけてしまう陽菜の様子は、実に明るく軽快な口調でサボりたい方向なのだろうとしか思えなかった。
――だから『うん』じゃないっつの。
感情を押し殺すことにも慣れたが、胸中でのボヤキがもれなく倍増中だ。
「ダ・メ・で・す」
視線だけで麗子を見上げるその顔は一瞬にしてふてくされてしまったが、すぐに開き直ったらしくズルい笑顔で両手を合わせると懇願して見せた。
「先生、お願い」
――ダメ元で言っちゃえ! みたいな顔してんじゃないよ、まったく。
「お願いされても絶対ダメ。それに私は神様じゃないからね、拝まれても無理です」
「なんで?」
普通が通じないところが彼女らしいというのか、それが今の時代の子供に多く見れられる特徴のひとつといえばそれまでかもしれないが、常識に欠ける部分があまりにも多すぎて、きちんと注意することを通り越して先に呆れてしまうのだった。
麗子は首をかしげると、「うーん」と小さく唸り、
「『なんで?』って、先生にはいつも通りの元気な松本さんに見えるもの」
「そっか」
思いついたような、納得したような、打って変わって本人はさっぱりしたものだった。
陽菜と会話をしていると、吉本新喜劇ばりに床に倒れ込みたくなる。
「ちゃんと授業出てノートとっておかないと、これからもっと大変だよ。三年生なんだから嫌でも受験だし、他人事じゃないんだからね」
そんな麗子の小言を無視しているのか聞こえていなかったのかわからないが、言い終わらないうちに陽菜が違うことを話し始めた。
「そういえば麗子先生って、昨日の夜、男と腕組んで歩いてたでしょ?」
棚から薬箱を出そうとしていた麗子の動きがフリーズ。
何だか自分の友達にでも言われているような気分になったが、冷やかすような笑みでこちらを見つめているのは、自分が生きてきた人生の長さの半分も違う、ただの女子中学生である。
敬語を使わないことがフレンドリーだと暗黙の了解にしていることに、自分でもほとほと嫌気がさした。
昨夜の自分の行動を頭の中で巻き戻しつつも、いいから早く行きなさい、という表情を浮かべて言った。
「女の人と腕組んで歩いてるよりマシでしょ? はい、どうぞ」
こちらも開き直りと思えるような言い訳をして鎮痛剤と水を手渡すと、両手を腰に当てて仁王立ちした。
「それより、そんな時間にどこほっつき歩いてたの?」
陽菜は小さな声で「こわっ」とつぶやいたあと、
「カラオケです。あ、でも、ちゃんと年上の保護者もいたし」
胸を張り口角を上げて勝ち誇ったように言い逃れする態度に、末恐ろしささえ感じた。
ああ言えばこう返してくるのが今どきの女子中学生――ということではなく、その子の個性なのだと思うことにしている。そんなふうにでも思わなければやっていけないのが現状だ。
「薬飲んだら教室戻って。もう一時間目始まっちゃうから」
「先生……ミトコンにチクる?」
ミトコンとは、理科を担当する教師にはありがちなあだ名を付けられた陽菜のクラスの担任である。ちなみに麗子よりも少々年下の二十代後半なのだが、髪の資源が乏しく年齢不詳に見えるということも手伝ってか、見た目的にはベテラン教師に近かった。
麗子は陽菜を正面から見据えてグッと唇を結び、首をゆっくりと横に振った。
「ありがと。じゃあ先生のことも誰にも言わないでおくね」
弱みは握ってます――というようなニュアンスと、その切り返しの早さに麗子の顔がピクピクと引き攣る。
「まっ、今日は、一応、年上の保護者ってことにしておくけど、お父さんやお母さんに迷惑かけるようなことだけはしちゃだめだよ」
「先生、うちは片親だし、お母さんとばあちゃんしかいないよ」
まるでお父さんはちょっとそこまで出かけてますけど、みたいな会話のノリで返答してきた。
改めて陽菜に向き直ると麗子はいつになく真剣な眼差しをして見せた。
それから、ゆっくりとした口調で言い聞かせた。
「じゃあ尚更だわ。お母さんとおばあちゃんに心配させるようなことはしないで。絶対に」
その言葉を聞いて陽菜が視線を落とした。
が、次の瞬間、
「はーい」
またしても軽い返事と軽い足取りで短いスカートを翻して手を振ると、勢いよくドアを閉めて保健室から出て行った。
ドアの音が頭の奥まで響く麗子の目が点になる。
子供に振り回されるなんて、実に情けない話である。
その昔、麗子がやんちゃだった頃は好き放題やれた時代でもあったが、様々な問題を抱えている子供達にちゃんと向き合ってあってくれる大人もたくさんいたものだった。それが今の世の中では大人が子供と同様の事件を起こす人間もいるのだから、まったく困ったものだ。そんな大人がいるから子供を叱ったところで何も変わらないのかもしれない。
時々、麗子は思うのである。
保健室という学校の中でも孤独な空間の中に居る自分の存在は、本当に必要とされているのだろうか?
