静寂の中で【書けない】

キツキ寒い

第1話、工場と黒猫

 S1、S2、S3…。

 初めてこの場所を訪れた者には理解不可能な表記が施されている物流倉庫のシャッターを、寂寥感のある廊下で青年が眺めていた。人間不在の地球に取り残され、呆然とするクローンはこの世界で生存する事が理解できない。まだ人間が存在した時分にプログラムされた目的なら無数にある。けれども、何一つとして存在意義にはなり得なかった。


 一つ、生存者を見つける事。

 現在の人類の生存確率、0.000001%−−−−見込みなし。


 一つ、人類の支えとなる事。

 人類の生存確率から目的を遂行できる確率を計算−−−−見込みなし。


 一つ、被験体として医療の発展に貢献する事。

 人類の生存確率から目的を遂行できる確率を計算−−−−見込みなし…


 これら以外にも殆どの項目が『遂行の見込みなし』となっている。何度思い返しても、何度人類を探しても、進展を得る事ができない。目的が一切ないのだ。自分でもバカバカしくなってくる。いつになってもプログラムに忠実な考えをする自分が。


 足下に視線を落とすと、いつしかの新聞が棄ててあった。見出しには『減少する人類』『ウイルスの拡散防げずか』などと懐かしい記事が並んでいて、担架で運ばれる人々の写真がデカデカと写っている。これら全ては数十年前の、まだ人類が残っていた時の新聞だ。青年の記憶が正しければ、この記事を最後に新聞の発行は止まっていたはず。

 俺以外に生存者なんて存在するのだろうか。もし存在したとしても、同じ運命を辿っているクローンくらいなのだろうか。だとしたら、クローン俺たちの存在意義なんて存在しない、無意味に生き続ける−−−−悲しいもんだな。


 −−−−−−−−ニャーン?


 過去を思い返し、心悲しい自分に立ち尽くしていると、不意に近くから生き物の声がした。振り返ると、一匹の黒猫がおすわりをしてこちらを見上げている。怒らせたのだろうかと思ったが、彼は縄張りを侵されて怒っている訳でもなく、どうしたのと尋ねるように目を向けてきていた。

 野良猫にしては大人しいなと感じていたら、黒猫が身につけていた物を見て合点がいく。

 …首輪。

 つまり彼は飼い猫と言う事だ。それも人懐っこい方の飼い猫。おそらく、飼い主がいなくなり、食糧がもらえない空腹感からこの物流倉庫のような食糧がある場所へ足を運んだのだろう。


「キャットフードならそこにあるぞ」


 青年が指差した先には、壁に寄せられた開封済みの段ボール箱が一つ存在した。誰かが用意した物のようで、丁寧に猫用食品とマジックで書かれている。

 黒猫に言葉が通じたのか、彼は段ボール箱に近づくと上半身を乗せて中を物色し始める。しかし、何か問題が起きたのかすぐに青年の方を振り返って一声鳴いた。


「どうした?」


 近寄って中を覗いてみると、中にはキャットフードやペット用缶詰、水の入ったペットボトルなどが未開封のまま収納されていた。猫の反応に納得するとともに仕方ないなと言う同情を感じつつ、缶詰を一つ開けてコンクリートの地面に置いてやる。猫はすぐに缶詰の中身にかぶりついた。無我夢中で頬張り続ける。

 その姿があまりに必死だったからついつい笑みが溢れてしまった。


「そんなに焦らなくても良いよ」


 宥めるように背中を撫でる。そうしてみて少し驚いたのだが、彼の黒い毛はついさっき手入れされたばかりだと思うほどに滑らかだった。とても艶やかな見た目をしているし、人類が絶滅してから一年も経っているとは思えない。

 別に野生の猫をバカにしている訳じゃないが、凄腕のトリマーが立ち会わなければこうはならないだろうなと。俺にはそう感じた。


 黒猫が缶詰を食べ終えたところで、青年はペットボトル容器のキャップを開けた。左手を器にし、そこにぬるい水を注ぐ。猫はその水を遠慮なく飲み始めた。指の隙間から漏れて次第に少なくなる水を懸命に舌で救い上げる。その動作が愛らしくて、この日初めて人間が他の生き物と関わりを持つ理由を知った。


