第24話 バレンタインデー
僕のうちや学校の周辺ではわからないけれど、コンビニや街中ではカラフルなパッケージのお菓子が盛大に売り出され始める。バレンタインデーが近い。学校では女子も、そして男子もどこかそわそわしている。僕を除いては。
正直僕は女子から、例えば委員長とかからチョコをもらうこととか全く興味がない。ホワイトデーのお返しが面倒だと思うくらいだ。
まあ、姉からもらえるんなら話は別だけど。
木曜日の午後、リハビリから帰ってきた姉が両手で杖を突きながらリビングまでやってきた。
最近、姉の運動機能はまたもや低下し、両手に杖を突いても時折転びそうになる。
「ねえ、ゆーくん」
「やです」
「話全部聞けよー」
「全部聞かなくてもわかります。どこか行きたいんですね」
「そのとーり! 頭いいねっ」
「当然の推理です」
「ねえ、駅前のデパート行きたいの。バレンタインのチョコ買いに」
「まじか」
「まじまじ」
「脚大丈夫?」
「全然大丈夫。楽勝だよ」
「って平気で無理するからなあ。親父とおふくろに訊いてみる」
「やった。ゆーくん愛してるっ」
「頼むからー、そういうの言わないでくれよー!」
「ふふっ」
あの秋の日から結局僕たちは今まで通りになった。ふざけあったり一緒に遊んだり。だけど僕はあの時の出来事が、ずっと心の奥底でしこりとして残っていた。姉だってきっとそうだ。姉が僕にキスを求め、僕がそれに応えそうになってしまったあの日のことが。姉は今僕のことをどう思っているのか、それを考えると胸が締め付けられるように苦しくなる。その一方で、僕が姉をどう思っているのかについて、僕はずっと目をそむけたままだった。
とにかく姉の熱意に負けた僕は親父とおふくろを説得し、車で街のデパートまで連れて行ってもらうことにした。デパートの催事場にバレンタインコーナーが設けられていて、そこには姉と僕だけで行くことにした。
催事場は原色できらびやかに装飾され、最近流行りのアッパーなラブソングがエンドレスで流されている。大変な混雑で、女の子たちがきゃあきゃ言いながら、あるいは一人で真剣な目をして、赤や白や青のパッケージのチョコ選んでいる。
とにかく僕の苦手な雰囲気だ。ここにはほとんど女性しかいない。ごくまれに男性も交じってはいるが、大部分が僕と同じように気まずい表情をしている。ここはひな祭り以上に“女の祭り”の場そのものだった。
「ねえゆーくん、これがいい?」
姉が真っ赤なパッケージでかなり大きいチョコを指でさす。
「いや、さすがにでかすぎるよ。ちっちゃいのでいいから」
実を言うと僕は甘いものが苦手だった。
「遠慮すんなって。日頃のご愛顧感謝セールなんだからさ」
「僕そんなに姉さんのことご愛顧なんてしてないぞ」
「してるって。ふーん、自覚ないんだ」
姉はにやりと笑う。
「まあいいや、まだ時間あるし探してみよっか」
「うん」
その時女性のささやき声が聞こえた。
「“ゆーくん”だって」
「やっぱカノジョじゃね」
「高校生?」
「すっげー美人だし」
「いいんちょなんで振られたんだかナゾだったけど、これでわかったわ」
間違いない。同じクラスの女子だ。なぜか僕は耳まで真っ赤になってしまった。うかつだった。こうなることは当然考えられたはずなのに。どうしようどうすればいい。あいつらの前に行ってあれは彼女じゃないって釈明すればいいか。でもそうしたらホオズキ市の時の委員長と同じようにむしろこじれる可能性も大だ。僕の頭の中はフル回転していた。そんな時耳を疑うよな言葉が聞こえてきた。
「でもアレさ、ヤバくね」
「杖?」
「ハッコーの美人を演出とか」
「ウケるー」
「杖ついてんならこんなとこくんなって。うちで寝てろっつーの」
「ホント。マジダッセ」
僕は何も考えられなくなった。僕は声のした方に向かって行く。
「あれっ、ゆーくんどうしたの」
姉が僕に声をかける。
「トイレっ」
「いってらっしゃーい、もらすなよー」
なにも気づいてない姉を置いて、僕は人ごみをかき分け小走りで声のした方を目指していった。
案の定、そこにいたのは同じクラスの女子三人だった。
僕は息を切らせて彼女らの前に立つ。
「貴様らっ……」
そして僕らの間に一人の人影が割って入った。そして僕に声をかける。
「こんなとこで珍しいねっ」
「委員長……」
三人の女子はぽかーんとしている。委員長の目は真剣だった。
「どうして……」
「さっきたまたま見かけて。お姉さんと御一緒だったでしょ?」
三人の女子に聞こえるようにしゃべる委員長。声は世間話のようだが、目は僕に何かを訴えかけている。僕は静かに頷いた。
委員長は三人の方を向く。
「みんなも見てたんでしょ、彼のお姉さん。杖ついてた」
委員長は笑顔だったはずなのに、なぜか三人は気圧されたようにおずおずと頭を縦に振るしかなかった。