どこかのクラスの担任を受け持つでもない自分が、多感な時期である生徒一人ひとりの、どこまで介入してよいものなのだろうか?
生徒の身体のことだけではなく、心のケアもサポートしてあげなくてはならない立場で接しているのも関わらず、所詮、『ただの保健室の先生』としか思われていないのではないだろうか?
自信が無くなってしまうのだった。
――私って、何者なんだろう?
麗子が答えなど出るはずもないことを考え始めるときは、大概恋愛にも行き詰まっているという証拠だった。
やれやれと思いながらコップを洗い終えて、机に戻った途端に鼻がムズムズした。
「ハッ、ハーーックション」
無意識に陽光が射す窓側に顔を向けると同時に、素晴らしく豪快なくしゃみが出た。
――まさか……。
慌てて口元を両手で押さえた麗子は嫌な予感の前触れかと勘ぐり、整った顔立ちの眉間に皺を寄せて大きな目を細めると、険しい表情で輝き始めた太陽を睨みつけた。
姿勢を正して静かに深呼吸した。それから瞼を閉じて身構える。
「やっぱ、違うか」
起きたときからすでに寒気がしていた。おそらく――いや、間違いなく風邪を引いたのだろう。気を取り直して机の上にある高級箱ティッシュに手を伸ばしたが、中身は一枚も入っていなかった。
敢えて値段の張る箱ティッシュを使っているのは見栄でも独身の余裕でもない。慢性鼻炎を患っている者としての対策のうちのひとつというだけである。
今はこれで済まされているが、処方された薬を飲んでも治まらない症状のときには、そんな対策も空しくなるほど最悪なことが必ず伴うのだった。
それは――『災い』だ。
しかも、ただでは済まされない事件ばかり起こる。
従って麗子の頭の中には、『鼻炎』=『悪いジンクス』としてしっかりインプットされている。
例えるなら、助けを求める人の声が聞こえてしまうスーパーマンの聴覚のような役割を果たすとでも説明すればいいだろうか。嗅覚の良い犬というほうが近いのかもしれないが、麗子の中では『地震、雷、火事、鼻炎』にことわざの一部を変えてしまいたいほど、怖いものを例えるレベルが『親父』を抜いてしまっていたのだ。
勿論、正気の沙汰だ。
このご時世に超絶怖いレベルの親父の存在が少なくなっていることもあり、そこに『鼻炎』という言葉を入れ替えたとしても、むしろ何の違和感もなく世の中は受け入れるのではないだろうか。実際に鼻炎で苦しんでいる人は山のようにいるのだから。
ただし、危険性があるものには敏感に反応するのだが、惚れた腫れたの緊急対応は何が起ころうとしていても察知出来ることは皆無だった。
ということで、鼻炎のもうひとつの対策は単純だが『身構える』しかなかった。
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