 手の器から水がなくなりかけるたびに注ぎ足していると、水分補給を終えた黒猫は毛繕いを始めた。手に残っていた水を捨てて、青年も一口飲む。特に変わったところは感じられないただぬるいだけの水だった。


「にゃーん」


 黒猫はゴロゴロと首を鳴らしながら嬉しそうに頭を擦り付けてくる。動物に対しての知識はほとんど持ち合わせていないが、懐かれたのだと気づくのに時間はかからなかった。相手がクローンであっても好かれるのだなと少し意外に思う。

 撫でてやれば、細められた目が笑っているように見えてくるし、だんだんと愛着が湧いてきた。


「…散歩、する?」


 犬か猫のどちらかは忘れてしまったが、散歩に連れて行く事で喜んだはず。それ以前に俺が何も考えずに歩くのが好きなだけなんだけど、どうなのかな。


 青年の問いかけを聞いた黒猫はすりすりするのをやめてしばらく見つめ返してくる。そして、承諾するかのように一声鳴いた。


「それじゃあ、行こうか」


 缶詰一つと水の入ったペットボトルを忘れずに持って、人気のない廊下を歩き出す。猫も尻尾を高く上げて後ろをついて行った。

 廊下の端にある鉄扉を開けると眩しい日の光が一気に差し込んでくる。手で小さな日差しを作りつつ外の駐車スペースに出ると、変わり果てた都市が視界に広がった。マンションやビルが隙間なく立ち並んでいるが、人の存在を全くと言って良いほど感じない。寂しさを帯びた灰色の風景がそこにあった。


 扉の前でしばらく立ち尽くしていると、外に出てきた黒猫がアスファルトについた匂いを嗅ぎ始める。顔を上げたかと思えば彼は都市とは反対の方向に歩き出した。

 不思議に思った俺は、その後ろをついて行く。

 歩道に出て、少し先の十字路を左折した。道路には一台のトラックが平然と止まっている。なんらかの理由で運転手が乗り捨てたのだろう。その理由が例のウイルスのせいじゃないかと考え、運転手が症状に苦しむ姿を思い浮かべたが、クローンであるからか、特にこれと言った感情は湧いてこなかった。


 黒猫の後ろをついて歩いていると、次第にビルや商店と言っものがなくなり、大小様々な工場が姿を現してくる。奥に進むにつれ、工場の規模が大きくなり、焚き火の跡がぽつぽつと見えた。心なしか臭気のようなものを感じる。

 小さな生き物に導かれるがまま、一つの工場へ入り、中を見渡す。何かの加工に使用されていた大型の機械が点在するくらいで特に気になる物は存在しなかった。それでも猫は工場の奥へと進む。青年も危険そうな物には気をつけつつ奥へ進んだ。そうするにつれて腐敗臭のような臭いが強さを増し、思わず鼻を摘む。


 そして猫は、とある部屋の前で立ち止まった。事務室と書かれた札が掲げられている部屋だ。

 そっとドアノブを捻り、ゆっくりと扉を押していく。


 そこには、腐敗が進み、ハエが集っている人の亡骸が一つ、異様なオーラを放って存在した。中にこもっていたより強い臭気に眉根を寄せる。

 推測でしかないが、この人が猫の主だったのだろう。その証拠に、俺の後ろで黒猫が寂しそうな声を出し続けている。好きだっただろう日常をもう一度感じたくて、自分が大好きだった相手に反応して欲しくて、あの子は鳴いているのだろう。その気持ちを理解する事は俺には到底不可能だが、この場面だけで彼らはそれほど仲が良かったのだと悟った。残酷な世界だなと、そう思った。


 キリスト教徒と言う訳ではないが、十字を切ると言う動作をしようとした。しかし、そもそもとして宗教に関する知識が少ない事を思い出してやめた。十字を切る事すらできないだろうし、冥福を祈る事も知らなかった。ただ、そう言う事に詳しいクローンが近くを通りかかるのを願いつつ、この場を後にする。

 俺に黒猫がついて来た事に関しては少し意外だったが、特に気にする事はなかった。

 次はこの子の気が安らぐ場所にいこう。


 静寂に包まれた工場の中を、羽虫が漂う音だけが響いた。

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