「お姉さんのお加減どうなの」
委員長は本当に気づかわし気な目を僕に向ける。
「ああ、まだ一進一退を続けていて、少しでも運動機能を失わないよう毎日リハビリを続けている……」
「そう。大変ね。偉いなあ。私だったらできない」
委員長は三人の方を向いて言った。
「そんなのできる? 毎日ひたすら筋トレと運動。私は簡単にはできるなんて言えない」
三人は沈黙している。
「中にはそんな風に努力している人を見て笑っちゃう人もいるみたいだけれど」
三人はばつが悪そうで、不愉快そうで、腹立たしそうな顔した。
「笑えないわよね」
にこやかだが鋭い目つきの委員長のその一言に、三人はまるで頭でも下げるかのように首を縦に振った。
「よかった」
満面の笑みでこちらを見る委員長。こっちもすっかり毒気を抜かれて何も言えない。あの三人の発言は許せないが、委員長に免じてここは許してやろうという気になった。
「あ、ありがと。委員長がいなければ、僕あいつらの横っ面張り倒してた」
連中がすごすごと催事場を立ち去った後、僕はお礼と言っては何だがジュースを一本委員長におごる。催事場から少し離れた壁に背中を預けて二人でジュースを飲んでいた。
「ふーっ、間に合って良かった。君、案外
「なにそれ」
「わからなかったらいいの」
「うーん」
「ねえ、お姉さん、前にお見かけした時よりお痩せになってきた気がするけどどうなの?」
「良くなったり悪くなったりを繰り返しながら、全体としては悪くなってきている」
姉の病状について先生以外の他人に詳しく話すのは初めてだ。なぜか彼女には素直に話せた。
「そう…… それはつらいわね」
「うん…… 正直言うとね、もういつ死んでもおかしくないらしい」
「そうなの?」
「うん、まあここ一、二年はずっとそうだったんだけど、ここ最近は特に厳しいらしい。見た目は元気にみえるけど、血液検査の結果とかが相当悪くて」
「そうなの……」
「うん……」
委員長は帰り際おっかない言葉を残していった。
「ねえ、君って」
「うん?」
「シスコンなのよね。しかも重度の」
「ぶっ!」
「いいんだ、私気にしないし。それに……」
「それに?」
「君ってやっぱりいい人ねってこと」
「え? え?」
「それじゃまたね。お姉さんくれぐれもお大事に」
今ひとつ要領を得ない彼女との会話だった。
ここではたと気づく。姉を四十五分以上放置してたことに。
姉は盛大なふくれっ面をしてたたずんでいた。しまった。失態だ。大失態だ。僕はひたすら謝ったが姉の機嫌は直らなかった。僕はまるで姉の下僕のように姉につき従うしかなかった。姉の指示でいくつかのチョコを買い物かごに放り込む。親父の、兄ちゃんの、おふくろにまで…… ない。ない。僕のチョコがない! 訴えるように姉を見ると怖い顔を返してくるばかりで終始無言だった。
うちに帰って、翌日のバレンタインデー当日。夕ご飯の後、姉がチョコをみんなに配る。これはお父さん、これはお母さん、兄ちゃんは今度うちに来たときね、と。いずれもハート型だったり、凝った包みに入っていたりと、もらったら嬉しそうなものばかりだ。確かに僕は甘いものが苦手で小さなチョコがいいとは言ったけれども、何ももらえないとなると話が違う。気持ちの問題だ。特に、姉からなにももらえないとなると精神的ダメージが大きい。親父とおふくろは不思議そうな顔をして、僕はしょんぼりしたところで姉がポケットをごそごそあさる。
「あ、そうだった。ゆーくん」
期待に表情を明るくする僕。
「ゆーくんにはこれ」
姉が無表情でテーブルにおいてくれたチョコは、コンビニで二十円で売っているチョコだった。「サバカカオミソ味」と意味の分からないことが書いてある。
「…………」
「どお? ありがたいでしょ。ありがたいよね。ありがたく食べなさいね」
「…………」
僕は「サバカカオミソ味」のチョコを食べた。姉のポケットの中で半部溶けかかってぐにゃぐにゃになって生温かいそれは生臭くて、甘くて、変にしょっぱかった。さらに涙のしょっぱさも加わった。こんなにしょっぱいバレンタインチョコは初めてだった。
これからは絶対に姉のそばをひと時とも離れない、そう心に誓った僕だった。
僕は部屋に戻る。机の下に隠した紙袋を引っ張り出してくる。今朝、僕の下駄箱に入っていたやつだ。
その紙袋の中には包装紙に包まれたチョコレートが入っていた。包装紙を解くとそこからはらりと一枚の小さなかわいらしいメモが落ちる。
そこには「本命ですから!」と直筆で書かれてあった。委員長の筆跡だった。
これは姉に知られず僕一人で密かに食べていこうと思った。ばれたら絞め殺されかねない、そう思って僕は苦笑した。
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